◆四面楚歌◆ 4
「どうしました?」
不意に声が耳元で聞こえて俺は驚愕した。
慌てて顔を上げると、ペトロフが立っていた。
「こんな暗い所で…あぁ、見つかるかも知れないから明るくできなかったんですね。大丈夫です。ここは私のアパートでもありますから」
そう言って彼は照明を点けた。
ぼんやりと部屋が明るくなる。
照明も薄汚れていて、あまり明るくもならなかったが俺はかえってそのぐらいの方が良かった。
「おや、泣いていたのですか?」
彼にそう言われて俺は俯いた。
泣いていたのはその通りだが指摘されると恥ずかしかった。
「どうしました?心細いのですか?私がいますよ?」
彼は俺の隣に腰を下ろすと俺の頭を慰めるように抱きかかえてきた。
きっと俺があまりにも情けなく泣いていたから俺に同情してくれたのだろうが、俺は胸が一気に一杯になって反対に嗚咽を堪えきれなくなった。
それは俺が朝から追われ通しだった事。
ロイズさんから冷たくあしらわれた事。
ヒーロー仲間が俺を公然と追っている事。
俺が誰からも忘れ去られていた事も原因だった。
ペトロフだけが俺を知っていた。
今こうして彼の体温を感じていると、それだけで俺は自分が存在しているという事を確認することができた。
俺は鏑木虎徹で、ワイルドタイガーで、ヒーローを10年以上やってきた男だ。
俺以外にワイルドタイガーというヒーローはいない。
ワイルドタイガーはタイガー&バーナビーというコンビでヒーローをやっていて、バニーの相棒は俺、鏑木虎徹で、公私ともに俺たちは仲良くやっていたのだ。
バニーの事をまたしても考えてしまって、俺は涙が止まらなくなった。
ペトロフが黙って俺を抱き締めていてくれるのを良いことに、俺は彼の肩に顔を押しつけて泣いた。
こんな風に俺は自分が弱い所のある人間だとは思っていなかった。
俺はもっと逆境に強くて、ちょっとやそっとじゃへこたれない性格だと思っていたのだが、実はそうでも無かったようだ。
たった一日、追われただけでこの有様だ。
それも、俺一人では到底逃げ切れなかっただろう。
こうして危ない所を身近とは言えない人物に厚意で助けて貰って、漸くこうして息を吐いている。
「タイガー…顔を上げて?」
耳元で彼のよく響く声がした。
不思議と心が落ち着くような声だった。
裁判官をしている時の彼の声しか聞いたことがなかったが、その声ともまた違った響きだった。
どちらも落ち着いていて聞く者を峻厳とした気持にさせる所はあるが、今の彼の声はずっと柔らかかった。
顔を上げると、間近に彼の顔があった。
ふと…柔らかく唇が重なってきて、俺は呆気にとられた。
キスはほんの少しの時間、一瞬だった。
すぐに顔が離れて、彼の薄い銀色の瞳が俺を見つめてきた。
「バーナビーの事を考えていたのですか?」
彼が俺の心の中をぴたりと言い当ててきたので、俺は驚愕した。
息を飲んで目を見開いたまま彼を見ると、彼はすっと双眸を細めた。
「貴方たちの事はある程度調べてあります。ヒーロー管理官としての私の勤めでもありますし…それに単純に貴方に興味があったから、とも言えますが…」
「……」
俺の視線に気付いてか、彼はふっと口元を緩めた。
「あなたたちが所謂恋愛関係にあった事も知っていますよ。ただ、バーナビーも恐らくは、今現在は貴方を恋人としても認識していないでしょう。今のバーナビーにとって貴方は、彼の家の家政婦を殺した殺人犯。それ以上でも以下でもありません」
「………」
そうだろうとは思っていたが改めて他人から言われるとやはりショックだった。
バニーはやはり、俺をもう、俺として認識していないのだろう。
バニーの中に俺は今現在いないわけだ。
今までの思い出も全部、失ってしまったのだろうか。
あんなに俺に熱烈に『好きだ』と言ってきた事も。
二人で共有した時間も。
熱情も愛情も何もかも。
全て。
「考えても致し方ない事です、タイガー。今は考えないように」
ペトロフがそう言ってきたが、言われてできるようなら苦労は要らない。
俺は唇をきつく噛んで俯いた。
涙はもう堪えようと思った。
彼の前で泣くのは嫌だった。
だが、そうは思っても後から後から涙が溢れてくる。
涙腺が壊れてしまったように。
「今日はもう遅い。いろいろな事を考えるのは明日にしましょう。ここに隠れている限り貴方は大丈夫。これからのことは慎重に考えないといけません。分かりますね?」
俺は小さく頷いた。
「では私はこれで。明日の朝また来ます」
彼がそう言って立ち上がろうとしたのを、俺は無意識に引き留めていた。
彼の腕を掴み、肩口に顔を押しつけて、行かせまいとした。
「タイガー…?」
「なぁ、ここに居てくれよ、駄目か…?」
俺は震えてままならない声を無理矢理に紡いだ。
一人になりたくなかった。
先程3時間程一人でいただけてあれだけネガディブな事ばかり考えてしまったのだ。
特にバニーの事を考えるともう、どうしようもなかった。
ここでペトロフが帰ってしまったら俺は明日の朝まできっとバニーのことを考えて発狂しそうになるに違いない。
いや、発狂すると思った。
自暴自棄になって、この部屋から抜け出してヒーローに捕まりに行ってしまいそうだった。
バニーに会いたくなってそうしてしまいそうな自分を抑える自信がなかった。
誰かに傍に居て欲しかった。
すがりたかった。
そんな事を頼むのは我が儘で、自分勝手で到底許容されるようなものでもないとは分かっていたが、それでもなりふり構っている余裕はなかった。
俺がペトロフの腕を強く掴むと、彼は溜息を吐いた。
「一つ言っておきます。私はゲイなんですよ。貴方がバーナビーと恋愛関係にあると分かってもいます。それで一晩貴方は居て欲しいと言う。分かります?私を引き留めるという事は、貴方は私と寝てもいい、という意味ですよ…いいのですか?」
彼の瞳は銀色に光っていた。
間近で眺めて俺はその吸い込まれそうな色に思わず息を飲んだ。
俺はなんでも良かった。
バニーの事を考えたくなかった。
考えると胸が潰れそうだった。
一晩じっとここで我慢する事など絶対にできそうになかった。
目の前の男だけが俺を救ってくれる。
あぁ、構わない、と俺は答えた。
構わない。
いやむしろそうして欲しい。
俺の中からバニーに対するこの狂おしい思慕を一晩、消し去って欲しかった。
頭の中で渦巻く焦燥を蹴散らして欲しかった。
何も考えたくない。
思考を止めたい。
全て停止させたい。
「そうですか。…分かりました」
彼が静かに言った。
ゆっくりとベッドに押し倒されて、俺は何故か安堵した。
彼がいてくれれば大丈夫だ、そういう気がした。
ギシ、と粗末なベッドが音を立て、男二人分の重みを受けて軋んだ。
俺は目を閉じて彼の頭の後に両手を伸ばし引き寄せると、その薄い唇に自分から唇を押し当てていった。