8年ぶりだった。
彼の動く姿を見たのは。
それまで、永遠と思える程の長い間、凍り付いた姿を、一ミリとも動かない様を、時空の止まった異世界を見てきた。
呼びかけても、彼は石で作られた彫像の如く動かず、僅かに驚愕の表情を浮かべたまま、冷たい氷の中で立っていた。
その表情を見続けたせいだろうか。
頭部の鋭い痛みとともに流れ落ちる、琥珀色の酒。
目に染みて無意識に瞬きを繰り返す。
潤んだ視界に映った彼は──やはりどこか驚愕の表情を浮かべているようにも見えた。








◇Un giglio della valle   







ザンザスが目覚めたのは唐突だった。
彼は突如何らかの理由によって氷から解放され、そして8年の欠損を周囲に感じさせる事もなく、元の位置に納まった。
ザンザスが戻ってきた事によってヴァリアーは一気に活気づき、それはまるで往時の…ザンザスが活動していた8年前の当時がそのまま戻ってきたような錯覚をも与えた。
しかし、それはあくまで錯覚であり、ザンザスが眠っていた8年という月日は、ザンザス以外の者には確実にその時間を彼らの外見や経験の上に与えていた。
スクアーロもそうだった。
短く後頭部で跳ねていた髪は、8年の間に腰の下まで伸び、髪自体の重さと相俟って真っ直ぐ長く靡くものになっていた。
部下達と気怠くポーカーに興じていたその日、突然現れたザンザスに酒瓶を投げつけられ、その痛みと…ザンザスの深紅の視線に、スクアーロは一瞬呆然となり、それからはっと立ち上がった。
ザンザスは踵を返してすぐに出て行ってしまった。
「……ボス!」
8年ぶりだというのに、ザンザスの鋭い視線は全く変わっていなかった。
考えてみると、ザンザスの中では時は止まったままで、彼にとってはクーデターの失敗が昨日の出来事なのだから当然ではある。
しかし、クーデターの記憶が8年の懸隔を経ていたスクアーロにとっては、ザンザスの視線と、その荒々しい動作が、己の心臓をぶち抜くほどの衝撃だった。
ポーカーのカードを投げ捨てて、ザンザスの後を追う。
ヴァリアーの談話室を出れば長い廊下の先、ちらりとザンザスの後ろ姿が見えた。
もつれる足をそれでも必死で繰り出して、スクアーロは走った。
ザンザスの私室は…そこも8年の間、長い事誰も使わない部屋ではあったが、そこに今、部屋の主が入っていく。
走ると珍しく息が切れた。
肺にうまく酸素が入っていかず、気ばかり急く。
扉に縋り付いて勢い良く引くと、鍵は掛かっていなかった。
バタン、と派手な音を上げて扉を開け、中に入ると同時に、
「……う゛あ゛ッッッ!」
容赦なく自分目掛けて何かが飛んできた。
避ける間もなく再び頭部に衝撃を感じる。
ガチャン、と金属質の音がして、床に落ちたそれはグラスだった。
薄い水色のベネチアングラスがいくつかに割れて、床の上に散らばる。
「ボ、ボスっっ!」
しかしそんな事を気にしているような余裕はなかった。
きっと顔を上げて、スクアーロはザンザスを見つめた。
一瞬たりとも目を離したくなかった。
ザンザスは、窓を背にし、逆光の中で深紅の瞳をぎらりとぎらつかせて立っていた。
その瞳に射竦められただけで、スクアーロの全身は戦慄き、かっと熱くなった。
ザンザスがいる。
生きて、立っている。
動いている。
「ボスっ、いつ目覚めたんだ?動いて大丈夫なのかっ!」
「……」
声が聞きたかった。
「ザンザスっ!」
割れたグラスを避けてザンザスに近寄ろうとすると、再度何かが飛んできた。
今度は机の上に置かれていた青銅製の文鎮だった。
さすがに危険を感じて咄嗟に避け、身体を屈めてスクアーロは一足飛びに近づいた。
ザンザスを間近で見たかった。
今まで氷の中で時を止められた姿しか見ていなかったから、彼の瞳が動くのを、意志の光が灯っているのを確認したかった。
猫のように身を縮めてザンザスの足元に擦り寄ると、スクアーロはザンザスの両脚に縋り付いた。
「ボスッ!」
「うるせぇ、カス」
……全身が、震えた。
紛れもない、ザンザスの声。
8年ぶりの声。己を罵倒する声。
歓喜が身の裡に湧き上がり、その波が全身を揺るがす。
「ボス、ボスッッ!」
嬉しさに我を忘れた。
思わず無防備になった。
ザンザスの両脚に頬を押し当てると、それは布地越しにも暖かく生きている人間の動きが伝わってきた。
「う゛がッッッ!」
次の瞬間、目の前に火花が散り、視界がくるくると回転した。
ふっと意識が遠のき、ずきずきとこめかみが痛んだ。
どうやら蹴られたようだった。
床に仰向けに倒れている自分に気付き、スクアーロは慌てて身体を起こした。
「ボスッッ!」
避ける間もなく第二打が襲ってきた。
ブーツの硬い切っ先が鳩尾にめり込む。
懐かしい……痛みだった。
8年間、自分にこのような痛みを与える人物は誰一人としていなかった。
スクアーロは剣帝を倒した男として、ザンザスに付き従っていた幹部として、暗殺部隊の精鋭として、周囲から恐れられ、畏怖されていた。
スクアーロ自身滅多に表には出なかったが、たまさか任務で表に出ても、誰も近寄ってこなかった。
遠巻きにして、視線が合わないようにされ、嫌悪されるだけだった。
8年ぶりの殴打は、痛みと共にスクアーロに何とも言えない感慨をもたらした。
それは痛いのに甘く、甘くて切なく、どうしようもなく胸をかき乱すものだった。
鳩尾を鋭く抉られて、胃が迫り上がる。
込み上げる嘔吐感を必死に耐え、口元を押さえる。
身体を丸めて防御態勢をとると、次には庇った腕や背中を蹴り上げられた。
「ウッ……ク……っぁ……ッッ!」
全身が熱を持ち、蹴り上げられた其処此処が痛みに悲鳴を上げる。
腫れ上がり、心臓の拍動と共に血流が痛みを全身に運んでいく。
それさえも、悦びだった。
「ボ、ス……ボスッッッ……!」
ザンザスこそが、自分に与える事の出来るもの。
8年の長きに亘り渇望していた……もの。
ぬるり、と、口の中で鉄の味がした。
熱くぬめる感触が、スクアーロを陶酔させた。
顎を蹴られて口の中を切ったようだった。
血の味さえ、懐かしく愛しかった。







