ビルの裏、うずたかく積み上げられたゴミの山で、私は一人の男を拾った。
彼はヒーローだった。
彼の名は――ワイルドタイガー。





◆raindrop◆ 1





その日私は朝早く、冷たい氷雨の降る中を傘を差して歩いていた。
早朝の街はまだ誰も居ない。
特に今日は重く垂れ込めた陰鬱な空からしとしとと雨が降り注いでおり、雨に濡れた指先がすぐに凍えてしまう程の寒さだった。
私は、前日から徹夜をして残っていた仕事を仕上げ、漸くのことで夜明け前に仕事が終わり、その日はそのまま帰宅して休むつもりだった。
傘を差して、誰も居ないまだ薄暗い中を歩く。
アスファルトに水たまりができ、しとしとと降る雨がそこに同心円状の輪を描いて落ちていく。
会社から駐車場まで5分ほどの距離があった。
近道をするため、普段は誰も通らないようなビルの裏側を歩く。
そこに、……いつも見慣れたうずたかく積まれたゴミの山の上に、一人の男がぼんやりと佇んでいるのを目にした。
驚いて立ち止まり、ゴミを見上げる。
男は、びしょ濡れだった。
ゴミにぺたりと尻をついて空を見上げている。
浮浪者か、或いは精神異常者でも紛れ込んだのだろうか。
このゴールドステージにしては珍しいことだ。
こんな不審な人間とは関わらずに帰ってしまおうと思ったが、それにしてはその男の様子がいわゆるジャンキーや犯罪者とも違った雰囲気だったので気になった。
その男は、一見すると年齢不詳だった。
若くて遠目からは少年のようにも見える。
この冷たい雨の中で、なぜゴミの山の上などにいるのだろうか。
顔を空に向けて、ぼんやり、流れていく重く垂れ込めた雲を見上げている。
近寄ってみると、少年ではなくて、それなりに年齢のいった人間である事がわかった。
しかし、正確な年齢は分からない。
髪の色や顔立ちからして日系人のようだった。
よく見ると、顔に痣ができていた。
夜中に喧嘩でもして袋だたきにあって、このゴミの山に捨てられたのだろうか。
そんな輩と関わり合いになるのは避けた方がいい。
知らない振りをして通り過ぎてしまうか。
そう思ったが、なぜか足は彼の方に向いていた。
抱えていた書類ケースをビルの壁に凭れさせて置き、注意深くゴミの山を登る。
ポリエチレンの袋はがさがさと音を立て、ぽつぽつと降り注ぐ雨がたまっていて、そこに足を入れると靴を通して冷たい水が染みこんできた。
おろし立てのスーツにも水が染みこんで、私は顔をしかめた。
会社に入って15年ぐらいになる。
その15年の中で一番上等なスーツを買ったばかりだというのに、なんでこんな事をしているんだ。
このスーツは、私が課長に昇任した祝いに、自分で買ったものだ。
かなり奮発して買ったブランド品であるだけに、それが濡れてしかもゴミに汚れていくのは辛かったが、ここまで来たら仕方がない。
とにかく、ゴミの山の上で呆けている男に近付いて、彼が一体何をしているのか、それを見極めたかった。
「おい、どうしたんだ?」
近付いて、彼に傘を差し掛ける。
彼が、『ん?』というような様子で顔を上げてきた。
長めの黒髪がぐっしょりと濡れてぴったり貼り付き、その間から大きな茶色の瞳が私を見上げてくる。
顎髭が生えているが、その顔はとても幼く見えた。
やはり年齢不詳だ。
もしかしたら私と同じぐらいの年なのかもしれないが、若く見える。
殴られた痕だろうか、唇の横が腫れていた。
身体は、と見ると、すっかり濡れてシャツが身体の線に添って貼り付いていて、彼の身体、特に上半身の身体の線がよく分かった。
驚くほど見事な身体だった。
細身で引き締まった肉体に、筋肉が理想的についている感じだ。
かなり鍛えているようだった。
これなら喧嘩も強そうだが…。
よく見ると、周囲に、着ていたと思しきジャケットや、身につけていたらしい小物類が散らばっていた。
「おい、どうした。大丈夫か?」
声を掛けても、彼は呆けた表情で小首を傾げるばかりで何も言わなかった。
頭がおかしい人間なのだろうか。
としたら困ったものだ。どうするか。
肩に手を掛けてみると、シャツ越しの身体は驚くほど冷たかった。
まるで氷のようだ。
私はその身体のあまりの冷たさにぞっとした。
これでは程なくして死んでしまうだろう。凍死だ。
そう思うと、ここで彼に気付いてしまった自分が、この男を放り出して逃げてしまうわけにも行かなかった。
確実に凍死する事が分かっている人間を放り出すなどできるはずもない。
とにかく、このままにはしておけない。
警察に連絡するか、それとも病院にでも連れて行くか。
全く厄介な事に巻き込まれてしまったものだ。
私は頭を抱えた。
なんとかしなければならない。
取り敢えず、周りに散らばっていたジャケットや小物類を拾い始める。
上質なブランド物のジャケットにネクタイ、ハンチング帽。
それから、腕時計にパワーストーンのようなブレスレット、通信機。
それに………、最後にもう一つ、ゴミ袋の上に放り投げられていたものを拾い上げる。
これは、アイパッチか?
