屋上へ上がる階段を一段一段昇る。そこは本来ならば出入り禁止の場所だった。
進入禁止、と張り紙がしてある。
その張り紙を全く意に介せずに獄寺は擦り抜けて、屋上へと通じる扉を開けた。
そこもいつもは施錠してある。
誰も立ち入れないはずの場所だが、獄寺は勿論非合法な手段で屋上の扉を開ける鍵を手に入れていた。
その鍵をツナや山本にまで合い鍵として渡しているぐらいだ。
ギィ、と鈍い音を立てて扉を開け外に出る。
秋の少し和らいだ日差しが獄寺の灰銀色の髪を照らし出した。
きらり、とコンクリートの床に暗銀色の残像が揺れる。
それは、獄寺隼人という人物の美しさをいやが上にも際立たせた。
扉を乱暴に閉めると、獄寺は制服のズボンのポケットに手を突っ込んで、だらしなく歩き始めた。
獄寺のお気に入りの場所は、給水塔の陰だ。
赤錆びた鉄骨の階段が数段ある給水塔は、屋上の西の端に建っている。
そこまで歩き、南側の陽の当たる一隅に座り込んで、コンクリート壁に背中を凭れ、獄寺は軽く息を吐いた。
なんだか、気分が落ち込んでいた。
空を見上げる。
秋特有の薄い絹雲がすうっと空に白く伸びており、すっきりとした深味のある青色が、獄寺の灰緑色の眸に映る。
明るいその虹彩を猫のように狭めて空を見上げてから、長い睫を静かに下ろして獄寺は俯いた。
気分が落ちるなど、全く、自分らしくないとは思う。
なんだろう、この気持ちは。
どこか頼りなくて、まるで自分が無力な赤子になって放り出されたような、そんな不安定さ。
誰かにすがりたくなるような、独りでは居られないような、居ても立ってもいられない、焦燥感。
誰からも疎外されているような、寄る辺のない心細さ。
───一言で言うと、寂寥感。
「一体、どうしたって言うんだ…」
獄寺は細く秀麗な眉を寄せて、ぼそりと呟いた。
元々自分は今の今まで、物心着いた頃から孤独に生きてきたはずだ。
他人とつるむ事もなく、どこかに属するという事もなく。
反対に言えば、誰からも受け入れられず、生きてきた。
そんな自分を、これでいい、と、一人で十分だと思って生きてきたのに。
それなのに、随分とこの頃は勝手が違う。
獄寺はそんな自分の心境の変化にも戸惑っていた。
ボンゴレファミリーの一員となって、日本に来てからだ。
……それでも自分はフリーのマフィアという認識があった。
たとえボンゴレファミリーの一員となっても、自分という存在自体は誰にも属さず孤高の存在であると、そう思っていたのに。
日本でボンゴレファミリー10代目となる沢田綱吉に出会って、獄寺の心の中の何かが変わってしまった。
彼に出会ってから、一人でいるのが怖くなった。
いや、怖いというのとも違う。
今まで気付いていなかった、孤独、という観念。それを、ツナに心酔することで思い出させられた、とでも言うべきか。
「…………」
獄寺は溜息を吐いた。
壁を背にして座り込むと胡座を掻き、ズボンのポケットから煙草を取り出して、1本口に銜える。
ライターで火を点け深く吸い込むと、紫煙が肺に染み通っていって、身体が少し震えた。
自分には何も必要ないと思っていた。
自分以外は、他に、何も。
───愛情も、幸福も。
自分には確かな技量と精神力がある。
たとえ周りが全部敵でも、その中で討ち死にしようとも、最後まで敵に媚びることなく、一人で死んでいけるだけの気概が。
………なのに。
今は違う。
訳もなく気分が落ち込む。寂しくなる。
ツナに必要とされている、そう思う時の心の高揚。
ツナが自分を必要としていない、そう感じるときの、自分が全く存在価値のないものになってしまったような絶望感。
感情の上下が激しすぎて、獄寺は自分で自分を持て余していた。
「あーあ……くそ、うぜぇ…」
うざいのはこの場合自分だ。
ツナの右腕になりたい。
いや、なれるだけの力量はあると思うし、今はまだ不十分でも、向上心も誰よりもあるつもりだ。
マフィアはボスに絶対服従を誓う。だから、獄寺もそのつもりだった。
