◆raindrop◆ 3
その後、べたべたになった身体を軽く拭き、それから私たちはまたベッドで少し眠った。
乱れたベッドの中で全裸で、抱き合って。
体温が一つになって暖かく、乱れたシーツは意外なほどに心地良くて、心も身体も解放されるようだった。
次に目を覚ました時は既に、夕方近くになっていた。
寝室のカーテンは、ベッドの所でリモートコントロールができる。
カーテンを少し開けると、さっと夕方の淡く薄い日の光が差し込んできた。
彼が身動ぎをして、私と一緒に窓の方を見る。
空はまだ灰色の濃い雲が流れていたが、その雲が一カ所切れていて、切れ間からすっきりと澄み切った青い空が覗いていた。
何層にも折り重なった雲の一番端がまばゆく金色に光って、そこから太陽の光がすっと光の筋を何本も地上に降りている。
私たちはその光景を黙ったままベッドの中から見た。
彼がそっと身体を擦り寄せてきて、私は彼の髪にキスをし、肩を撫でた。
足を絡ませ合い、時折彼の頬や瞼にキスをしたり、目元を舐めたりしながら。
彼は私が目元を舐めればくすぐったそうに瞳を細め、それから甘えるように私の首筋に顔を埋めてきた。
私たちはそうやってじゃれあいながら遙か窓の向こう、盛り上がった何層もの雲が金色に輝き、それからオレンジ色に光り、そこに太陽がまばゆく煌めくのを眺めた。
そうして彼を愛おしんでから、私は彼の身体をゆっくりと離し、ベッドから降りた。
もう、別れる時間が迫ってきていた。
私がベッドから降りると彼が上体を起こし、すがるような目で私を見上げてきた。
行かないでくれ、とその目は言っていた。
そのまま抱き締めて、彼を私の物にしてしまいたかった。
腕の中に閉じ込めて、私が守ってやる。
今ならできそうだった。
彼は私を欲している。私を必要としている。
それは、途轍もない誘惑だった。
ベッドに戻って彼を抱き締めさえすればいい。
そうすれば彼は心細そうな顔を笑顔にし、私に身体を預けて安堵するだろう。
でも私はそうはしなかった。
私はクリーニングから戻ってきていた服を彼に差し出して、にっこりと笑った。
「さぁ、もう帰らないとね、コテツ君」
「…………」
彼の眉がきゅっと寄せられ、目尻が下がる。
泣きそうなその顔は愛らしくて切なくて、私は胸がずきんと痛んだ。
(ごめん、でも…)
彼が俯く。
私は俯いた彼を包み込むようにふんわりと抱き締めた。
乱れた黒髪を撫で、額に尊敬の念を込めてキスをした。
「コテツ君、君が今何を考え悩んでいるのか私には分からない。君は普段ヒーローとして責任の重い仕事をしているから、私には計り知れない何かがあるんだろうと思う。でも大丈夫。君なら絶対大丈夫だよ」
私は何度もそう繰り返した。
彼は身動ぎもせずじっと私の腕の中で聞いていた。
「ね、シチューを作るときってさ?」
突然脈絡のない話をし出したと思ったのか、彼が顔を上げた。
間近で目線が合う。
目の色は今は深い茶色に沈んでいた。
私はその目に向かって笑いかけた。
「シチューってさ、まず材料を一度に入れて、それで蓋を閉めて開けないようにして煮込まないと美味しくできないよね」
彼がやや不審そうな表情をする。
私は肩を竦めて笑った。
「シチューの材料が悩みの原因となるような事実って思ってくれないかな。何か問題が起こったら、集められるだけの事実を集めてそれをシチュー鍋に入れる。入れて煮込んで、煮込む間は絶対に蓋を開けない。その間は考えても心配しても、仕方がない。時間がまだ経ってないから。そのうちに時間が経っていつの間にか美味しいシチューができてるんだ。だから君が今何か辛い事があっても絶対大丈夫。時間が経てば必ずなんとかなる。解決策がいつのまにか鍋の中にできてる」
