◆すれ違いあっちこっち◆ 10
それから数日、バーナビーは自分なりに考えて、考えに考えを巡らせた末、今回の事の顛末の大元に当たる人物に相談した。
連絡をしたのはファイヤーエンブレムことネイサン・シーモアだ。
二人だけで話がしたい、というと、察しの良い彼女はだいたいどんな内容か分かったようで、
「いいわよ、じゃあ、ここで」
と言って、彼女の経営する店の一つ、上流階級相手のバーの奥まった個室を指定してきた。
上品な装丁の施された部屋で、店一番のカクテルをご馳走になって、何も無ければその店の雰囲気や酒の味を楽しめる所だったが、今回はそうも行かなかった。
「……お願いしていいですか?」
「……えぇ?……まぁ、別にその、いいけど。…ん、まぁしょうがないのかしらね…」
バーナビーがネイサンに頼んだのは、自分にも催眠術をかけてほしいという事だった。
それも自分が虎徹の事を好きではなくなるように、虎徹に執着をしなくなるように、という内容の催眠をかけてくれという内容だ。
当然何故、そんな事を頼むのか聞かれた。
その理由についてバーナビーはネイサンに、事の顛末を一切合切大まかにだが打ち明けた。
虎徹に催眠をかけて、その日はうまく行った事。
元々彼の事が好きで、想いが成就して有頂天になっていたこと。
その後も彼と関係を続けたけれど、虎徹が自分の事を恋愛感情の意味では何とも思っていない事が辛くて、どうしようもなくなった事。
自分がこういう思いを胸の中に抱いているのが全ての原因なのだから、それを無くしてしまえば解決するはずだ、という事。
カクテルグラスを口に運びながら、ネイサンが肩を竦めて溜息を吐いた。
「ま、考えてみたら、あたしがタイガーに催眠をかけたのが、原因だものね」
「いえ、それは違います。催眠は一つのきっかけであって、結局僕は虎徹さんの事を好きだけれど、虎徹さんはそうではない、という事ですよ。それならそれであきらめればいいのに、僕が諦めが悪いどうしようもない男だったってだけだと思います」
「そんな風に言ったら身も蓋もないわよ、ハンサムなのに」
そう言われてバーナビーは自嘲気味に笑った。
「ここ数日いろいろ考えたんですけれど、やっぱり僕が虎徹さんを手放すのが一番いい、って思うんです。
まあこれも自分のためですけどね……。自分が苦しいから辛いから、そこから逃げようなんて卑怯にも思ってるわけですから」
「卑怯って事は無いわよ、ハンサム。あんたは本当に純粋なのねぇ…。こんなに思われてタイガーも幸せだろうに…って、うまく行かないものねぇ?」
「仕方がないですよ、虎徹さんはノーマルで結婚もしていたし、それに誰からも好かれる人ですからね…」
「分かったわ。はい、じゃあ……、これに集中して…?」
ネイサンが鞄の中から催眠術道具一式を取り出す。
個室の間接照明に照らされてきらきらと七色に煌めく雨雫型のクリスタルガラスに、バーナビーは意識を集中した。
クリスタルガラスがゆっくりと動き始める。
ネイサンが催眠の時の定型の文言を唱え始める。
目はクリスタルガラスに、耳はネイサンの声に集中していると、それ以外の音やものが感じられなくなり、バーナビーの意識はいつしかすっと帳が降りたように暗くなっていった。
―――パンパンパン。
「はい、終わりよ」
次に意識を取り戻した時、周囲は意識を失う前と全く同じだった。
ただクリスタルガラスは目の前には無く、ネイサンが座っているだけだった。
「あ………?」
はっとして周りを見回す。
自分が飲みかけのカクテルグラスも、部屋の様子もなんら変わったところはない。
しかし時計を見ると、5分程は経っていた。
「はい、かかったとは思うわよ、どうハンサム?」
「そ…うですね、よく分かりません…」
「大丈夫、ちゃんとかかっていたから。これであんたにとってタイガーはいい同僚、相棒ってだけで、好きとか愛しているとかそういういう気持ちは消えているはずよ?今は分からなくても、タイガーに会った時に分かるわよ」
「そうですか…」
「えぇ」
ネイサンがにっこりと笑う。
「とにかくもう大丈夫だから、あんたは解放されてるから、ね。今日はここでゆっくり飲みましょ?」
「そうですね」
ネイサンにそう言われるとバーナビーも心の中がすっきりと晴れ上がったような心持ちになった。
虎徹があれだけかかった催眠術だ。
自分だって今数分意識を手放していた。
その間にかかったと思うのが妥当だろう。
もう自分は大丈夫なのだ。
もう虎徹に無理に関係を強請ることもなければ、自分が彼に執着して苦しむこともない。
相棒として、バディとして、親密な健全な関係を築いて行けるんだ。
………良かった。
相手がネイサンだからだろうか、ほっとしてバーナビーはいつになく上機嫌で酒を楽しむことができた。
確かにネイサンの催眠術は確実に自分に作用を及ぼしているようだった。
その日以後会社に行って虎徹を見ても、バーナビーは前のように虎徹が欲しくて胸を掻き毟られるような焦燥に駆られる事もなくなったし、彼を見て身の裡が焼かれるような性欲に苦しめられることも無くなった。
彼を見ると勿論嬉しくて好きだとは思う。
