小さな窓から入ってくる光は、高度1万フィートの上空では、紫外線をもろに浴びる。
空は青というよりはどす黒く、獄寺は灰翠に煌めく瞳を眇め、プラスチックで作られた遮蔽用の帳を下ろした。
黄白色の照明を点け、手元を明るくすると、キャビンアテンダントが持ってきた日本の新聞を読む。
日本語に関しては心配はない。新聞に載っている程度の漢字なら読めるし、語彙も分かる。
獄寺は母国語のイタリア語だけでなく、英語、フランス語、スペイン語、ギリシャ語にも堪能で、更に母方の日本語にも精通していた。
空港を飛び立って8時間。あと数時間で日本に着く。
少し睡眠を取っておいても良い所だが、眠くはなかった。
日本の新聞を読むのは初めてだったが、特に獄寺の興味を惹くような記事は無かった。
どこの国でもあまり変わり映えのしない、殺人(とは言っても日本は平和らしく、殺人事件の起こる度合いはイタリアとは比較にならない程低いようだ)事件やら、政局、内憂外患の国事、不況等経済面の暗い記事、が続く。
ぱらぱらと捲り、小見出しを読んで、獄寺は新聞を閉じた。
ファーストクラスは、しんと静まりかえっており、完全に倒してベッドにする事の出来るソファに、目の前には小型液晶テレビ、スピーカー等が設置されている。
小型のテーブルの上には、グラスに入ったスパークリングワインの透明な琥珀色が、照明を反射している。
質の良い毛布を胸元まで掛け、ソファを倒して獄寺は先程閉めた遮蔽帳を僅かに開けた。
空が、黒い。
ゴウンゴウンという飛行機の驀進する音が、微かに響いてくる。
「日本、か…」
───別に、どこに行こうが、…構いやしない。
自分にとっては、この世界中の何処にも、居場所などないのだから。
イタリアだろうと、日本だろうと、アメリカだろうと、世界の果てだろうと…。
獄寺の生きてきた時間は、他に比して圧倒的に短い。
それはまだ13年だったが、それまでに彼は、家族を失い、帰属すべき場所を失い、思い出を失った。
いや、失ったのではなく、元々、持っていなかったとも言える。
獄寺は、知らない。暖かい世界を。平和な世界を。
彼の生きてきた世界は、常に硝煙と酒と煙草の臭いに包まれ、裏切り、殺し合いが日常茶飯事の、荒んだものだった。
飛行機内の彼は、丸腰だ。テロの脅威が叫ばれている昨今、飛行機のチェックは厳戒を極めた。
勿論、蛇の道は蛇。
自分を守るのに必須なダイナマイトや拳銃等、武器はマフィア経由の別便で既に日本に送っている。
日本では、ボンゴレファミリーが用意した、マンションに入居する事になっていた。
なんでも、年齢相応に、学生というものをやらなくてはならないらしい。
できるだけ凡庸に、日本に馴染んで、次期ファミリーのボスを見極めて、観察する。
「…温い仕事だぜ…」
幼少時は家庭教師について勉強しており、学校というものに行った事のない獄寺は、日本に来るまでの準備期間に学習した、日本の中学校というものに辟易していた。
勿論、マフィアにとってボスの命令は絶対である。
どんなにばかげた仕事であろうと、凡庸な蟻の集団の中に入れば、自分も蟻として行動せねばならない。
………平和、か……。
平和な日常。穏やかな日々。それらのものは、…獄寺も、映画やテレビドラマで、見聞はしていた。
きっと、そういう平凡な日常こそが、生きる喜びなのだろう…。殆どの人にとっては。
『Hayato、寝ないのか?』
隣の席に座って仮眠を取っていた男が、アイマスクを外し、獄寺に話しかけてきた。
獄寺を日本まで送り届け、ファミリーの日本支部との事務連絡等で同行してきた、ボンゴレファミリーでは獄寺の同僚にあたる男だ。
180p以上ある身長に焦げ茶の縮れた髪と黒い目。20代前半で、獄寺のような戦闘派ではなく、事務派だった。
携帯していたノートパソコンを開いて、何か作業でもするのか、太い指を忙しく動かし始める。
『もうすぐ着くだろ』
母国語で気のない返事をして、獄寺は照明を消した。
