CLUTCH
ばたばたと、廊下を走る靴音が遠ざかっていく。
ぼんやりと見上げた視界に、青く澄んだ空が飛び込んできた。
(天気、いいな〜………)
なんて事を一瞬考えて、同時に尻がずきんと痛んで、オレは顔を顰めた。
俯くと、白い便器の蓋に、ピンク色の粘液が垂れている。
……これ、オレの尻から出てきたんだよな………。
亜久津の精液と、オレの血が混じったやつだ。
なんだか現実味が無くて、オレはぼぉっとそれを眺めた。
尻がずきずきと痛む。
ああ、なんだか……………オレは力無く首を振った。
壁に設置されているトイレットペーパーを引き出して、恐る恐る肛門を拭く。
「いてて…………!」
ちょっと手が触れただけで、飛び上がるほど痛かった。
「……痔になっちゃうよ………」
情けなく独り言を言う。
ぽた、と不意に涙が溢れてきて、オレは狼狽した。
………なに、オレ、泣いてるの?
こんな事ぐらいで泣くなんて、信じられない。
でも、涙がどんどん出てきた。
なんだよ、オレって、けっこう繊細なんじゃん………。
オレはトイレットぺーパーを尻に挟んだまま、両手で顔を覆った。「千石君、今度新しく3年のテニス部員を入れましたから」
伴爺がにこにことしてオレにそう言ってきたのは、4月の初めだった。
……3年で、今頃入部?
「伴爺、今頃入るヤツいるの?」
「ええ。亜久津仁君です」
「亜久津?……あいつ、テニスなんてやってるんだ?」
「千石君は知らないですか? 彼はものすごく強いですよ。きっと、千石君より強いでしょう」
伴爺が断言したので、オレは驚いた。
亜久津は山吹中の有名人だったから、名前を聞いて知らないヤツはいない。
髪の毛は金髪で(オレだって人のことは言えないが、亜久津程じゃない)逆立ってるし、いっつも煙草を吸っていて、したい放題、学校の問題児だ。
誰も怖がって近付かないし、オレなんて、接点もないから話したこともない。
その亜久津が、オレよりテニスが上手い?
オレがよほどびっくりした顔をしていたのだろうか、伴爺がくすっと笑った。
「彼を今度、シングルスに入れようと思うんですよ。一度彼と打ってみませんか?」
「うん、……伴爺がそう言うなら」
「じゃ、早速今日……」
伴はあらかじめ予定を入れておいたようだった。
オレと伴爺がコートに行くと、程なくして亜久津が現れた。
遠くからでもよく分かる、白に近い金色の逆立った髪。
左耳のピアス。
しかも伴爺の前だってのに、煙草を口に咥えてやがる。
「亜久津君、それはちょっとまずいですねぇ」
伴爺がにこにこしながら、さっと亜久津の口から煙草を取った。
亜久津がぎろり、と伴爺を睨む。
(こ、怖ぇぇ…………)
でも伴爺は、全然気にしてなかった。
さすが伴爺。ただ者じゃねえ。
「うちのテニス部で一番の、千石君です」
「どうも、千石で〜す」
なんとなく、どう接していいか分からなくて、オレはいつものように明るくおどけてみせた。
亜久津が馬鹿にしたようにオレを一瞥して、すぐにそっぽをむいた。
あらら、そういう態度なの?……ちょっと傷付くな。
「試合してみましょうか。亜久津君から、サーブで」
オレは自分のテニスの腕にはかなり自信があったが、はっきり言ってその時は驚いた。
亜久津はものすごかった。
こんな強いヤツ、今まで対戦したことがないと思った。
絶対に球から離れない。
どんな所へ打っても返してくる。
オレはあっという間に負けてしまった。
「……どうですか、千石君?」
試合が終わったとき、オレは亜久津をすっかり見直していた。
こいつは、すごい。
「すごいよ、伴爺、……亜久津ってば、どうして今までテニスやらなかったの?」