けれど、その好きの中に彼を独占したいとか、胸が焼けるような切ない気持ちだとか、そういうものが無い。
憑き物が落ちたように解放された気分だった。
仕事中もにこやかに彼と話すことができる。
彼を見て感情が激変することもなく、仕事の能率も上がった。
彼が自分を見てくることがあれば、視線を合わせてにっこりと挨拶も出来る。
出動時も、意識しすぎたり反対に不自然に無視をしたりして、コンビとしての連携が乱れたり、犯人確保や市民救助に支障をきたす事もない。
……これでいいんだ。
前よりずっと楽になった。
仕事もスムーズにこなせるし、精神的な葛藤がなくなってストレスも掛からない。
本当に助かった。
前の自分とは違うのは分かるのだろう、虎徹が不審げな表情で自分を窺ってくる事が何度かあったが、その度ににこやかに笑って応対した。
虎徹が更に困惑したような表情で自分を見る。
とうとう、トレーニングセンターで二人きりになった時に近寄ってきた。
「バニー、最近さ、俺のこと呼んでくれないけど、忙しいのか?」
「呼ぶ?」
「……お前んちにだよ。…前は頻繁に泊まりに行ってただろ?」
虎徹が自分の応対に違和感を感じたのか眉根を寄せる。
以前は虎徹のこういう表情を見たら、胸が騒いで居ても立ってもいられなくなる所だった。
今は大丈夫だ。
バーナビーは虎徹に端正な笑顔を向けた。
「あぁ、虎徹さん、今まで僕に付き合ってくれてありがとうございました。もう、無理して付き合ってくれなくていいですよ?」
「……え?」
虎徹が虚を突かれたような表情をした。
「……なんで?」
「元々僕が虎徹さんに無理強いしてましたからね、本当に申し訳なかったと思っています」
「……どうしたんだ、突然。……セックスしなくて、いいのか?」
虎徹がストレートな物言いをしてきたので、バーナビーは肩を竦めた。
「えぇ、…もう、大丈夫ですから。本当に申し訳ありませんでした、あなたに卑怯な事をして。反省してますので、どうか許してくださいね?」
「……なんで、突然…?」
虎徹が困惑しきった表情で、目線を彷徨わせた。
どうしようか、理由をきちんと言った方がいいのだろうか、と考えていると、丁度よいタイミングでそこにネイサンが入って来た。
「あ、ファイヤーエンブレムさん…、すいません、こっちに来てもらっていいですか?」
「あら、お二人さん、おはよう。…なに?」
トレーニングセンターに入ってきたネイサンが首にぶら下げたタオルを揺らしながら近寄ってくる。
「すいません、虎徹さんに話してもらっていいですか?」
「…タイガーに、って、この間の事?」
「はい」
「…なんだよ?」
「あー、そぉ。……あのねぇ、タイガー。ハンサムに頼まれて、あたしがハンサムに催眠かけたのよ」
虎徹が目を大きく見開く。
ネイサンが両手の平を上に向けてひらひらさせながら続けた。
「ハンサム結構悩んでたからねぇ。あんたを好きな気持ちを消し去ってくれって頼まれたの」
「………」
「それで、そういう風に催眠かけたのよぅ…ね、ハンサム?」
「はい、お願いしました」
「タイガー、あんた、ハンサムにまとわりつかれて迷惑してたんでしょ?これでせいせいしたんじゃない?…じゃ、あたし、トレーニングしてくるから」
言うだけ行って、ネイサンがマシンの方へと去っていく。
その後ろ姿をぼんやり見つめる虎徹に、バーナビーは笑いかけた。
「そういうわけで、もう、虎徹さんにご面倒おかけしなくてすむようになりました。本当に、いろいろごめんなさい。あなたに酷い事しましたよね」
「え?…い、いや…別に…」
ネイサンの後ろ姿を見ていた虎徹がはっとして目線をバーナビーに戻す。
「これからは良き相棒、バディとして僕の事を指導してください。よろしくお願いします」
そう言って虎徹に笑顔を向ける。
虎徹が困惑したまま、微妙に笑った。
「…そっか…了解…。……あー、催眠ねぇ…」
「えぇ、すいません…。でも、あなたにもう迷惑かけなくてすみますから。っと、トレーニングしましょうか。油断するとあなたすぐさぼりますからね?」
「あー、ひでぇ。…んだよ、俺だってちゃんとやるって」
「はいはい、じゃ、一緒にやりましょう」
「お前と一緒だとオーバーワークになっちまうよ」
ぶつぶつ言いながらも一緒にマシンに向かう虎徹を見て、バーナビーはこれで良かったんだ、と思った。
健全な、相棒関係に戻れる。
自分ももう、悩まなくて済む。
虎徹が欲しくてたまらなくなったり、彼を独占したくて懊悩したり、虚しくて泣きたくなったり。
そういう気持ちにならなくて済む。
彼が他の誰と話していても、もう、大丈夫だ。
彼が自分のものになってくれなくても、そんなの当然だから、気にもならない。
彼が自分を愛してくれなくても、それだって当然だ。
自分は傷つかない。
なぜなら、自分だって彼の事をそういう意味で好きではなくなっているのだから。
彼とは、いい相棒で、親友……そういうポジションになれれば、いい。
ずっといい相棒でいられたら、それに勝る喜びはない。
彼に捕らわれて、醜い独占欲で苦しまなくて、……済む。
トレーニングをしながら時折自分を見てくる虎徹に、バーナビーは晴れやかな笑顔を向けた。