桎梏 《11》
ギィ、というドアの開く音と共に、心臓がきゅっと跳ね上がった。
思わずソファから立ち上がって、跡部は緊張する自分の胸を押さえた。
鼓動が頭の先まで響いて、口の中が乾く。
立ち上がったまま、入ってきた榊を見る。
榊はいつもと変わらず悠然とした足取りで、部屋の中央に置いてある机まで行き、大きな皮の椅子に座った。
煙草を取り出して、口にくわえ、ゆっくりと火を付ける。
流れるような一連の動作を、跡部は息を詰めて見つめた。
「………で、何の用だ?」
足を組んで、天井に向けてふうっと紫煙を吐き出して、榊が低く通るバリトンで言う。
ごくり、と唾を飲んで、跡部は榊の前に進んだ。
「あの、これ………」
手に持っていた、リボンのかかった箱を差し出す。
「あの、監督にお世話になったお礼に、その、良かったら使って下さい……」
恐る恐る差し出した箱を、榊は造作なく受け取った。
煙草を灰皿に置いて、リボンを解き、包装紙を破る。
中から出てきたブランドものの高級なライターを見て、榊が顎に手をかけながら跡部を見上げてきた。
「おまえが買ったのか?」
「はい、そうです。俺………」
跡部はそこで榊に頭を下げた。
「本当に3年間ありがとうございました。指導していただいて、俺、すごく上手くなった共います。それに……」
跡部は息を吸って、目を閉じた。
「俺……去年、監督に助けてもらって、すごく嬉しかったです。……ありがとうございました……」
言っていると、鼻の奥がつんと痛くなってきた。
胸が苦しくなって、言葉が詰まる。
「俺、監督のこと、これからもずっと好きです。ご迷惑かも知れませんが、でも、どうか、好きでいることを許して下さい。もう、監督とは会うこともないし、ご迷惑もかけないと思うので……」
会わない、という単語を実際に口に出して言ってみると、跡部は切なくて涙が溢れてきた。
-------そうだ。
もう、会えないのだ。
この中等部を卒業してしまったら、もうここには二度と来ることはない。
榊とも、もう、二度と会えないのだ。
あんなに激しい時間を過ごしたのに。
榊に抱かれて、失神するほど感じて。
酷くされても、嬉しくて。
そんな事は、もうないのだ。
涙を堪えようとしても、後から後から溢れてきてどうしようもなかった。
「……すいません、失礼します……」
もう、これ以上榊の前にいられない。
醜態を晒してしまいそうだった。
みっともなく榊に縋って、どうか俺を捨てないでくれ、と懇願しそうだった。
そんな事はできない。
榊に軽蔑されて別れるような、そんな幕切れだけは、嫌だ。
唇を血が滲むほど噛んで、跡部は榊の前から踵を返して立ち去ろうとした。と、その時、榊が跡部の腕を掴んできた。
「………監督……?」
「出てっていいとは言ってないぞ、跡部。……それに、俺もおまえに言う事がある……」
榊が跡部の身体を引き寄せる。
そして、跡部を抱き込むように腕を回すと、その耳に唇を近づけた。
「……愛してる……」
良く通る低い美声が、耳元で囁かれる。
「………え?」
「なんだ、聞こえなかったのか? 愛してると言ったんだ……」
「か………んとく………?」
「どうした、俺の言葉が理解できないのか?」
呆けた顔でぼんやりと見上げているのが可笑しかったのだろうか、榊が苦笑した。
「景吾………」
吐息混じりに囁かれ、それから榊が跡部の唇に口付けをしてきた。
その事態を理解する前に、歯列を割られ、榊の舌が滑り込んでくる。
強く吸い上げられ、舌を絡められて、跡部は無意識に榊に縋り付いた。
榊と口付けをするのは、初めてだった。
今まで何度抱かれても、口付けはしてもらえなかった。
口付けは、愛し合う恋人がするもの。
自分のように、ただ獣のように抱かれるだけの存在になんて、させてもらえるはずのないもの。
そう思っていた。
甘い戦慄が背筋を駆け抜けて、跡部は思わず身震いした。
信じられなかった。
今、監督が、俺にキスをしている……?
「どうして………?」
唇が離れた時、跡部は無意識のうちにそう呟いていた。
榊が、跡部の頬に両手を添えて、慈しむように撫で上げてきた。
「おまえは、今まではここの生徒だったからな。……生徒でいるうちは、子供だ。俺は子供と愛し合うような趣味はない。……だが、今日おまえはここを卒業した。俺とはなんの関係もなくなったわけだ。………そうだな?」
「………はい」
問われて思わず頷くと、榊が瞳を細めた。
「卒業したおまえは大人だ。俺は、おまえが大人になるのを待っていた。大人になったおまえが俺の元にやってくるのもな……。もしおまえが来たら、俺の気持ちを打ち明けようと思っていた……」
「で、でも、監督は………だって、俺の事なんて………」
跡部は混乱した。
「……そうだな、おまえは小生意気なガキだったな。こんな子供を……と俺も思って、わざと酷く扱ったりした。おまえが自分から逃げていくようにな………」
「監督………」
「今日、おまえが来なければ、俺は自分の気持ちを言うつもりはなかった。このまま終わりにしようと思っていた。でも、おまえはやってきた。…………景吾、……俺が好きか?」
涙が急に溢れてきた。
唇が震えてうまく言葉が出ない。
「好き…………好きです…………」
漸く声を絞り出すと、榊が跡部の頬に流れた涙を優しく舐め取ってきた。
「泣くな…………俺も愛している………」
静かな声。
まだ信じられなかった。
こうやって榊に抱き締められ、口付けされ、愛を告白されても、まだ信じられなかった。
本当だろうか?
