夜までの時間














その日、氷帝学園中等部男子硬式テニス部監督の榊は、神奈川県の立海大付属中学校に来ていた。
関東中学校テニス連盟の理事を務める榊にとっては、氷帝学園が関東大会で敗退しても、まだ仕事は続く。
この日も、関東大会終了後の全国大会の日程や会場、審判等の細かい打合せのため、本部の設置してある立海大に足を運んだという次第である。
初夏の暑い陽射しの中を、きっちりとスーツを着こなし、汗一つかかずに歩く榊の周りには、そこだけ涼気が漂っているようでもあった。
理事の会議が終了する頃には、時刻は夕方の6時を回っていた。
一年で一番日の長い時期ゆえ、その頃でもまだ太陽が立海大の伝統ある校舎の廊下を照らしていた。榊は、他の面々が帰ったあとも立海大の監督と最後まで話し込んでいた。
そのため、榊が帰る時点では校舎には誰もいなくなっていた。
理事会があったため、用務員も定時の施錠をせずに待っていてくれたらしい。
「お疲れ様です」
との用務員の言葉を背に、玄関を出る。

















出ると、夕方の涼しい風が吹いてきて、榊は思わず三白眼を細めた。
2,3段ある階段を下り、前庭を抜けて出ようとして、ふと、校門の側の立木の下に、す、とたたずむ人影を目の端に捉えた。
既に、校舎内にも校庭にも、誰もいない。
いるのは、高い木の下に佇む人影だけである。
誰だろう。
近づいて行くと、だんだんと輪郭がはっきりしてくる。
「………真田君か…」
そこには、立海大を現在背負って立つ人物がいた。
立海大付属中テニス部副部長の真田弦一郎。
副部長ではあるが、部長の幸村が入院している現在は実質立海大の部長と言っていい。
しかも、中学テニス界最強の選手で、『皇帝』との異名を持つ少年である。
いや、少年という言葉に当てはまるような人物ではなかった。
体格的にも大人にひけをとらず、さらにはその表情---これが修験者のような老成さを醸し出している。
真田は、立海大付属の制服に、帽子を目深に被って立っていた。
他には誰もいない。独りである。
榊が近づくと、待っていたかのように顔を上げ、ゆっくりと視線を合わせてきた。
「………なにか、用かな?」
軽く笑みながら、榊は自分から話しかけた。
帽子の下の瞳は、涼やかな黒。
目尻が上がり、きつい感じながら、垂れ下がり僅かに目尻にかかる前髪がそのきつさを緩和している。
きりっと上がった形の良い眉が、その瞳を更に強いものに見せている。
些か厚めの唇を引き結び、姿勢良く立っている様子は、孤高の獣、という雰囲気だった。
獣、といえば、自分の所の跡部もしなやかな野獣という雰囲気ではあるが、それとは、真田は全く違う。
例えるなら、跡部は豹で、真田は虎という所か…。
などと脈絡もなく考えて、榊はなんとなく可笑しくなった。
「少々話してもいいですか」
その時、低く響く声で、真田が答えてきたので、榊は我に返った。
至近で並ぶと、己とほぼ同じ身長のようだった。
これだけの上背が中学時代からあり、更に実力もある。
将来はさぞかし強い選手になることだろう。
「あぁ、構わないが…」
真田を見据えながらそう言う。
真田はその視線をさりげなくかわして、榊が出てきた校舎の方を見つめた。















「先日、関東大会で青学の手塚と、跡部の試合を見ました」
不意に真田が抑揚のないしゃべり方で跡部のことを持ち出してきたので、榊は眉間に皺を寄せた。
「試合が終わった後に跡部と話したんですが……その時に跡部の首に痣を見つけて…」
真田の言葉に榊は更に眉間の皺を深くした。
「聞いたところ、監督に付けられた、と……」
「……それがどうしたのかな?」
「………いえ…」
真田の言葉に間髪を入れず返答すると、真田は僅かに目を見開いて榊を見つめ、暫し榊の真意を測るように見据えた後に、ゆっくりと視線を伏せた。
「……なんでもありません。お呼び止めして申し訳ありませんでした」
真田は軽く息を吐いてそう呟くと、踵を返した。
夕闇が忍び寄ってきた。
木立の下は薄暗かった。
薄暗い中に、自分に背中を向けた真田の、幾分俯いているからか、白い項がほの見えた。
勿論、日の当たる所で見れば健康に日焼けしているのであろう。
だが、薄暗い木の下では、そこだけが浮かび上がったように白く見えた。















「…真田君」
魔が差した、とでも言うべきだろうか。
榊は無意識のうちに、真田を呼び止めながら、その白い首筋に己の唇を寄せていた。
「…………ッ」
びく、と真田が身体を震わせ、足を止める。
しかしながら抵抗はせずに、真田がその侭動かず立ちつくしているのを見てとると、榊は更にねっとりと項に舌を這わせ、唇を押しつけると、強く吸い上げた。
顔を傾げ、舌を真田の形の良い耳朶まで這わせて、軽く噛む。
耳の孔に舌先を差し込んで舐め上げてから、ゆっくりと顔を離し、その侭数歩離れる。
「……君にもつけてみたが……迷惑だったか」
真田が強張った身体をゆっくりと動かして振り向いてきた。
切れ長のつり上がった黒い瞳が、濡れたように暗がりの中で光る。
「………いえ…」
暫く無言で榊を見つめ、それから真田は掠れた低い声を発した。
「……失礼します」
帽子を目深に被りなおし、真田が足早に校門から立ち去っていくのを、榊は木の下でじっと見つめた。
表現しようのない、不可思議な感情が胸に湧く。
小さくなっていく人影を、消えるまで見つめて、榊はふぅ、と息を吐き、木に寄りかかった。
見上げると、宵の三日月が、薄暮の西の空に輝いていた。