――そうか。
ここで私は突如、この呆けたようにゴミの山に尻を着いている男が誰だか分かった。
このアイパッチや、服、それによくよく見てみると顔にも見覚えがあった。
見覚えがありすぎるほどの人物だ。
この男は、ワイルドタイガーじゃないか。
昨日、会社で残業しながら何気なしに見たテレビを思い出した。
タイガー&バーナビーの、バーナビーの方が出動して犯罪者を逮捕する場面だった。
昨日そういえばタイガーは出動していなかった。
一体何をしていたのか?
分からないが、彼はここにいて、こうして雨に打たれて呆けている。
名前を呼んでもいいのだろうか、私は瞬時迷った。
「君、ワイルドタイガーだろう?」
そう声を掛けてみる。
すると彼がぴくっと反応し、顔を上げて私をじっと見つめてきた。
丸く潤んだ琥珀色の瞳が揺れ、少しぽってりとした唇が半開きになって震えて、何か言葉を紡ぎ出そうとしている。
寒くてしゃべれないのかも知れない。
――よし、彼を私の家に連れて行こう。
何があったのか分からないが、この男はワイルドタイガーだ。
ワイルドタイガーと言えば今大人気のヒーロー、タイガー&バーナビーの片割れで、どんな理由であれ、彼が濡れ鼠になってこんなゴミの山に埋もれていたなどという事を他人に知られてはいけないような気がした。
私は彼のジャケットや小物類をひとつにまとめると水を吸って重く冷たいそれを小脇に抱え、それから慎重にタイガーの身体に手を掛けた。
「立てるか?」
タイガーの右腕を掴んで肩に担ぐ。
殆ど感覚が無いのだろう、彼の身体はすぐに崩れて力無く項垂れてしまう。
その彼をなんとか引き摺るようにしてゴミの山から降ろす。
おろしたてのスーツはすっかり水でぐっしょりと濡れ汚れてしまった。
仕方がない。
書類ケースを左手に持ち、タイガーを右手で抱えながら漸くの事で駐車場に辿り着く。
車を開け、彼を後部座席に押し込める。
彼は何も言わず抵抗もせず大人しくされるがままになっていた。
やれやれ、なんとかなった。
タイガーを座席に押し込め、私は運転席に座った。
後部座席を振り返ると、ソファの上にぼんやりと倒れ込んで、タイガーは身体を丸めていた。
まるで捨てられた子猫のようだった。
焦点の合わない瞳はどこを見ているのか分からない。
唇も震え、青ざめて血の気のない顔は死人のようだった。
一体どうしたのだろうか。
つい一昨日まで、彼はコンビを組むバーナビーと共にヒーローとして華やかに活動していたはずじゃないのか。
訳が分からない。
車を発進させ、私は自宅へと向かった。










私の自宅はゴールドステージの西の外れ、閑静な住宅街にある高層マンションの一室だ。
気楽な独身暮らしで、誰に気兼ねする事もないから、マンションの地下駐車場に車を駐めると、ぐったりとしたタイガーを抱え込み、エレベータに乗った。
早朝なので誰も居ない。
本人認証を済ませて部屋に入り、タイガーをそのままバスルームへと連れて行く。
濡れて身体に貼り付いている服を苦労して脱がせると、バスタブに彼を突き飛ばすようにして入れ、上から温かなシャワーをかける。
びく、とタイガーが反応し、ぼんやりと私を見上げてきた。
バスタブにたっぷりのお湯を張って彼を暖める。
そうしておいて、私は自分の濡れて汚れてしまったスーツを脱いで、部屋着に着替えた。
クリーニングの袋に私のスーツとタイガーの濡れた服一式を詰め込み、部屋から直結のポストにそれを投げ入れる。
そうするとそれは1階の管理人の所に届いて、管理人の方でクリーニングに出してくれる事になっていた。だいたい2時間程度で戻ってきて、自動的に私の部屋まで届けられる仕組みになっている。
取り敢えずこれで服の方は片付いた。
あとはタイガーのアイパッチと時計、ブレス、それに白に緑の縁取りのついたこれはきっと、ヒーロー専用の通信機なのだろう、それらを拭いて綺麗にすると私はテーブルの上に並べた。
持ち物はこれだけだった。
バスルームにタイガーの様子を見に行くとすっかりお湯で暖まったのか、彼は血色を取り戻していたが、相変わらず呆けた感じでバスタブに浸かったままだった。
