お正月
「あんれ、あそこにいるの、手塚じゃん?」
人通りの多い道を歩いていた菊丸が、視界の端に捉えたのは、よく知っている人物だった。今日は、一月一日。
本当ならば、今頃は家族総出で初詣に行っている時刻である。
ところが、菊丸は新年早々、些細なことから兄弟喧嘩をしてしまった。
菊丸の家は、祖父母入れて総勢9人の大家族である。
特に正月は、いつも忙しくてあまり家にいない父親もゆっくりしているため、いつにもまして賑やかだった。
菊丸は、そんな中で、朝から次兄と喧嘩をしてしまったのである。
いつも軽い喧嘩はよくしているが、今日のは、他の兄弟まで巻き込んだ盛大なものだった。
菊丸は、次兄と同じ部屋の二段ベッドで寝ている。
朝菊丸が起きたとき、次兄は下のベッドでまだ寝ていた。
起こさないように静かに降りるつもりだったが、つい梯子から足を滑らせて、派手な音を立ててしまった。
その音で目を覚ました次兄が、不機嫌そうに菊丸に絡んできたのだ。
かっとなった菊丸が大声で言い返すと、それを聞きつけた家族がやってきて、口々に菊丸が悪いと決めつけた。
次兄は昨日、というよりは今朝方まで、家のこまごました仕事を請け負っていたのである。
お節料理や蕎麦作りの当番にもなっていた。
だから、一生懸命働いた次兄に対して無神経すぎると言うのである。
(オレだってさ、兄ちゃん起こすつもり無かったんだけどな…………)
菊丸は怒って家を飛び出したまま、ぶちぶち言いながら、道を歩いていた。
(オレも料理作ったのに、兄ちゃんばっかり感謝されて……)
末の弟というのは、普通一番可愛がられ、甘やかされて当然なのに。
菊丸は不満だった。
菊丸の家では、甘えた子どもにならないようにと、末であろうと無かろうと、関係ないのだ。
そんなわけで、売り言葉に買い言葉、ついつい家を飛び出してしまったものの、菊丸はすることもなくただ道を歩いていたのだった。
そこに、見覚えのある人物を見かけたのである。
手塚は、一人で道の端に佇んでいた。
その道は行き止まりで、奥には小さな神社がある。
今日は元旦という事もあってか、小さな神社でも、ひっきりなしに初詣に訪れる人が歩いていた。
「手〜塚っ!何してんのっ?」
一人きりで拗ねていた気持ちが消えて、嬉しくなる。
はしゃぎながら走り寄ると、手塚がびっくりしたように菊丸を見てきた。
「菊丸………?」
「奇遇だねっ! あ、あけまして、おめでとう!」
「あ、おめでとう………」
手塚が少々口ごもったように言う。
菊丸の出現が意外だったのか、驚いている様子が、いつも見るポーカーフェイスな手塚と違って新鮮で、菊丸はなんとなく可笑しくなった。
拾い物をしたような気分にある。
「ねっ、手塚、どうしてこんなトコにいるの?」
「あ、ああ………いや、特になんでもないんだが、散歩していたら、神社があったので見ていた……」
「ふーーん、手塚んち、近くだっけ?」
「いや、結構遠いが……」
確か手塚の家は、菊丸の家よりバスで15分ほどはかかったはずである。
「ずっと歩いてきたの?」
「ああ」
「……暇なんだねえ〜〜!」
朝から一人で歩いているなんて、と、菊丸は少々驚いた。
今日はめでたい元旦。
今頃は、家族で初詣か、あるいは友人とか、あるいは、恋人と………とにかく、約束して楽しく外に出かけるのが普通で、手塚のように、あてもなく一人で歩いている中学生などいない。
「家の人は?」
「みんな出かけているんだ」
「手塚も一緒に行かないの?」
「俺が一緒に行くような雰囲気でもなかったからな。……親同士の付き合いって感じだったから」
「ふーーん………」
「菊丸こそ、どうしてこんな所にいるんだ?」
「オレ?………オレはさ、朝から喧嘩して来ちゃった〜」
「喧嘩?」
「そう、兄弟喧嘩! 兄ちゃんと派手にやっちゃって、ちょっと引っ込みつかなくなって、それで……」
「へえ……」
手塚がまじまじと菊丸を見てきた。
いつも切れ長の三白眼で、他人を睥睨するような目つきのくせに、こういう時だけ瞳がまん丸になって、黒目がちの瞳がぱちぱちと瞬きしながら自分を見つめてくる。
