◇蔵魄之地(ぞうはくのち)  2   




夜中。
昼過ぎから降り出した雨は雨脚を強くし、ざぁっという重い音が、緑なす葉を叩く雨粒の音が、窓の中にまで入り込んできていた。
ベルベッド地の厚いカーテンを僅かに開いて暗い窓の外を瞬きもせずに眺めていたザンザスの耳に、雨音に混じって聞き覚えのある靴音が響いてきた。
厚いカーテンを降ろすと、外の雨音は瞬時に静まり、しんとした部屋に、廊下の靴音がだんだん音を大きくして響いてくる。
扉が音もなく開いて、すうっと白い影が室内に入ってきた。
幽鬼のようにゆらりと銀髪が揺れ、暗い室内照明に鈍く銀色の光を乱舞させる。
「た、ただいまぁ、ボスぅ……帰ってきたぜぇ」
雨の匂いを纏わりつかせ、スクアーロはひっそりと入ってきた。
しなやかな身体が瞬時に動いて、窓際に立っていた自分の前まで来る。
雨の匂い以外にスクアーロからは清潔な石鹸の匂いがした。
男に抱かれた後にシャワーを浴びてきたのだろう。
他人の匂いは一切付けていなかった。
「うまくやったぜぇ…。な、なぁ、褒美くれよぉ…。頭、撫でてくれぇ…」
おずおずと銀色の頭を近づけてくるスクアーロを一瞥し、ザンザスは顎を上げて紅蓮の瞳を細めた。
次の瞬間、ガッと鈍く重い音を部屋に響かせて、ザンザスはスクアーロの頭を殴った。
「……い゛ぅッッ!」
銀髪が宙に舞い、スクアーロの小さな頭が面白いように回転する。
それは軌道を失って止まる寸前の独楽のようだった。
左右に揺れる頭を更に張り飛ばせば、独楽が倒れるように黒い私服を身に纏った細い身体が絨毯の上にうち伏す。
そこを硬いブーツの先で腹部から腰にかけて容赦なく蹴り飛ばす。
身体が蹴られるのに従って飛び跳ねる様は、陸に上げられた断末魔の魚のようだった。
銀髪の跳ねる様も、魚の鱗が飛び散って光るのに似ていた。
「ボ、ボスッッ……ご、ごめんなぁ…ッ」
薄い唇にをから流れ出た鮮やかな紅の血に汚して、スクアーロが床に這い蹲る。
「……脱げ」
ブーツの先で薄い胸を踏み付けると、苦しげに顰められた眉が震え、鼻血を盛大に流して顎まで赤く染めたスクアーロが、潤んだ銀蒼の眸を許しを請うように揺らして見上げてきた。
「ごめんなぁ……」
何に対して謝っているのか、自分でも分からないだろうに。
スクアーロが謝れば謝るほど行き場のない怒りが溜まり、ザンザスは喉元をブーツで踏みにじった。
「うぐっ……あ、くっ…すぐ、脱ぐから…ま、待っててくれよぉ…」
スウアーロが弱々しく媚びるように笑い、おずおずとした銀蒼の瞳をザンザスに向けてくる。
舌打ちして足を引くと、彼はぱっと起き上がり、ぐらりと蹌踉めいて机の端に腰をぶつけた。
呻いて這々の体ではあるものの、それでもザンザスの命令を瞬時も忘れないようで、素早く鼻血を拭い、身に着けていた私服の黒いスーツを脱ぎ出す。
暗殺以外の任務の時、特に今日のように相手を懐柔するために抱かれに行くような時は、スクアーロはヴァリアーの隊服は身に着けていない。
当然といえば当然であるが、それでも彼は殆ど黒しか身に着けなかった。
僅かにシャツが純白であるのみで、他は全て黒だった。
黒は細身の彼によく似合っていたし、流れるような銀髪も、透明な銀蒼の瞳も更に引き立った。
黒い服から垣間見える喉や襟足の白さも際だった。
それは無垢な天使のようであり、また血で汚れ、黒手袋は決して外さないだけに、白と赤と黒と…胸が悪くなるような違和感を伴った美しさでもあった。
一糸纏わぬ姿になると、スクアーロはザンザスの瞳を、小動物のようにどこか怯えた、それでいて縋るような視線で見つめてきた。