こんな強いヤツが山吹中にいたなんて、と嬉しくて、ついつい馴れ馴れしかったようだ。
亜久津がオレの腕を邪険に振り払った。
あれ、オレ亜久津にじゃれついてたのか。
「オレに触るな」
「あ、メンゴメンゴ………」
亜久津は相変わらず素っ気なくて怖かったけど、でもオレはそんな事気にならないくらい興奮していた。
強いヤツが好きなんだ。オレ。
「千石君、当分亜久津君の事、面倒見てやって下さい。彼は集団生活に慣れてないから、部活でも何かと面倒を起こすかも知れません」
「うん、分かった。亜久津には是非試合出て欲しいもんね!」
「亜久津君も、いいですね?」
亜久津が渋々頷いた。
伴爺ってば、こんなヤンキーも手なずけちゃうんだ。すごいな。
オレもなんだか嬉しくなった。それから、亜久津が嫌がろうと何だろうと、オレはしつこく話しかけたり部活に誘ったりしてみた。
亜久津もなんだかんだ言って、オレに合わせてくれてる所があって、なんとなく気持ちが通じたような気がして嬉しかったんだけど。
でも。
………でも、こんな事もするんだ。
やっと涙が治まって、オレはもそもそと立ち上がった。
「あ…………」
精液が乾いて張り付いた感触が、気持ち悪い。
恥ずかしくなって、オレはトイレットペーパーでごしごしと内股を擦った。
これって、ゴーカン…………だよな。
オレ、亜久津にゴーカンされたんだ………。
床に放り投げられてあった下着とズボンを穿く。
肛門の痛みは治まらなかった。
それどころか、ちょっとでも力を入れると、ずきん、と頭まで痛みが突き抜ける。
「いててて…………」
オレは尻を押さえながら個室から出た。
尻も痛かったが、なんだか悲しかった。
『男にホられた気分は』、なんて亜久津に言われたからだ。
気分は………と言えば。
………オレは困惑した。
実のところ、尻は痛かったが、亜久津に対して怒りとか憤慨とか、そういう気持ちが起こらなかった。
おいおい、亜久津にゴーカンされたんだぜ、オレ………。
怒れよ。
とか思ってみたが、どうも怒りの感情が出てこない。
それよりも、亜久津が優しく抱いてくれたら良かったのに、とか。
亜久津ってば、肩幅が広くて格好いいよな、とか。
亜久津にオレのムスコ、いじられたんだよな、とか思って。
なんだか恥ずかしくなったりどきどきしたり、オレはヘンだった。
亜久津が憎らしいとか許せねえとか、そういうんじゃなくて………。
……亜久津とセックスしたことを、嬉しがってないか、オレ?
「…………」
言っとくけど、オレは別にホモじゃねえ。
女の子が大好きな、軽いオトコのつもりだ。
付き合ってる女の子は、----今はいないけど、結構告られたりして、楽しい中学生ライフを送っているつもりだ。
女の子との経験だって、何回かある。
それが、何が悲しくて、男にホられてその気になってるんだよ。
………とか思ってもみたが、やっぱり怒りの気持ちが湧いてこない。
それより、亜久津はオレのことどう思ってるんだろう………とか、まるで初恋に悩む少女みたいな事を考えてる。
……おい、キヨスミ、少し頭を冷やせよ。
オレは溜め息を吐いてトイレを出た。
歩く度に、尻がずきんと痛んだ。
ここに、亜久津が入ってたんだよな…………。
………急に恥ずかしくなった。
亜久津とセックスしたんだ、という事実が、突如オレの心を揺さぶってきた。
--------どうしよう。
オレ、亜久津のこと、好きかも知れない。
ヤられて好きになるなんて、オレって一体……………。オレは頭を振り振り、よたよたと廊下を歩いていった。
FIN
千石君一人称。恋の芽生え(笑)