rainy day












雨の日は、嫌いじゃない。
むしろ、好きかも知れない。
窓から天を見上げると、今にも墜ちてきそうなほど重く澱んだ灰色が、俺の視界一杯に広がる。
窓を開けると雨の音が押し寄せてきて、俺の身体を包み込む。
窓の桟に頬杖を突いて、俺は見るともなしに外を眺めた。
雨を含んだ空気が霧になって、俺の髪を湿らせ、重くしていく。
(あぁ、面倒だ……)
パジャマも湿ってしまった。
身体が重い。
このまま床に倒れ伏して、起きあがれなくなりそうだ。
重い身体を引きずるようにしてベッドに戻り、ぐったりと俯せになる。
湿ってひんやりとなったパジャマが、肌に張り付いて不快だった。
重い腕を漸くのことで動かし、仰向けになって上に伸ばす。
随分、細くなってしまったものだ。
自嘲気味に笑っても、誰も同意してくれなかった。
当然だ。病室には誰もいないのだから。
宙で拳を作り、力を入れると震えた。
上げているのが困難になり、俺はどさり、と力無く両腕をベッドに投げ出した。














コンコン。
その時、病室の扉をノックする音が聞こえた。
「幸村、いるか? 真田だ、入っていいか…?」
(あぁ、またか……)
俺はうんざりした。
この男は、毎日本当によく来る。
俺は返事をしなかった。
扉は少しずつ開けられた。
真田が、俺を窺うように、半分開いた扉から身体を滑り込ませてきた。
「…面会時間なので、……来てみた」
あぁ、そうだね。
昨日も一昨日もその前の日も、そう言ったな、お前は。
結構横殴りの雨が降っていたようで、真田の制服のズボンは下の方がぐっしょりと濡れていた。
幅広の肩にも細かな雨粒がついている。
帽子を被っていなかったのだろうか。
髪もしっとりと湿っているようで、綺麗に切りそろえられた前髪が額に張り付いていた。
俺が睨み付けると、真田は萎縮したように立ちすくんだ。
「これを…」
あの真田でも、こんなにおどおどした声が出るんだ。
恐る恐る中に入ってきて、テーブルの上に真田がケーキの小さな箱を置く。
横浜でも有名な店のものだ。
以前元気な頃、俺がそこのケーキが美味い、と言ったのを覚えていたのだろうか。
あの店は、学校からも、病院からもかなり遠い。
わざわざ買ってから、ここに寄ったってわけか。ご苦労様。
「……いらないよ」
はっと真田が目を見開いた。
瞬きをして視線を左右に揺らし、俺をちらりと見、長い睫を伏せて唇を噛み締める。
「俺は食事制限されてるって言っただろう?」
実は嘘。言ってなかった。
それどころか、昨日真田が来た時に、甘い物が食べたいななどと水を向けてみたのだった。
だが、同時に真田には、もう来るな、とも言っておいた。
「そうなのか、すまん…」
真田が口籠もって頭を下げる。
いらいらした。
「看護士さんにあげてよ。彼女たち喜ぶから」
「そ、そうか…」
--------しまった。
真田がほっとした顔をしたので、俺は内心舌打ちした。
別に助け船なんて出すつもりじゃなかったのに。
気分が悪い。
「用がなければ帰ってくれないか? もう来るなって言ったはずだけどな」
「………」
真田が、切なげに瞳を揺らした。
何か言いかけて息を吸い、そこで止めてぐっと拳を握る。
「幸村、……その……また明日、来てもいいか……?」
「いやだね。もう来るなよ」
真田の問い掛けに畳みかけるようにして言い捨てると、真田がびくっと身体を震わせ、黒い切れ長の瞳を見開いた。
はっきり言って、真田の顔など見たくなかった。
毎日俺の所に来て、健康な身体を見せびらかして、俺を心配そうに見て、それで俺を気遣っているつもりになっている、そんな偽善者のおめでたいバカに付き合って慰めてやるほど俺は寛大じゃない。
「…来るな」
重ねて言うと、真田がひどく傷ついた表情をした。
さっと青ざめ、哀しげに瞳を揺らし、俯いて唇を噛む。
『うざいんだよ、お前は』
と言ってやろうとも思ったが、面倒なのでやめた。
真田に声をかけるのさえ億劫だ。早いとこ出て行ってくれ。
「幸村…」
しかし、コイツのしつこさといったら本当、尋常じゃない。
まぁ、それだからこそ、中学最強と言われるまでに強くなったんだろうけど。
(いくら俺が来るなって言ったって、聞かないだろうな…)
なんだかバカバカしくなった。