(手塚って………可愛いかも………)
今まで考えたこともない単語が出てきて、自分でもびっくりする。
手塚を少々驚いて見ていた菊丸の頭の中に、不意にいい考えが浮かんだ。
「ねっ、じゃあさ手塚んち、今誰もいないの?」
「ああ、そうだが」
「ようしっ、じゃあオレっ、手塚んちに遊びに行こうっと!」
「……菊丸?」
「いいよねっ、手塚!」
「あ、ああ……」
戸惑ったように瞳を揺らす手塚が、びっくりするほど可愛く見えて、菊丸は嬉しくてつい微笑んだ。「へえ、手塚の部屋って、綺麗だね。……それに一人部屋かっ、いいな〜〜!」
神社から歩いて手塚の家まで行って、誰もいない家に恐縮しながら上がって、菊丸は手塚の部屋に案内された。
手塚の家に来たのは初めてである。
手塚の部屋に上がったのも勿論初めてだ。
雰囲気からして、綺麗に整頓されているだろうなあとは思っていたが、思った以上に綺麗な部屋に菊丸はびっくりした。
壁に沿って大きな本棚が二つもあり、本がぎっしり詰まっている。
「あにゃっ、テレビがない〜!」
部屋にテレビがないのに気付いて、菊丸はびっくりした。
「手塚、ゲームやんないの?」
「部屋にテレビがあると、つい遊んでしまいそうなので、居間のほうのテレビしか見ないし、ゲームは持ってない」
「手塚、真面目。………でもさっ、一人部屋でいいよな〜〜!」
手塚が持ってきてくれたコーヒーとミカンを食べながら、菊丸は手塚のベッドにもたれ掛かって天井を見た。
「ベッドだって一人用だしさ、落ち着けるよな〜〜」
「菊丸は、一人部屋じゃないのか?」
「うん、オレ、兄ちゃんと相部屋なんだ。今時さあ、高校生と中学生の男が一緒に住むかって、な、手塚?」
「…………」
コーヒーを飲む手が止まって、瞬時、手塚が睫毛を切なげに震わせて菊丸を見てきたので、菊丸はどきっとした。
じいっと見つめられると、胸がどきどきする。
「羨ましいな……」
ぼそっと呟かれて、菊丸ははっとした。
「………え?」
「兄弟がいるっていいなと思ったんだ。俺は一人っ子だから………兄弟喧嘩とか、したことがないしな……」
「そ、そうかな……」
「ああ、たくさん兄弟がいるって、楽しいだろうな……」
「うーーん、そうかにゃ……」
手塚にしみじみ言われると、確かにそういう気がする。
喧嘩したり、煩かったりいろいろ嫌なこともあるが、それ以上に賑やかで、困ったときは助けてくれて、考えてみると、いい兄姉たちだ。
「あ、あのさ…………」
押し黙って寂しげな手塚に、菊丸はわけもなく焦った。
こんなふうに無防備に自分を晒け出す手塚を見たのは初めてだった。
「今日だって、親がいなくても、兄弟がいれば一緒に初詣とか行けたなとか思ってな……」
「うーーん………」
------それで、一人で歩いていた訳か。
「ね、ね、手塚っ! オレがさ、手塚の兄弟になってやるよっ!」
手塚を何とか励まそうと、菊丸はふと心に浮かんだ事を言ってみた。
「えっ?」
「オレが、手塚の兄ちゃんになってやるよっ! いい考えだろっ!」
「……菊丸、おまえ、誕生日いつだ?」
「えっ、オレ? オレは11月28日……」
「……俺は10月7日だ」
「にゃっ、そだっけ?……じゃあ、オレ、弟…………」
せっかく兄貴風を吹かせてやろうと思ったのに、またしても弟か。
菊丸はがっかりした。
がっくり肩を落とす菊丸に、手塚が微笑んだ。
「おまえが兄って事でいいよ、菊丸」
「えっ、そう?…………んじゃあ……」
兄になれると聞いて、菊丸はなんだか嬉しくなった。
この、誰もが尊敬と畏敬の念で接する手塚を、弟に出来るのだ。
嬉しくないはずがない。
「じゃ、じゃあ、…………ううーーんと…………くにみつっ!」
「………………は?」
「は、じゃないよっ。オレが兄貴なんだから、名前呼ばれたら返事してっ。で、英二お兄ちゃんって呼んでよ」
手塚が困ったような顔をした。
「……くにみつっ!!」
そんな手塚に構わず再度名前を呼ぶと、もごもごとしながら、手塚が言ってきた
「はい。………え、えーじ………おにい……ちゃん……………」
-----ププッ!!