白くしなやかな、筋肉の過不足無く張り詰めた均整の取れた肢体には、その白い素肌に一面、赤く浮き上がった痕が付けられていた。
十字に赤く浮き出し腫れている様をザンザスは眸を細く眇めて観察するように眺めた。
「……鞭か?」
「あ、あぁ。今日のヤツは、変態だったぞぉ…。オ、オレを鞭で打つと興奮するんだぁ。ほら、こことかよぉ、特に柔らかい所を打つのが好きみてぇだったぁ…」
黒手袋の上から右手指の爪を噛んでいたスクアーロがにやりと笑って、どこか嬉しそうに太股に浮き出た鞭の痕を示す。
そこは特に執拗に打たれており、紫色に腫れた部分から血が滲み出ていた。
「あ゛、でもよぉ、ちゃ、ちゃんと満足させてやったぞぉ。交換条件に、ほ、ほら、これも手に入れてきたしよぉ…」
スクアーロが脱ぎ捨てたズボンのポケットを漁り、小さな記憶媒体を取り出す。
嬉しげにそれを振ってみせ、おずおずとザンザスのテーブルの上に置く。
横目でそれを見て、それからスクアーロに視線を戻し、ザンザスは唇を歪めた。
スクアーロは馬鹿ではない。
自分の任務の目的が何かきちんと分かっていて、臨機応変、その場に応じた適切な対処(時には臨機応変に相手を殺す事もある)ができ、全く証拠を残さず戻ってくる。
優秀な暗殺者であり、狡知を巡らす奸計者でもある。
冷静な判断と瞬時の洞察力を兼ね備え、他人を殺すのに一瞬の躊躇もしない人間が、自分の前ではその片鱗も伺えず、木偶の坊のように突っ立って自分の命令をひたすら待っている。
縋るような哀れっぽい視線を向け、自分の言葉一つで躍り上がるほど喜んだり、これ以上ないほど打ちし折れたりし、そして決して自分を裏切らない。
この哀れな銀色の存在を、ザンザスは奇妙な感動を持って眺めた。
「鞭の他に何をされた…?」
スクアーロがびくんと顔を上げ、嬉しそうに口を張り裂けんばかりに開いて笑った。
端正な美しい顔の均整が崩れて、凶悪なまでに表情が歪む。
「ほ、他には、尻にいろんなもん、突っ込まれたぁ。…部屋にあった歯ブラシとか、ペンとか…いろいろ突っ込むのが好きみたいだったぜぇ…」
まるで豪華な食事でもしてきたかのように嬉しげに言うスクアーロに、ザンザスは口角を上げて薄く笑った。
全くコイツの頭はどうなっているのか。
理解しがたい。
ザンザスはスクアーロに数歩近づくと、彼の無防備な股間をブーツの先で蹴り上げた。
「う゛お゛おっっっ!」
蛙を押しつぶしたような呻き声とともに、スクアーロが股間を押さえて倒れ込む。
絨毯に頭を打ち付け、下半身を痙攣させ、彼はしばらくの間絨毯の上を転がって苦悶した。
「ボ、ボスぅ……」
「……来い」
顎をしゃくって執務室の隣の部屋を示す。
スクアーロからさっと目を離すと、ザンザスは振り向きもせずに寝室へと向かった。









執務室の隣はザンザスの私的空間となっており、寝室とバスルームが設置されていた。
古城の中の一室であるから既に何百年もの歳月を耐えてきた古い家屋ではあるが、設備は最新のものが備えられている。
壁際の古い飾り棚の上には蝋燭がゆらりと濁った黄色の光を揺らめかせ、壁にかかった中世のタペストリーを薄暗く照らし出していた。
中央には四隅に円柱の聳えた天蓋付きのベッドが設えられており、今はベッドを覆うカーテンが全て開けられていた。
ベッドに腰を掛けると、後から付いてきたスクアーロが銀蒼の眸を暗がりで輝かせ、ひっそりとザンザスを窺ってきた。
赤や紫の痣をつけた細身の身体を、さらりと流れるような銀髪が覆っている。
全く、この世の者ならぬほど美しい。
ザンザスは全裸のスクアーロの肢体を頭の先から足の爪先までじろりと一瞥してそう思った。
生き生きした躍動感溢れる美ではない。
