◇水底   






「おはよう!ツナ」
「おはようございます!10代目」
いつもと同じ、賑やかな並盛中。
明るい声が教室に響いて、がやがやとクラスメイトが騒いでいる。
この間までリング争奪戦をしていたというのに、そんな事など微塵も感じさせない平凡な日常が戻っている。
───まるで夢のようだ。
賑やかな教室の真ん中辺りの席に座って、綱吉はそう思った。
普段通りの日常。暖かい友人達。
守護者という役割は新たに与えられたとしても、今までと変わりなく接してくれる友。
見守ってくれる母。
優しいガールフレンド。
何も、失ったものはない。変わった事もない。





───そう、思っていたけれど。
一つだけ、違った。





夜、一人になってベッドに入り、照明を消して窓からの月の光にぼんやりと照らされると。
眸を閉じて、寝よう、と布団を被ると目蓋の裏に。
コポコポ……
水音が脳裏に木霊する。
透明な、深い蒼色。水の底。
冷たい水の底で、太い鎖に繋がれて、藍色の髪が水に揺らめく。
はっとして目を開けて、頭を振る。
枕に頭を押しつけて、眸を強く瞑って眠ろうとする。
───コポコポ…
あぁ、これは、泡がたち上る音。
深い水の底。
赤い右目を封じられた、細身の青年。
髪が揺らめいて、まるでそれ自体が幻想のように───揺らめいて、見える。
「……ボンゴレ……」
声が、聞こえる。
低く甘く、どこか寂しげな声。
自分を、呼んでいる声。
遠くから、近くから、……どこから聞こえてくるのか。
耳に響いて、すっと消えていくような、声。
綱吉は、目を開いて、頭を振った。
テレビを点けて、無理矢理ふざけたお笑い番組を見る。
暗い部屋に、テレビの灯りが八方に散り、家具の暗い影をそこここに落とした。
昼間は思い出さないのに、夜になると、こうして寝る時間に一人になると何故か、頭に思い浮かんできてしまう。
───六道、骸。
今どうしているか、など、……考えては、いけない。
彼がたとえ深い水の底で拘束されているとしても、それは自業自得なのだ。
自分が気にすることではないし、気にしてもどうしようもない。
それが骸の運命なのだから。
……そうは思っても、やはり気が重かった。
考えると、胸の辺りが苦しくなって、塞がれたように息ができなくなる。
(………骸…)
名前を呼ぶと、どこからか返事が聞こえるような気がした。
「……お呼びですか、ボンゴレ…」
寂しげな、響き。
水の中から、ゆらりとゆらめいて聞こえてくるような、遠い響き。
潮騒の、寄せては返す海の音のように。
(…呼んでない)
自分に言い聞かせて、綱吉は布団を頭から被った。
テレビの調子外れの明るい笑い声が、部屋に木霊する。
骸の声が聞こえなければ、なんでも良かった。
どんなくだらない番組でも、興味のないテレビでも。
綱吉は堅く目を閉じて、テレビの音に意識を集中した。







結局、その日もあまり眠れなかった。
テレビを聞きながらまんじりともしないでベッドの中で布団を被って過ごし、明け方にうとうとしただけだった。
寝不足で、頭が痛かった。
「つっくん、風邪?」
母が心配そうにしていたが、綱吉は無理に笑って違うと言い、家を出た。
学校に行けば、気分が紛れる。
いつもの日常。いつもの友人達。
苦手な勉強でさえ、気を紛らわせるのには丁度良かった。
「10代目、顔色が悪いようですが……まだ、リング争奪戦の疲れが残ってるんすか?」
獄寺にも心配そうに尋ねられた。
「違うよ、単に寝坊しただけって。獄寺君、すぐ心配するからね」
「そりゃ大切な10代目のお体ですからね!」
そう、───こういう風に自分の事を心配してくれる友人が、今ではたくさんいる。
掛け替えのない、仲間達。
(…骸も……?)
骸も、その中に入るんだろうか。
霧の守護者であるクローム髑髏と六道骸は二人で一つ、とリボーンが言っていたから。
……骸の事は考えてはイケナイ。
「…10代目?」
「あ、うん……やっぱりちょっと風邪かなぁ…」
「大丈夫っすか?シャマルのやろう、男は診ない、とか言ってますが、10代目なら診てくれますよ、保健室行きますか?」
「ううん、大丈夫。…早退するよ。うちで寝てれば治ると思うからさ」
「じゃ、10代目、俺も早退します!」
「駄目駄目、獄寺君はちゃんと学校やっていってよ。ね?」
一緒に帰ろうとする獄寺を押しとどめて、学校を出る。
外に出ると、直に降ってくる午後の太陽の光に、ふらりと眩暈がした。