どうしたのだろうか、この放心状態は。
ただ寒くて凍死寸前だったから、というだけではなく、何かがあったのだろうか。
誰かに連絡した方がいいのだろうか、と心配になった。
連絡をするとしたら彼が所属しているアポロンメディア社になるのだろうか。
だが、彼がこんな状態になっているという事をどうやら誰も知らないようだ。
通信機からは何の連絡もないし、タイガーが失踪したなんていうニュースも聞かない。もっともそういう事がニュースになればという事だが。
とすれば、こっちからは連絡をしない方が良いのかもしれない。
とにかくタイガー自身がなんらかの行動を起こすまで待っていた方がいいだろう。
私はそう思った。
「大丈夫か?」
と聞くと、暖まったせいで意識ははっきりしてきたのだろうか、タイガーが私を見上げてきた。
やはり年齢不詳だ。
過去にテレビなどで彼がインタビューを受けている場面は見た事があるが、その時の彼は生き生きとした表情でくるくると目線が動き、とても闊達で元気の良い人物に見えた。
確か、今年でヒーロー11年目だったか…とすると、やはり年齢は私と同じ30代半ばぐらいなのかも知れない。
それにしてもやはり自分よりは随分と若々しく見える。
ぼんやりとしている頬に触れてみると、すっかり暖まって体温を取り戻したようだった。
もう大丈夫だろう、そう思ってバスタブのお湯を抜いて彼を立たせる。
立つには立ったがふらついていて、まだ私が支えていてやらないと駄目なようだった。
まるで図体だけが大きい赤ん坊のようだった。
バスタオルで身体を拭き、部屋に連れてきてドライヤーで髪を乾かしてやる。
彼はまるっきりされるがままだった。
やはり図体の大きい赤ん坊だ。
普段のワイルドタイガーはワックスか何かで髪を立ち上がらせているのだろうか、そういう風になっておらず前髪が下りている彼は20代の若者に見えた。
顎髭さえなければもっと若く見えるかも知れない。
鍛えているだけに年齢よりもずっと若々しい身体は、艶やかな浅黒い肌に張りがあって筋肉が美しく付いており、男の私から見ても惚れ惚れするような肉体だった。
それにしても、一言もしゃべらないし、相変わらず呆けているのには困った。
どうしたものだろうか。
「タイガー君」
そう呼ぶと、ぴく、と反応して私を見てくるのだから、聞こえてはいるのだろう。
どうしたらいいだろうか。
取り敢えず来客用に揃えておいたバスローブを彼に着せる。
男同士とは言え、全裸を見ているのはさすがに目の毒だった。
特に彼のように美しく鍛えられた理想的な肉体を間近で見たり、引き締まった細い腰や下腹部を目にするのは、同じ男でも微妙に胸が騒ぐ。
バスローブを着せてソファに腰掛けさせる。
タイガーは私にされるがままにソファに力無く腰を下ろし、背もたれに頭を凭れさせた。
気になって頬を少し叩きながらもう一度名前を呼んでみる。
「君はワイルドタイガーだろう?どうしたんだい?」
そう聞くと、伏せていた瞼があがって私をじっと見つめてきた。
不思議な目の色をしていた。
濃い茶色で深みがあるかと思えば、少し光が当たって琥珀色に煌めいたりもする
目線が揺れて黒く長い睫が震え、それからすっと逸らされて目が伏せられる。
「腹、…減った…」
突然彼がぼそっとしゃべったので私は驚いた。
意識ははっきりしているようだ。
「あ、そう。お腹が減ったのかい?じゃあ何か作ろう。軽い物でいいかな」
そう言うと、彼が小さく頷いた。
寒さで意識が混濁して脳がやられてしまったのかと危惧したが、そうでもないようだ。
私はほっと安堵しながらキッチンに向かった。










暖めたミルクにハムとチーズのサンドウィッチぐらいしか作れなかったが、それで私も彼と共に朝食を取った。
「どうぞ」
というと、彼がゆっくりと手を伸ばしてまずミルクを飲む。
飲んで少し息を吐いて、それからサンドウィッチに手を伸ばす。
もぐもぐと食べる様子は、20代の若者という感じで、私よりずっと年下にも見える。
食べて人心地がついて身体も暖まったからか、唇の右端の、どうやら殴られた痕らしい所が痛むようだ。