結局、真田はいつでも自分の思い通りに、したいようにしているんだ。
それで俺を思いやってるつもりになってるんだから、全く始末に負えないよ。
「……駄目か?」
おい、中学最強の『皇帝』が、そんな哀れな声を出すなよ。
----------ぞくぞくするじゃないか。
バカバカしさの上に可笑しくなって、俺は口の中でこっそり含み笑いをした。
「そんなに来たいのか?」
「あぁ、もちろんだ」
脈があると見たのか、真田がぱっと表情を輝かす。
俺の一言でそこまで喜べるなんて、すごいよ、真田。
……バカじゃないの?
俺は肩を竦めた。
「まぁ、別にいいけど……折角来てくれるんなら、俺の喜ぶこと、してよ?」
「勿論だ、なんでもする」
真田が嬉しげに言うのを、俺はベッドに仰向けになって横たわったまま見上げた。
「なんでもしてくれるんだ?」
「あぁ」
真田が頷く。
太い首筋が動いて、筋肉が盛り上がる。
随分と安請け合いするんだね、真田。
本当に、お前はおめでたいよ。
そんなに俺の事が…………好きなんだ?
バカ、という言葉が脳裏に浮かんでは消える。
「そう………じゃあ」
俺は身体を起こしてテーブルの上にあったケーキの箱を開けると、中から小さなケーキを一つ取り出した。
生クリームがたっぷりかかったやつだ。
それを真田の見ている前でゆっくりと、リノリウムの床に落とす。
ベチャ……。
と汚らしい音を立てて、ケーキが床に潰れた。
「………」
真田が男らしい精悍な顔を顰めて、息を飲む。
「ケーキ、一つ食べてみてよ。綺麗に食べたら明日も来ていい」
「…ゆきむら……」
「いやなら別にいいよ。もう来るな。……あぁ、四つん這いになって口だけで食べるんだよ?」
「………」
真田の眉間に皺が深く刻まれ、唇をぎり、と噛み締める音まで聞こえてきそうだった。
----------なんだ。
いまいち覚悟が足りないんじゃないか?
こんな事ぐらいで怒っているようじゃ、興ざめだよ。
「なんだ、いやならいいって。……じゃあな」
俺は肩を竦め、ベッドにもぐろうとした。
「ま、待て……」
もう、どうでもいいんだけど……。
というような目つきで真田を見たら、真田が目に見えて狼狽した。
「す、すぐに食べるから、待ってくれ…」
言うなり、床に四つん這いになって、べちゃ、と汚らしく落ちたケーキに鼻を突っ込む。
忽ち鼻が生クリームで汚れ、真田は苦しげに顔を顰めた。
大きな手の甲に浮き出た血管が、びくびくと脈打っているようにも見える。
へぇ、結構真剣なんだ…。
あの『皇帝』真田が、蛙が歩いているみたいな格好で無様に床に這い蹲っている。
黒い頭が動いて、ぺちゃ、という汚らしい音が響く。
俺のスリッパの汚れとか、食べ物の滓とか埃とか、そんなものが付着している床に落ちたケーキ。
(………)
まぁ、今日の所は大目に見てやろうかな…。
必死で舐めている真田が滑稽で、俺はいつになく気分が晴れた。
潰れたカステラ部分までも必死で吸い込むようにして食べて、床を綺麗に舐めている真田を上から見下ろすのは、意外に気持ちが良かった。
なんだか、雨で鬱屈した気分が少し消えたようだ。
これなら夕飯が出ても、夕方の検診の時も、ちょっとは中学生らしくお医者さんや看護士さんに応対できるかな。
看護士さんにケーキも上げられるしね。
見ているうちに真田がすっかりケーキを食べ終えた。
四つん這いになったまま、窺うように俺を見上げてくる。
口許を唾液で濡らし、生クリームが少し鼻の頭に付着したままで見上げてくる、中学最強の『皇帝』の姿は、滑稽以外の何者でもない。
俺は瞳を細めて、微笑した。
「幸村…」
真田がぱっと顔を輝かせる。
(ほんと、バカだね…)
「明日も来ていいよ」
でも俺はとりあえず機嫌が良くなったから、真田にそう言ってやった。
「あ、あぁ、有難う…」
おずおずと身体を起こしながら、真田が頭を下げてくる。
「もう夕飯の時間だから、今日は帰ってくれ」
「あぁ、ではまた明日…」
明日も来るつもりなんだ。
懲りないんだね、真田。
じゃぁ、明日は何をしてもらおうかな…?












真田の艶やかな前髪に、床の埃がまだらに付着していた。
病室を出て行く広い背中を、俺はじっと見つめた。
















幸村はもっといい人だと思います…(汗)