何処か……おかしくなっているのかもしれない。



自宅に戻って、心配する母にも理由を言って、パジャマに着替えてベッドに潜り込む。
寝不足だったからか、すぐに眠れた。
……が、浅い眠りだったようで、夢を見た。
夢だと分かっていて、夢を見た。
綱吉は、どこか広い草原に立っていた。
空は青く、白く輝く雲が流れて、足許の草がそよいでいた。
目の前に、白銀に煌めく湖があった。
湖面に空が映り、蒼く煌めいては漣が立ち、透明な水が揺れる。
湖面がゆらゆらと揺れ始め、少しずつ漣が大きくなって──
藍色の頭が、濡れた髪が、深紅と蒼の眸が、綱吉を捉える。
湖の中から、骸は現れた。
つやつやと光る藍色の髪から、宝石のように水の雫が滴った。
黒曜中の制服がしっとりと濡れていた。
「ボンゴレ……お会いしたかったですよ…」
耳に甘く響く、低い声。
立ちつくしている綱吉の前まで、水滴を滴らせながら、骸が近づいてくる。
額に貼り付いた長い前髪を、濡れた指先で払い、深紅と蒼のオッドアイを細めて、綱吉を見下ろしてくる。
「君に、逢いたかった。……遠い水の底から、君に呼びかけて、いました…」
「……うん…」
知らない内に、返事をしていた。
返事をすると、骸が微かに笑った。
「君だけは、僕の声を、聞いてくれた。…僕を見つけてくれた…」
「…うん…」
「先日は、久し振りに直接お会いできて…嬉しかったですよ、ボンゴレ…」
「直接…?」
「えぇ、リング戦の時。…あまり長い間はいられませんでしたが…」
「そうだね…驚いたよ…」
どうして自分は骸とこんなに親しげに話しているんだろう。
夢の中で、綱吉は不思議に思った。
骸は、自分の身体を乗っ取り、世界を破壊しようとした人間だ。
一番近寄ってはならない、存在のはずのに。
───でも。
「おや、どうしました…?」
骸が首を傾げて微笑した。
「泣かなくて、いいんですよ、ボンゴレ……。僕は、今、幸せですから…」
「幸せ…?」
「えぇ、君に、会えて…話していられるから…、クロームを通じて、一応、仲間になったようですしね…」
骸の冷たい濡れた手が、綱吉の頬をそっと撫でてきた。
目尻に触れられて、冷たい指先に、頬が少し震えた。
怖いからだろうか。
それとも、……悲しいからだろうか。
何が悲しいのか、分からないけれど、……胸が、苦しい。
綱吉の涙を、骸の指がぬぐい取っていく。
その指を口元へ持っていって、骸はふっと笑った。
「君の涙は、塩辛いかと思ったら……甘いですね、ボンゴレ…」
「……骸…」
「さぁ、もう、行かなくては……」
「………」
「また、お会いしましょう、ボンゴレ……」
すっと身体が離れる。
綱吉を見詰めて微笑する骸の顔は、どこか寂しげで、そして優しかった。
くるり、と身体の向きを変えて、骸が再び湖へ戻っていく。
身体が水に浸かり、腰から胸へ、胸から首へ、と湖の中へ消えていく。
「……骸……骸!」
いつの間にか、叫んでいた。
最後に、骸が振り向いた。
首を傾げ、微かに笑った。
「……君に名前を呼ばれると、……嬉しいですよ…」
頭が湖に沈む。
髪が一瞬湖面に広がって、波を立てて……湖は元のように静かになった。







はっとして目が覚めると、夕方だった。
窓からオレンジ色の夕日が差し込み、部屋をほんのりと明るくしていた。
「つっくん、起きた?お夕飯よ?」
階下から母の声がする。
「う、うん、今行く」
涙が流れていた。頬を伝って、枕まで。




頬をゴシゴシと擦って、綱吉は起きあがった。






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