徹夜明け














「ふぁ……」
思わず生あくびが出て、柳蓮二は慌てて口を押さえた。
ここは、関東大会の試合場。
柳達、立海大付属中は今日は試合がない。
シード校なので、まだ試合自体をしていない状態だ。
それでも、他の強豪校の試合を見学し、自分たちと対戦する時のために、データを取りに試合を見に来ている。
とは言っても、なんと言っても立海は昨年の関東大会優勝校。
自ずとにじみ出る自信からか、現在の一回戦は、見るべき学校---たとえば、氷帝学園や青春学園---が終わってしまうと、柳の集中力は少々薄れた。
なにしろ、昨日、柳は徹夜したのである。
大切な関東大会の前日に徹夜とは、テニスプレイヤーにあるまじき所業だが、決して遊んでいたわけではない。
現在、柳の自宅では両親がともに出張で2週間ほど、家を空けており、柳は小さな弟妹の面倒を見たり、自分の勉強をしたり、それから夜中に洗濯をしたりと、家事に勤しんでいたのだ。
特に昨日は、下の妹が熱を出し、夜中にタクシーを呼んで救急病院に行っていたため、そのまま病院で夜を明かしてしまった。
朝方熱が下がり、肺炎の恐れもないとのことで、妹ともども戻ってきたのだが、それから寝る時間がなく、結局徹夜で関東大会の会場に駆けつけたというわけである。
さすがにつきあいの長い真田あたりは、柳が体調が悪そうだと感づいたらしいが、表情に乏しい柳からは、それ以上の事は分からなかったらしい。
「なんだか、疲れているようだが?」
真田にそう言われて、柳は穏やかな笑みを浮かべて
「いや、たいした事はないから」
と平穏を装った。
「……そうか?」
真田もそう言ったきり、さして追求もせず、二人は立海大付属の面々と、その日の試合を見守ったというわけである。