どこか退廃した、腐りかけたものが発酵する淫靡な匂いに満ちた美しさ。
──スクアーロはその溢れんばかりの腐った美の中で影のように佇んでいた。
ベッドに腰掛けると足を組み、顎でスクアーロを呼びつける。
ブーツの先を揺らせばスクアーロは心得たもので、頷いて口端をだらしなく歪めて笑い、ザンザスの前に膝を突いた。
身体中に残る無惨な腫れも、痛みには尋常ならず強いスクアーロにとっては気にならないようで、屈む動作に不自然さはなく、銀髪が動作に従って流れ落ち、さらりと衣擦れのような音まで聞こえる気がした。
ブーツの紐を丁寧に解いて、スクアーロがザンザスの靴を脱がせていく。
両方を脱がせ、穿いていた靴下もスクアーロの手によって取り去られると、彼は恭しくザンザスの足の甲に額を押し当て、足先に唇を落とした。
銀色の髪がさっと流れ落ち、深い灰色の絨毯の上に小さな渦を巻いて広がる。
銀の光が天井のシャンデリアの照明を受けて煌めき、ザンザスの深紅の瞳を射た。
「ボスぅ……」
スクアーロが顔を上げて、ザンザスを窺うように見上げてきた。
虹彩の薄い銀色の瞳が、長い睫を震わせている。
美しくぞっとするようなどこか白痴の笑顔を浮かべる彼を、ザンザスは用済みとばかりに蹴飛ばした。
「う゛ぁっっ!」
弱々しい叫び声と同時に、スクアーロの身体が無様に倒れ込む。
「そこに立ってろ」
着ていた服を無造作に脱ぎ、ザンザスはベッドに横になるとスクアーロに背を向けた。
「ザ、ザンザスぅ…。…あ、あぁ、立ってるぜぇ…」
媚びるような物言いが背後から聞こえ、スクアーロが立ち上がったのが分かった。
部屋の中とはいえ、外はそぼ降る雨。
外からの冷気が忍び寄ってきてしんしんと冷える。
元々体温があるのかないのか分からないように、スクアーロは冷たかった。
全裸で立っていたらさぞかし冷たいだろうに、スクアーロは一言も発しない。
ザンザスに命じられた事を遂行することこそがスクアーロの存在意義であるかのように押し黙っている。
窓ガラスを打つ雨の音だけが、照明を落とした暗い部屋に響く。
横になって少しうつらうつらしたようだった。
ふと我に返り、ベッドヘッドの古い時計を見ると、1時間ほど経っていた。
ザンザスは寝返りを打ってスクアーロの方に向き直った。
彼は立っていた。
微動だにせずに、薄暗い間接照明の中で、彫像のように立ちつくしていた。
髪の毛さえも動かない。
頭部から真っ直ぐに流れ落ちた銀髪が、スクアーロの胸に一房流れ、肩を覆い、鈍い銀色の光を放っている。
表情は、と見ると、意識があるのかないのか、意志の見えぬ銀色の眸は焦点を失って物憂げに開き、息をしているのかどうか定かではない唇は微笑でもしているかのように薄く開いていた。
胸が微かに上下しているのが唯一彼が生きていることを示す証だった。
諸処に赤や紫の痕を残した肌は寒さのためか総毛立ち、更に白く青みがかって見える。
眉を顰め、手を伸ばして彼の右腕に触れると、氷のように冷たかった。
この寒さの中全裸で立っていればどうなるか、どんな馬鹿でも分かるだろうに。
このカスの馬鹿さ加減には、誰も太刀打ちできない。
いかな自分でも。いや、自分だからだろうか…
ザンザスは盛大に眉を顰め、いきなりスクアーロの右手を掴むとベッドに引きずり込んだ。
「う゛お゛ッッ!」
いきなり引き擦られて我に返ったのか、スクアーロが下卑た叫びを上げた。
冷たく血の通わない作り物のような表情が一気に歪み、どこか怯えと媚びを浮かべてザンザスを見上げてくる。
胸の内に込み上げてくるむかむかとした不快な思いに吐きそうになった。
この顔がたまらなく苛つく。
おずおずとした仕草が勘に障り、けして抵抗しない身体を消し去りたくなる。
