誘惑
 《1》











井上が真田から連絡を受けたのは、春の取材が一段落して、関東大会までまだ間があるという、些か仕事が暇になった時だった。
井上は仕事の性格上、各中学の顧問や部長の携帯番号を教えてもらっている。
取材の申し込みをしたり、載った雑誌の記事について確認を求めたり、さまざまな業務連絡に必要なので、井上の携帯にはかなりの数の番号がメモリーされていた。
真田の携帯番号もその中の一つであり、部長の幸村が不在の現在、立海で連絡を取れるのは真田に限られていたので、井上は真田には自分からも頻繁に電話を掛けていた。
だから、真田から電話があった時も、先日自分が申し込んだ取材の返事か何かだろうと思って出た。
ところが、その時の真田の電話は違っていた。
何か押し殺したような、口籠もった調子で、個人的に相談したいことがあるので、時間を作ってもらえないか、と言うことだった。
口調からして、個人的な悩みでもあるかのようだった。
(真田君にねぇ……)
立海大附属中の真田といえば、中学テニス界の皇帝としてその名を知られ、王者の風格と威厳を持った、類い希なる存在である。
その彼の、彼らしからぬ口調。
いつもなら落ち着いた声音で話してくる彼の、口籠もって発音のはっきりしない様子が、井上には気になった。
仕事に閑暇があり、融通の利く時期だったことも幸いした。
すぐにでも会えるよ、と言ってどこにしようかと問い掛けると、真田が言いにくそうに、井上さん、独り暮らしですよね、井上さんの部屋にお邪魔していいですか、と言ってきた。
他人に聞かれたくない悩みでもあるのか、あの真田に……と意外な心持ちがしたが、井上は快諾した。












「あんまり綺麗じゃないけど、すまないね」
次の日の夜、真田がやってきた。
学校帰りだろうか、立海の制服にテニスバッグを持ったままである。
井上はその日は早めに職場を辞し、自宅で記事をまとめながら真田を待っていた。
ほどなくして部屋のインタフォンがなり、真田がやってきたという次第である。
昨日の口ぶり同様、真田はどことなく落ち着きのない様子で、帽子を取り挨拶をする動作も、いつもの彼ではなかった。
視線が泳ぎ、秀麗な眉を軽く顰めて、唇を固く結んではいるものの、迷いがあるような表情である。
なにか、……たとえば、部長の幸村君の事ででも、悩みがあるのだろうか。
つとめて明るく振る舞って真田を部屋の中に招き入れながら、井上は思った。
井上のマンションは20畳ほどのワンルームで、何もなければ広さは十分だったが、雑誌記者という職業柄、さまざまな資料が壁際の山積みにされた、雑然としたものだった。
細長い部屋の一方の壁にはベッドが置かれ、反対側の壁にはパソコンや大型テレビが並んでいる。
バルコニーに面した南側は明るく、資料が散らばっているとはいえ、掃除は怠らない井上の部屋は、若い男性の部屋にしては清潔だった。
窓際のソファに真田を案内して、キッチンの冷蔵庫から冷たいペットボトルを取りだし、真田の前の小さなテーブルに置く。
真田が軽く溜息を吐いて、俯き加減にそのペットボトルを取って口に付けるのを、井上は観察するように眺めた。
今日はどうもいつもと印象が違う。
立海大やテニスコートで会う彼は、もしかしたらそれは表向きの彼のポーズなのかもしれないが、常に自信に溢れ、落ち着いて、年齢不相応な、悪く言えば尊大で傲慢な雰囲気も醸し出すような感じだった。
そんな雰囲気が納得させられるような彼の風貌や態度でもあった。
それが、今、自分の目の前にいる真田は……井上は自分もペットボトルを開けて真田の向かいのソファに座りながら、真田を眺めているのだが、……今日は年齢相応の、どこか心細そうな感じさえ受けるほどだ。
「……わざわざこっちまで出てきてもらって悪いね。学校から遠かっただろう?」