誰と話しても、何かが足りない。誰と触れ合っても、一時限り。
何をしたら、充実するのだろう。どうすれば、この倦怠と退廃と絶望から、逃れられるのだろう。
────何も、なかった。
誰かと、セックスする時の、一時の快楽。戦闘で、相手を倒した時の、一瞬の高揚。
ダイナマイトが爆発する瞬間の、目を焼く程の閃光。煙。爆音。
傷を負った時の、全身を焼かれるような、痛み。
何か、欲しい。手応えが。自分が生きているという事を、実感できる、何かが。
なんでも、いい。
オレを………一瞬でも救ってくれる、何かが…。
『Hayato、もうすぐ着くぞ』
はっとして、獄寺は目を開けた。
どうやら、ソファを倒したまま、うつらうつらとしてしまったようだった。
ソファを元に戻し、シートベルトを装着する。
飛行機が高度を徐々に下げ、やがて眼下には白い雲の渦が見え始め、黒かった空が少しずつ青味を取り戻していく。
───日本。遠い、極東の国。母の国。
感情の無い灰翠の目で、眼下を見下ろす。
何処でも、…何処に行っても、同じような気がした。いや、戦闘ができなくなる分、不安があった。
細く形の良い眉を顰め、獄寺は双眸を眇めた。
『どうした、感慨深いか?』
『べつに。……何処に行っても、同じさ…』
何処に行っても。…世界中、何処に行っても、自分の居場所はない。
彷徨い歩き、途方に暮れて、立ち尽くしていれば、孤独な夜が待っている。
『煙草、吸いてぇな…』
『飛行機を降りるまで我慢しろ。今日はホテルを取ってある』
『ホテルねぇ…アンタも泊まるのか?』
『あぁ。日本支部と打合せがあるから、数日滞在する』
──それなら、今日一日は、少なくともコイツで間に合わせられるってか。
獄寺は、隣の男の身体を横目で眺めた。
悪くない。
セックスの時の高揚感を身体に思いだして、獄寺は無意識に下唇を舐めた。
乾いて、ひび割れた砂漠にも、今日一日だけは雨が降ってくれるようだ。
『何を考えている?』
『……オレの考えてる事ぐらい、分かるだろ?』
『…まぁな…。スモーキンボムの悪行は知れ渡ってるからな…』
男が薄い笑いを浮かべて、広い肩を竦めた。仕立ての良い黒いスーツに少しだけ皺が寄る。
『素敵な夜と行こうぜ?』
『…子供が知ったような口を聞くな』
『年の話はするな。…同じ仲間だろ?』
『お前の口から仲間、という言葉が出るとは珍しい。少しは感傷的になったのか?』
『別に……煩ぇよ…面倒くせぇ話はナシだ』
言葉は虚しい。どうせ、口から出任せの、ただのくだらない遊び。
話せば話すほど、寂しくなる。だから、口を噤む。
意志は、身体で示せばいい。
戦闘で、セックスで。痛みと、血と、死にもの狂いの感情とで。
飛行機が着陸態勢に入る。
ガクン、と振動がして着陸し、滑走路を滑り、やがてゆっくりと大きな機体が動かなくなる。
急に名状しがたい寂寥感が全身を襲って、獄寺は身震いした。堪えようのない寒気と、頭痛がした。
『大丈夫か?』
シートベルトを外した男が、太い眉を寄せて獄寺を覗き込んできた。
『心配なんかするんじゃねぇ、クソが』
やめてくれ。
誰も、オレに近づかないでくれ。
オレに優しくなんか、しないでくれ。
オレを、弱くしないでくれ。
男を押し退けて、獄寺はがんがんとする頭を抱え、蹌踉めきながら立ち上がった。
誰の助けも要らない。誰にも縋らない。
それだけが、唯一、自分に残った、掛け替えのない矜持。
『すぐにホテルに直行しようぜ…?』
セックス────それは、頭痛を、全身を襲う寂漠を直す特効薬。
灰翠色の瞳に欲情の色を湛えて、獄寺は相手を見上げた。
男が、獄寺の蠱惑的な表情に、ごくり、と喉仏を動かす。
そうだ。オレに欲情しろ。オレを壊して、貫いて…………殺してみろ。
『あぁ、そうするか…』
バリトンの低い声に、男の隠しきれない情欲が滲み出る。
口端を綺麗に吊り上げ、獄寺は極上の笑みを浮かべた。
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