凶暴な欲に下半身が反応する。
ベッドに引きずり込んだ身体を乱暴にシーツに押しつけ、両足を肩に担いで割り広げると、ザンザスは間髪を入れずにスクアーロを貫いた。
「──ぐあぁぁぁああッッッ!」
肺が引き攣れるような悲鳴を上げて、スクアーロが逃げを打つ。
煩い口を上から掌で覆い呼吸もできないようにして、ザンザスは一気に根元までペニスを深々と突き入れた。
鉄錆の濃厚な匂いがさっと立ち上る。
入った部分がぬるりと潤む。
乾いた入口を無理矢理引き裂いたため、出血したのだろう。
お陰で随分と滑りは良くなった。
「あ、あぁあ゛ーッ、ボ、ボスぅ…ッぅい゛あ゛ッ…ぐッうあ゛ぁああー!」
顔を激しく左右に振り、銀髪をベッドの上に散らして、スクアーロがのたうつ。
塞いだ手は激しく頭を振る彼の所為ですぐに外れてしまった。
お陰で煩い声が部屋に響く。
「黙れ」
圧し掛かって首筋に噛みつき一言命令すると、ぴたりと声が収まった。
顔中涙でぐしゃぐしゃにして、美しい銀糸の髪をべったりと頬に貼り付けて、スクアーロは歯を食い縛っている。
閉じた瞼がひくつき、銀色の睫が細かく震え、睫の先に玉になってついた涙をふるい落とす。
濁声の喘ぎ声が消えると、堪えているスクアーロの表情はなかなかに扇情的で、ザンザスは気分が高揚した。
黙っていれば悪くない。
おどおどした目つきも、声も、媚びるような視線も──今は情欲にとけて融合し、スクアーロというこの世に二つと無い稀有な存在を輝かせている。
名状しがたい程美しく苦痛に歪むその表情は、例えようもなく興奮を掻き立てる。
このまま首を絞めて殺してしまいたい。
それとも憤怒の炎で全身を焼き尽くしてしまおうか。
ぐっぐっと腰を進め内部を抉り突きながら、ザンザスは凶悪な欲望が身の裡に湧き上がるのに暗い悦びを覚えていた。
コイツだけだ。
オレをこのように高揚させることができるのは。
この、阿呆のような銀色の無垢な瞳が、しなやかな身体が、自分の命令ならばどんな事でも聞くであろう従順さと執拗さが、スクアーロの美徳だった。
他の誰にもない、彼だけの、掛け替えのない美しさだった。
立ちこめる血の匂いに身体の中が沸騰する。
脳内にアドレナリンが大量に放出される。
溶鉱炉のように煮え滾った熱が、下半身へと流れ込んでいく。
一際最奥を突いて欲情を吐き出すと、その刺激で射精したのだろう、スクアーロのペニスも熱い白濁を迸らせていた。










雨がいつの間にか小振りになっていた。
寒々とした冷気が窓の外から忍び寄り、爛れた部屋の空気を入れ換えていく。
ベッドに横たわったスクアーロは青ざめて死んだように眠っていた。
顔は殴られた痣が残り、身体は鞭の痕が縦横無尽に走っている。
尻は未だ出血が止まらないようで、宛てたタオルが鮮血に染まった。
顔を屈めて唇に触れると、そこはやはり氷のように冷たかった。
自分の火照った唇が冷えて心地良く、ザンザスは暫くスクアーロの唇に自分のそれを押し当てた。
彼に意識がなければ、優しくしてやることも可能だった。
意識のない時にだけ、ザンザスはスクアーロを抱擁する。
慈しむように銀髪の頭を撫で、青ざめてこけた頬に掌を宛い、唇を合わせる。
「スクアーロ……」
暗い情熱が、ザンザスの身の裡を焼く。
壊れた愛情。
歪んだ熱。
彼との間にだけ存在する、例えようもない至福。
地獄の悦楽。
……果たして自分はどこへ行くのか。






血の気のない頬を撫で、ザンザスはスクアーロの銀髪を一房掬い取ると、唇を押し当てて瞑目した。








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