「いえ、電車ですぐですから……。それより、井上さんにも無理を言ってすみませんでした」
「いや、俺は全然大丈夫だからね。気にしないでくれよ……で、相談ってなんだい?」
真田の殊勝な物言いに、かえって居心地が悪くなって、井上は慌てて明るく問いかけた。
ペットボトルを握りしめた真田の手が震え、言い出すのを逡巡しているように視線が泳ぐ。
いつもなら自分の目を見据えて話す真田の、今日は俯き加減に視線を逸らす仕草がいつになく頼りなく見えて、井上は心配になった。
なにかよほど悩みがあるのだろうか。
「なんでも、言ってくれよ。俺でできることなら力になるからね?」
と、いつもの真田にではなく、年齢相応の中学生に話しかけるような優しい口調で言うと、真田が目を瞬かせながら井上を見上げてきた。
「………井上さんは……」
よほど言いにくいのだろうか、そこまで言いかけた所で、口が止まる。
「なんだい?ほら、気楽に言ってみてくれよ?」
真田を元気づけるように明るく戯けた口調で言うと、真田が一瞬井上を見つめて、すぐに視線を逸らし、瞬きをした。
いつもの真田らしくない迷った仕草をまじまじと眺め、井上は、真田が思いの外整って繊細な表情をするのに気が付いた。
普段は彼の皇帝然とした雰囲気に気圧されて気が付かなかったが、よく見ると真田は綺麗な少年だった。
形の良い黒いすっきりとした眉を寄せ、忙しく瞬きするたびに震える殊の外長い睫や、困ったように引き結ばれた唇など、いつもの険がない分、繊細な清楚さを漂わせていて、井上は思わず目を奪われた。
と、そこに──。
「井上さんは、ゲイなんですか?」
と、思いもがけない言葉を言われて、井上は動転した。
「………え?」
鼓動が跳ね上がる。
鳩が豆鉄砲を食らったような表情だったのだろう、真田が瞬時眉を顰め、済まなそうに目を伏せた。
伏せられた長い睫が動くのを呆気に取られて見ていると。
「………あの、失礼な質問だったら申し訳ありません……」
と消え入るような声で言ってきたので、井上ははっとした。
「あ、いや…………その、……どうして、そう思ったんだい?」
と慌てて答えるが、声が震えてしまった。
実のところ、真田の質問は当を得たものだった。
つまり井上はゲイだったのである。
しかし、そんな個人的な嗜好のことを勿論人前で言ったこともないし、仕事上も決して悟られぬようにしてきたはずだった。
あくまでプライベートな事であって、まさか取材先の中学生に悟られるようなへまなどしていないつもりなのだが……。
「……実は、×××で、井上さんを見かけました」
しかし、次の瞬間に真田が言った言葉に井上はぎょっとした。
×××とは、東京の有名な繁華街にある店で、ゲイ専門のいわばハッテンバのようなものだった。
当然そういう嗜好のある者しか知らないし、行くことのない場所でもある。
現在パートナーを持っていない井上にとっては、自分の性欲を発散させるのにそういう場所が必要不可欠で、手軽に利用していた。
が、そういう場所に行く者は限られているから、まさか仕事先の人間に見られているなどとは想像もしていなかったのだ。
それを、真田に見られていたとは……。
「……それは……」
見られていたのではしかたがない。
井上は腹を決めて頷いた。
「あぁ、そうだよ。……隠していたわけじゃないんだが、そういう個人的な事は仕事には関係ないと思ってね……。もし真田君がその事が原因で俺のことを気持ち悪い、と思ったのなら、申しわけ…」
「違うんです」
最後まで言い終わらないうちに遮られて、井上が不審に思って真田を見つめると、真田が形の良い眉をくっと寄せた。
「………井上さんは、俺を見てどう思いますか?……俺も、ゲイに見えますか?」
「……え?」
突然思いも寄らなかった質問をされて、井上は困惑した。