そう言うと彼はやはり困ったように眉を寄せながら、目を伏せた。
考えているようだった。
「それからね、コテツ君、私は人生にはほんの少しの無駄もないと思ってるんだ。私は今日、君に会った。君は今日、私に会った。これはきっと人生の貴重な1ページなんだ」
彼は目を伏せたままだった。
暖かな身体を私は慈しむように撫でた。
「君がゴミの山の中で雨に打たれていたことも、きっと君の人生にとっては絶対に欠くことの出来ない貴重な1ページで、どんな時でもどんな事にもちゃんと意味がある。私はそう思ってる。君に会えて良かった。君とこうして1日過ごせて良かった。君が好きだよ…」
好き、という時に少し声が震えてしまった。
もっと、もっと溢れるような思いが心の中にあった。
けれど、それは私が自分で処理しなければならない気持ちだ。
彼にぶつけていいものではない。
「そうだ、これ…」
私はベッドサイドに置かれていたバッグの中から名刺を取りだして、裏側のメモ欄に私個人の携帯番号とメールアドレスを書いて、その名刺を彼に渡した。
「はい、君が絶対大丈夫だっていうお守り。なんて言うほどたいしたものじゃないけど、ここから私に連絡してくれよ。いつでも大歓迎だから。待ってるから、ね?」
そう言って宥めるように彼の肩をぽんぽんと叩いて、身体をゆっくりと離す。
身体を離すとき、心が千切れるような思いがした。
このままずっと、ずっと彼を抱き締めていたかった。
体温を感じて、守ってやりたかった。
名刺を渡してはみたけれど、彼が私の手を離れて一人になってここから出て行けば、きっと彼はもう二度と私の前に現れないだろう、私はそう感じていた。
彼が、こうして弱い一面を見せているのは今だけだ。
元々彼はとても強い人間なのだ。
私なんかとは比べものにならないぐらい。
普段なら、私の方が彼に守られるべき一市民なのだから。
彼が顔を上げて、寂しそうに微笑んだ。
たまらなくなって私は、彼の背中に手を回し強く抱き締めた。
それから最後に、私たちはしっとりとした深いキスを交わした。
もう、お互いに30を過ぎたいい年だ。
はっきりと白黒を付けるような、そんな潔癖な年代でも無かった。
だからさよならは言わなかった。
またすぐに会えるような気持ちで、そうして別れたい……。
彼が服を着て出て行くのを玄関まで見送る。
ここがどこか今の彼にはちゃんと分かっているようだし、一人で帰れるとも言ったからそこから往来まで送ることもしなかった。
「そう、…じゃあ、またね?」
そう私は言った。
「あぁ、またな、カート…」
ハンティング帽を被り、右手にヒーロー専用のPDAを嵌め、きちんとした服装になった彼は、いつもの、ヒーローのワイルドタイガーに戻っていた。
一瞬、目線が交差して、彼の琥珀色の瞳がじっと私を見た。
私も彼を見つめた。
それから彼は身体の向きを変えると、扉を空けて出て行った。
ゆっくりと、しかし確実に足音が遠ざかる。
出来る限り耳を澄まして聞いていたが、やがてその足音も聞こえなくなった。
今までの馴染み深いしんとした部屋が戻ってきた。
いつもの日常だ。
この静まりかえった雰囲気が好きだった、――はずなのに。
突如、切なくて切なくて、どうしようもなくなって、私は崩れるように床に膝を突いた。
窓から夕方遅くの濃いオレンジ色の最後の夕日が、部屋の奥まで差し込んでいた。
それは私の顔を照らし、足下を照らし、乱れたベッドを照らした。
私はいつまでも、…夕日の最後の光が薄くなって、消えていって、部屋に静かに闇が忍び寄るまで、…そのままずっとそれを眺めていた…。