口ごもりながら言う仕草が可笑しくて、菊丸は我慢できずに吹きだした。
「あははははっ!!」
腹を抱えて絨毯の上で転げ回って笑うと、つられて手塚も笑った。
手塚がちゃんと笑うところを、菊丸は初めて見た。
笑うと、いつも眉根を寄せているような冷たい雰囲気が消えて、蕩けそうに優しい空気に満たされる。
ちょっと下がった目尻と、被さっている長い睫毛が、ふんわりとした風情を醸し出していた。
形の良い薄い唇から、真っ白な歯がこぼれて見えて、菊丸はどきどきした。
すっごく、………可愛い。
手塚が笑うと、こんなに可愛くなるなんて。
胸のドキドキが、止まらない。
なんだか、これって、変だ。
笑いながら、菊丸は密かに狼狽していた。
こういう気持ちのこと、好きっていうんじゃなかったっけ?
以前、女の子に対して感じたことがあった。
あの時は、告白する前に、その子が他のヤツと付き合い出しちゃったので、あきらめたけど。
------オレ、どうしたんだろう?
なんで、手塚を見て、こんな気持ちになるんだろう。
もしかして、オレ、手塚のこと、…………好きになっちゃったわけ?
「菊丸、今日はありがとう」
ひとしきり笑って、茶を飲んで、昼近くになって、いい加減家に戻らないと家族が心配するぞと手塚に諭されて、菊丸は手塚の家を辞することになった。
「うんにゃ、オレも楽しかったから……」
そう言ってにかっと笑うと、応えて手塚が含羞かむように微笑んできた。
-------ドキン。
やっぱり胸がどきどきする。
「………ね、また遊びに来ていい?」
このままでは終わらせたくなくて、菊丸は言ってみた。
「本当の兄弟ってわけにはいかないけどさ、できるだけ家族みたいになりたいんだ、手塚のさ。………ね、いいよね?」
「……ああ……」
菊丸の申し出に、手塚が少々目元を染めて頷く。
(うわっ、照れてるのかな………?)
白石の美貌が少々赤くなっている所が、ぞくぞくするほど可愛い。
「じゃ、じゃあさ、また電話するにゃ。冬休みのうちにさ、今度は映画でも見に行かない?」
「………迷惑じゃないか?」
「迷惑なわけないじゃん! オレ、手塚の兄貴なんだから!」
「そうだな……」
手塚が嬉しそうに微笑む。
手塚が笑うと、周りの空気までほんわりするようだった。
「じゃあねっ!」
菊丸は手塚の手を取ると、両手で包み込んでぽんぽん、と叩いた。
「ああ、じゃあな」
いつまでも手塚を見ていたかったが、それはまた今度のお楽しみ。
菊丸は手塚に背を向けて駆け出しながら、嬉しくて嬉しくてたまらなかった。
お正月は菊塚に挑戦してみました。ほのぼのですな………