自分がボスと決めた人物に対する、絶対の信頼と服従を。
──しかし、それだけではなかった。
今の獄寺は、ツナ=10代目に、自分の存在を気に掛けてもらいたいのだ。
必要とされたい……それも、マフィアの一員としてだけではなく、ツナの心の中にまで入り込む人間として。
「何考えてるんだよ…」
けっ、と唾を吐いて、獄寺は立ち上がった。
灰の溜まった煙草を捨て、靴底で踏み潰して、火を消す。
屋上の火照ったコンクリートの床を歩き、端のフェンスまで行くと、両腕をフェンスにかけてぼんやりと校庭を眺める。
昼休みで、校庭は外で昼食を食べる生徒たちがそこここでたむろっており、屋上の獄寺の所まで微かなさんざめきが聞こえてきた。
ふと、校庭の隅に目がとまった。
ツナが居た。
一人ではなかった。
二人で仲良く隣り合って座っている。隣には、同じクラスの明るく元気の良い、黒髪の人物。
(…………)
獄寺の胸がずきん、と痛んだ。
山本だ。
ただの普通の中学生。自分のようにマフィアでもなければ、ツナを敬愛しているわけでもない。ただの。
……それなのに、胸が痛い。
山本と話しているツナは、遠目からでも弾けるような笑顔を見せていた。
あんな笑顔を自分に見せてくれただろうか。
いや、………覚えてない。
自分と話すときのツナは、いつ自分を怖がっているか、呆れているか、……それでも、ツナが自分の事を信頼してくれているのは分かっている。
最初は突っ掛かっていった自分を助けてくれて、こうして今、一緒にいてくれる。
それだけで良かったんじゃないのか。
そうだ。
それだけで良かった。マフィアのボスと部下。そういう関係だったはずなのに。
(……胸がいてぇな…バカだぜ、オレも…)
何を願っているのか。
叶わない願い。
山本に対してか。ツナに対してか。
この胸の空虚さ、寂しさは何だろう。
「さあな……オレは、10代目の右腕になるだけだからな…」
屋上にいる獄寺を見つけたのだろうか。
遙か下、校庭からツナが自分の方を見上げて手を振ってきた。
さっき、山本と話していた時よりは少し強張った笑顔で。
手招きしている所を見ると、こっちへ来ないか、と言っているようだ。
たとえ、緊張した笑顔であっても、獄寺の心にそれだけでもぽっと暖かいものが灯る。
ツナが自分を気に掛けてくれた。自分を誘ってくれた。
それだけで、冷え切っていた心が暖かくなる。
なんて単純なんだろう、と自分でも呆れる。
しかし、手招きするツナを見たら、もう、それだけで獄寺は屋上になんかいられなくなった。
食べようと思って持ってきたパンの入ったコンビニのポリ袋を提げて、扉を閉めて階段を駆け下りる。
ツナと山本の姿を見たら、一人で屋上にいるのがこの上なく寂しくなった。
不思議だ。
今まで自分はどんな時も、本当に子供の頃からたった一人で生きてきたというのに。
それなのに、今はとても一人が寂しい。
そして、寂しい、と思う事が、なぜだか少し嬉しい。
(……どうかしてるぜ)
昇降口から外に出ると、端のベンチに座る二人が見えた。
鼓動がトクン、と跳ねる。
こんな些細な事で。
今まで何度も凄惨な修羅場をかいくぐってきた自分が。
───でも、嬉しい。
笑顔で迎えてくれる人がいて、その人の事を誰よりも敬愛していて、その人の一挙手一投足で振り回されている自分が、愛しい。
「獄寺くん、お昼食べてないんでしょ?一緒に食べようよ」
ツナの声だ。
「はい、10代目!今行きます!」
こんなに胸が高鳴るなんて。たったこのぐらいの事で、全身が喜びにひたされるなんて。
今までの世界は、氷のようだった。凍った、冷たい無機質の世界だった。
その自分の生きてきた周りの世界が、一気に変わる。
柔らかく、繊細に。酷く傷つきやすく、優しく。
それが嬉しくもあり、そして獄寺にとっては、身が竦む程……怖くもあった。
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