「そこ、痛いのかな?」
聞くと、タイガーが小さく頷く。
痛み止めの薬を持っていたから、私はそれをタイガーに水と共に渡した。
「これ、飲むといいよ」
タイガーが再度こくんと頷いて水と共に薬を嚥下する。
「どうしてあんな所にいたんだ?」
そう問い掛けると、彼が目を上げて、困ったように目線を揺らした。話したくないらしい。
「別に答えなくてもいいよ。ここがどこか分かるかい?」
と言うと首を振る。
「私の会社のビルの後でね、君がぼんやりして冷え切っていたのを拾ってきたんだよ。ここは私の家だ」
「そ、う、ですか…。すい、ません…」
掠れた声でそう言ってきたので、私はなんだか嬉しくなって肩を竦めて笑った。
彼が話すと、年相応の声なのだが、どこか少年のようで可愛らしい。
「いや、気にしなくていいよ。君の服濡れていたからクリーニングに出してある。あと2時間ぐらいで届くからそれまで待っていてくれるかい?」
そう言うと、彼が申し訳なさそうに目を伏せて頭を下げてきた。
「すいません…」
「いいって。ところで、身体の方は大丈夫かな?殴られた痕があったようだけど」
「…あ、大丈夫です。このぐらい…」
「それなら良かった。ところで君のこと、タイガー君って呼んでいいのかな…?」
そう言うと、彼はちょっと首を傾げてどうしたものか、と迷っているようだったが、それから顔を上げて言ってきた。
「コテツです。…コテツって呼んでくれますか?タイガーは仕事してるときの呼び方だから…」
ヒーローは本名や素顔を明かさないのが普通だと思っていたから私はちょっとびっくりした。
確かに彼の相棒のバーナビーは名前も彼も晒しているが。
「そっか、君の本当の名前はコテツって言うんだね」
そう言うとまた小さく頷く。
それにしても随分と彼のガードが緩い気がした。
私はワイルドタイガー自体は11年前から知っているが、他のヒーローと同じく、タイガーも名前やプライベートは決して明かさずにいたから、彼のプライベートについては何も知らなかった。
彼の名前が聞けたのはもしかしてラッキーだったかも知れない。
私はなんとなく嬉しくなった。
外はまだ雨が降り続いている。
しんと静まりかえっていて何の音もしない部屋を私は気に入っていたが、今日はそこに、思いも掛けない客が来たという事で、いつもよりも気分が上がっているようだ。
この男は私が拾ってきた。
雨で濡れ鼠になって捨てられた猫のように震えていたのを拾ってきたんだ。
ヒーローである彼がなぜそんな風になっていたのかは分からないけれど、私に懐いてきてくれている様子なのが嬉しかった。
会ったばかりだと言うのに、彼が私に心を許している感じなのが分かったからだ。
「どうする、少し眠るかい?実を言うと私は徹夜で仕事をしていてね、朝方帰ってくる時に君を見つけたんだ。だから寝ようと思うんだけど、君はどうする?会社の方行かなくていいのかな?もし大丈夫なら一緒に少し眠らないか?君も一晩中あそこで雨に打たれていたんだったらすっかり疲れているだろう」
そう言ってにっこり笑うと、彼が私の笑顔を見て少しだけだが表情を緩めた。
そうすると元々垂れている目尻が更に垂れて、ちょっと困ったような、愛らしい表情になる。
彼が同意したようなので、私は、彼の手を取って寝室に案内した。
「ベッド一つしかないけど、勘弁してくれよな?」
ちょっと愉快だった。
なぜかワイルドタイガーと添い寝をすることになったという自分が、非現実的で面白い。
彼がもそもそと私の隣に入り込んできた。
ふんわりとブランケットを被せ、彼をそっと抱き締めるようにすると、大人しく私の胸の中に収まってきた。
同じ年代のはずなのに、なぜか彼が随分と年下のように思えた。
背中をぽんぽんと叩いてやるとそのまま身体を丸めて目を閉じてくる。
僅かにカーテン越しに雨の気配がする。
彼を抱き締めたまま、私もいつしか心地良い眠りに入っていった。




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