夢を見ているのではないだろうか?
これは、俺の都合の良い夢なのではないだろうか?
ずっとこうされたいと、心の底から飢えていたから、最後に夢を見ているのではないだろうか?
確かめるように、榊の背中に腕を回し縋り付く。
温かな体温を感じる。
優しい口付けが、何回も繰り返される。
そのままベッドに横たえられて、ゆっくりとした動作で服を脱がされる。
「景吾………」
時たま自分の名前を呼ぶ榊の声に、ぞくり、と全身が震えた。
涙がまた溢れてきて、視界が歪んだ。
「監督、監督…………」
縋るように呼ぶと、服を脱いだ榊が、ぎし、と音を立ててベッドに上がり、跡部を静かに抱き締めてきた。
素肌が触れ合い、榊の規則正しい鼓動が、跡部の身体に伝わってきた。
不意に、泉が湧き出すように、心の底から幸福感が溢れてきて、跡部は堪えきれず顔を榊の胸に擦り付けた。
こんな瞬間が、来るなんて。
身体中が甘く戦慄いた。
心が打ち震えて、何かしゃべろうとしても、言葉が出なかった。
涙ばかりが溢れた。
優しく、慈しむように胸を愛撫されて、甘やかな電流が全身を駆けめぐる。
優しい愛撫も初めてだった。
心も体もとろとろに蕩けて、どこかへ翔んでいってしまいそうだった。
「あ……あっ……監督………ッ!」
不意に下半身を熱く濡れた口腔に含まれて、跡部はたまらず喉を仰け反らせて身体を震わせた。
くちゅ、と濡れた水音がして、ぞくぞくと電撃が脊髄を駆け上がる。
「あ………あッッ!!」
後孔を指で愛撫され、内部に榊の節くれ立った長い指が侵入してきた途端、跡部は堪えきれずに弾けた。
「……す、すいません………」
榊の口の中に思い切り放ってしまって、赤面しつつ小さな声で謝ると、跡部の放った液体を全て飲み干して、榊が顔を上げた。
口角を少し上げて笑って、宥めるように跡部の髪をくしゃっと撫でる。
「……どうした? 謝ることなどない……」
そう言って、榊はベッドに胡座をかいて座ると、跡部の手を取った。
「おいで、景吾………」
天を向いて屹立している榊自身が、跡部の目に入ってきた。
ドクン、と血がうねって、身体中を駆けめぐった。
眩暈がする。
熱いうねりが押し寄せてきて、全身が燃える。
「…………ッッッ!!」
榊に跨って、ぐっと腰を下ろすと、灼熱の楔が容赦なく体内にめり込んできた。
全身を震わせてその衝撃に耐え、唇を噛んで、榊と密着するまで腰を下ろす。
「景吾………」
榊の低い掠れた声が、甘い吐息と共に耳元で囁かれる。
ぞくり、と快感が走り抜け、跡部は微かに震えた。
「あ………あッあッ!」
榊が跡部の細い腰を掴んで、上下に揺さぶってくる。
その度にズシン、と重く深い快感が脳天まで突き上げ、跡部は背中を仰け反らせて呻いた。
身体中が熱い。
蕩けて、榊と混じり合っていくような気がする。
深く深く繋がって、もう絶対離れないかのように、身体が溶けて一つになる。
「ああ………あ……監督っ………か…………んとくッッ!!」
何度も揺さぶられ、突き上げられて、跡部は辺り憚らず嬌声をあげた。
目の前が真っ白になっていく。
ふわり、と身体が宙に浮いて、そのままどこかへ飛び立っていってしまいそうになる。
「………あああッッッ!!」
一瞬、目の前が眩く爆発して、跡部は全身を痙攣させた。
体内の熱い迸りと、それと同時に自分のものが弾けるのを感じる。
「景吾………」
軽い失墜感とともに、意識が遠のいていく。
榊の声が甘く響いて小さくなっていき、すっと跡部は意識を失った。
「なぁ、跡部………今日からテニス部行くん?」
氷帝学園高等部の入学式の後、桜の花が満開に咲く道を跡部が忍足と歩いていると、忍足が話しかけてきた。
「今日から勧誘しとるやろ? どうする?」
「いや、今日は行かねえ。俺達はどうせ面も割れてるし、テニス部入部は入学する前から報告してあることだろ?」
「そうやな。今日はまぁええか。………なぁ、じゃ遊んでかへん? 岳人とか宍戸とかもおるし」
「わりぃな、今日はちょっと用があるんだ」
「なんや先約か? 彼女かいな?」
忍足がにやにやした。
「テメェこそ、この入学式にだれも祝ってくるヤツとかいねえのかよ?」
「今更祝うも何もあらへん。そんなん、キショイわ」
「ふん、強がるなよ」
「なんやて!」
「おーい、侑士!」
忍足が気色ばんだ時、遠くから肩で切り揃えた髪を揺らしながら、小柄な入学生が走ってきた。
「お昼食べに行こうぜ!」
「じゃ、ここでな」
「あ、跡部、じゃあ、また明日………」
軽く手を挙げて忍足たちから離れると、跡部は一人桜並木の下を歩いた。
校門を出て少し歩いた所に、イタリア製のオープンカーが止まっており、車に凭れる形で、背の高いハンサムな中年男性が立っていた。
春の淡い日差しの中で、ゆったりと紫煙をくゆらしている。
跡部は、ぱあっと花が咲いたように表情を明るく綻ばせた。
「監督………!」
跡部を見付けた榊が、軽く手を挙げる。
「……監督っ!」走り寄って甘える新入生を、春の光が優しく包み込んでいた。
FIN
ハッピィエンドv