しかしながら、その日一番の見物の、氷帝学園と青春学園の試合が終わってしまうと、柳はさすがに身体が重く感じた。
「少し歩いてくる」
真田にそう断って、観客席を立つ。
頭を軽く振りつつ、試合場から出て、周囲の広大な公園の中にある、東屋の方角に向かう。
水飲み場の隣に設置してある自動販売機で、ブラックコーヒーでも買って飲もうか、などと思いながら向かうと、先客がいた。
自動販売機の前のベンチに、ベンチの背に片腕をかけ、くつろいだというか、いささか疲れた感じで座ってスポーツ飲料を飲んでいる、少々長めの黒髪と眼鏡が印象的な男である。
彼は、近づいてきた柳を見て、片方の眉を少しあげ、それから瞳を細めて微笑した。
「やァ、お疲れサン」
「……疲れているのは、おまえの方じゃないのか?」
座っていたのは、先ほどまで青春学園と試合をしていた、氷帝学園の忍足侑士だった。
白熱した試合を思い出して、柳は忍足をじっと見下ろした。
視線を感じて、忍足が照れくさそうに笑う。
「なんか、飲みにきたんか?」
「あぁ」
そう言えば、コーヒーを飲みに来たのだと思い出して、柳は自動販売機からブラックコーヒーの缶を取り出した。
プルタブを開けて、口を付ける。
「座ったらどや?」
忍足に勧められるままに、柳は忍足の隣に腰をかけた。
腰掛けながら、隣の忍足を見る。
実のところ、忍足と話をしたのは、初めてだった。
勿論、間近で見るのも初めてである。
遠くから試合をしているのは何度か見かけ、現に今日も先ほどまで見ていたのだが。
(印象が違うな……)
遠くで見るのと、間近で見るのとでは、ずいぶんと雰囲気が違う、と柳は思った。
遠くで見ている分には、いけすかない、油断のならない人物、という感じなのだが。
それが、間近で見てみると、意外と色の白い、整った顔立ちや、眼鏡の奥の、優しげな黒い瞳と、その瞳に被さるように長い睫など、どちらかというと、清楚な奥ゆかしさといったものを感じるのである。
柳の視線を感じたのか、忍足が目を上げて、柳を見つめてきた。
「負けてしもうたわ。アンタんとことは試合、できひんなァ」
「……したかったのか?」
「勿論や。立海大とは一度お手合わせ願いたかったなァ」
少し肩をすくめ、瞳を細めて自嘲する様子が、今までの印象とは違って、儚い雰囲気まで醸し出しているように見えた。
「俺たち、これでもう引退やからね。残念やったなァ」
心から残念で、寂しい、と言った声音に、思わず柳は瞳を開いた。
「じゃぁ、個人的にやらないか?」
忍足が戸惑ったように柳を見る。
「そら嬉しいけど、でもアンタんとこはこれから関東大会あるやろ?」
「大会とは別に、俺とおまえで、二人だけでどうだ?」
「それは………そうやな。立海大の柳さんとできるんなら、それは嬉しいけどなァ」
忍足が照れたように笑う。
「でも、俺に気ィ遣ってくれんでもええんやで? 柳さんなら、俺やなくても、いっぱい練習相手がおるやろ?」
半ば本気にしていない口調に、わけもなく柳はいらだった。
自分から一緒にテニスをやらないかと誘っているのに、断ってくるとは。
いくら立海だからと言って、誰もが喜んで誘いに乗ってくるとはさすがの柳も思ってはいないが、しかし、なぜか今はいらだった。
忍足に断られるとは思っていなかったのだ。
いや、断られるというより、本気にされていない、というところがいらだったのだ。
柳は、不意に忍足の手を取って、強く握ってみた。
「……柳さん?」
忍足が不審げな声を出す。
眼鏡の奥の黒い瞳が一層深い色になり、自分を映し出しているのをみて、不意に激情が柳を襲った。
柳は、忍足の手を握ったまま、ぐい、と引き寄せると、驚きで半開きになっている忍足の唇を奪った。
「………」
忍足が大きく目を見開いて、硬直したまま、柳を見てくる。
そのまま忍足を睨むように見つめながら、柳は唇を押しつけ、無理矢理開かせて舌を忍足の口腔内に差し入れる。
至近距離でしばし見つめ合っているうち、やがて、忍足の身体から力が抜け、ふっと、忍足が瞳を閉じた。
長く黒い睫が、霧雨のように降りてきて、その様子に、柳はぞくぞくと身体の奥底から沸き立つものを感じた。
忍足の背中に腕を回して強く抱きしめながら、舌を絡ませあう。
忍足が飲んでいた、スポーツ飲料のほの甘い味と、熱くぬめった舌の感触に、身体の奥底が熱くなる。
思う存分舌を絡ませ、甘い唾液を吸ってから、ようやく唇を離すと、忍足がほぅ、と大きな溜息を吐いて、息を弾ませながら、柳にそっと身体を預けてきた。
「……なんや、へんな感じやね……」
少し、口ごもったような、照れたような言いぐさ。
それは柳も同じだった。
どうして、忍足に口付けなどしてしまったのだろうか。
自分でも分からなかった。
分からないままに、手をあげて、そっと忍足のつややかな黒髪を撫でる。
「俺のこと、慰めてくれてるんやね。ありがとさん………」
忍足が小さな声で言ってきた。
「柳さんは優しいんやね……」
優しいと言われて、急に柳は恥ずかしくなった。
「いや、そんな事は……」
言葉が続かない。
-----そう言えばここは公園。
誰が来るとも、見ているとも限らない。
突然その事に思い当たって、柳は慌てて忍足から離れた。
「す、すまなかったな……」
忍足が数回瞬きをして、それから寂しげに微笑んだ。
「いや、気にせんといて……。ありがとさん。」
「い、いや、別に、その………」
うまく言葉が続かない。
普段の自分からは想像も付かないほど、その時の柳は焦っていた。
「さて、と」
困惑している柳に笑いかけながら、忍足が立ち上がる。
「俺はそろそろ帰るわ。柳さんは、まだおるんやろ? ほなお先に」
「あ、ああ……その、……またここに来るか?」
「……?」
「あ、いや、……試合を見に来るのかと聞いたのだが」
「勿論や。特に立海大の試合の時は必ず来るで」
「そうか」
なぜか安心して、柳はほっと息を吐いた。
このまま忍足と別れたくなかったのだ。
なんでもいいから、次の約束が欲しかった。
次も会えるという約束が。
「では、俺の試合の時は必ず見に来てくれ。その後でまた話そう」
「わざわざ、柳さんと俺とで?」
忍足が首をかしげる。
「俺なんかと話すこと、あるんかいな?」
「勿論、ある。……というか、おまえは……俺とはもう……その、こんな風に……会うのは、いやか」
「そ、そやね………」
柳の言わんとするところが分かったのか、忍足が少々頬を赤くした。
「ちょっと考えさしてもらうわ……あ、いややってわけやないんやで?ただ、その……なんや恥ずかしゅうて…」
「そ、そうだな。すまん、悪かった」
「あ、いや、悪くなんかないんやけど……というより、嬉しかったんやけど……」















「おーい、侑士〜、帰るぜ?」
その時だった。
遠くから、大きな声がして、ばたばたと駆け寄ってくる人影があった。
「あれ、立海大の柳じゃないか……?なんだよ、侑士に用?」
「いや、ただ一緒にドリンク飲んでただけや、ガクト」
「帰るってみんな待ってるぜ?」
「そうやな、ほな、………柳さんも、頑張ってや?」
少々口ごもりながら、忍足が早口で言う。
向日が来たことに、落胆を感じつつも、柳はうなずいた。
「では、またな」
忍足もほんの少しうなずいて、瞳だけで笑った。
「ほな」







向日と二人で遠ざかっていく忍足の後ろ姿を、柳は複雑な気持ちで眺めていた。


















突然シリーズでした^^