「真田君……?」
「俺は……自分がゲイなんじゃないかと思うのですが、井上さんから見てどう思われますか?」
「………」
咄嗟に声が出なかった。
真田は真剣な表情で、しかも縋るような目つきで井上を見つめてきていた。
どうみても、からかっているわけでも、冗談で言ってるわけでもないようだった。
「なんで、そう思ったの?」
「俺は、女性に興味が持てないのです。好きな女性がいないからだろう、とか思っていたのですが、…でも、興奮はするんです。ただし、興奮するのは……」
真田が言いにくそうに言葉を切る。
「……男に対してなんです。女性じゃないんです。もしかして、俺はゲイなんじゃないかと思い、調べました。×××の名前を調べて知り、思い切って行ってみようとしたのですが、ちょうど店に入る井上さんを見かけて…」
「……誰か、好きな男性でもいるのかな?」
「いえ、そこまでは……」
井上の質問は真田には刺激が強かったようだ。
恥ずかしそうに視線を逸らす真田から、井上は目が離せなかった。
まさか、この目の前にいる、中学テニス界の皇帝が、ゲイだとは……。
本当だろうか。
いや、この真田がわざわざこうして言ってきたのだ。
彼は嘘を吐くような人間ではない。
だから、本当のことなんだろう。
それにしても、真田が………。
今までそういう目で見たことがなかった井上は、その時初めて、ゲイとしての男の目で真田を見た。
そういう目で見ると、真田は限りなく魅力的に映ることに気づいて、井上は愕然とした。
中学生とは思えぬ落ち着きと不遜さでありながら、よく見ると繊細で美しく清楚な雰囲気も持ち合わせている。
大人と遜色ない体つきでありながら、大人のように堅くはなく、しなやかな身体。
今日のように頼りない様子は少年らしく、いつもの尊大な雰囲気とのギャップが また何とも言えずそそられる。
と、ふと舐め回すように真田を見ている自分に気が付き、井上は狼狽した。
「いや、こうして見ている分には全然分からないよ。ほら、俺だって、分からないだろう?」
内心の狼狽を隠すようにおどけて答える。
「……自分が分からなくて不安なのかい?……そう言えば俺もそうだったかな……」
真田が微かに頷く。
「はっきり分かるには、行動に移してみるのが一番いいんだけれどね」
「……行動ですか?」
「あぁ。何事も経験だよ。×××とか、思い切って一度言って誰かと経験してみるといいよ。……っと、真田君はまだ中学生だったな。駄目だ駄目だ、変な所に行ってはね?せめて、大学生になってから……だね」
おどけたまま言ってみて井上は反省した。
いくらなんでも中学生ではそういう店には行かせられない。
いや、高校生だって駄目だ。きちんと大人になってからでなくては。
真田が表情を曇らせた。
「そうですか……」
沈んだ口調で言って、俯く。
俯いたまま、膝の上に乗せた拳を握りしめたり擦り合わせたりして、何か考えているようだった。
声を掛ける事ができず、黙ったまま見守っていると、真田が顔を上げた。
「井上さん……」
「………」
何か思い詰めたような口調に、井上は返事ができなかった。
「井上さんに、お願いしたら、してもらえますか?」
「…………真田君?」
「俺を………」
どうしても言葉が出ないのだろう、真田が苦しげに瞬きをし、ソファから立ち上がった。
井上の前まで来ると、膝を折って頭を垂れる。
「もし、嫌でなかったら………俺を……」
やはりどうしても言葉が出ないようだった。
代わりに真田は行動に出た。
真田の中学生にしては大きな手が震えながら井上の手を握ってくるのを、井上は呆然としたまま見下ろした。
「お願いします……」
震える声音。怯えた誘い。
あらがえるわけがない。
井上は無意識に真田の手を引き寄せ、その震える身体を抱き寄せていた。