……少し意識を失っていたようだった。
気が付くと、霞んだ視界に、市松模様の床がぼんやりと映った。
ずきんと鋭く痛む頭をそれでも漸く持ち上げる。
ザンザスのブーツが見える。
顔を上げると深紅の双眸がスクアーロを見下ろしていた。
「ボ、ス……」
「なんだ、この髪は…」
ブーツの底で、床に広がり散らばった髪を踏み付けられる。
「気持ち悪い格好になりやがって…」
罵倒の言葉も嬉しかった。
痛みにもかかわらず笑いが零れた。
「アンタに誓っただろぉ……髪は切らねぇってよぉ…」
バシ、と頬を叩かれてまた鉄錆の味が口の中に広がる。
ごくりとそれを唾液ごと飲み下して、スクアーロは顔を上げてザンザスに笑って見せた。
嬉しくて仕方がなかった。
痛みは更に増し、心臓の鼓動に合わせ脳髄をぎりぎりと締め付けてきたが、それさえも自分の歓喜を煽るものにしかならなかった。
歓喜が身体を満たす。
それはダイレクトに興奮を引き起こした。
「ぐぁぁッッッ!」
股間をぐり、とブーツで踏まれ、目の前が真っ赤になるほどの衝撃が走る。
喉奧を枯らして呻きながら全身をぶるぶると震わせて、スクアーロは自分が勃起していた事を知った。
「あ゛、あ゛ぁッッ…ボ、ス……!」
この残虐さが、暴虐さが愛しかった。
なんと待ち望んでいた事だろう。
改めてスクアーロは自分がどれほどザンザスに飢えていたか、ザンザスのこの暴虐さを愛していたか、思い知らされたような気がした。
痛みが、心地良かった。
「何おっ勃ててやがる、カスが…」
言葉一つ一つが自分を煽ってくる。
ぞくりと肌が粟立って、スクアーロは耐えきれずザンザスの靴に踏み潰されている股間を蠢かした。
「ボ、ス……ッッ…」
靴の感触だけで、イってしまいそうだった。
ザンザスの気配と、言葉、そして与えられる痛み。
これ以上の幸福が、あるだろうか…。
いや、ない。
少なくとも、スクアーロにとっては。
「う゛あ゛、あぁぁ……ッッ」
ぐりぐりと靴先で刺激されるだけでも堪らなかった。
痛いはずなのに、ペニスが甘くとろけた。
下着の中で、肉棒が弾ける。
「……ボ、ス……ッッ」
全身を細かく震わせ、潤んだ銀青の瞳でザンザスを見上げると、ザンザスの肉厚の唇が綺麗に吊り上がった。
「変態が…」
再び目の前が暗転する。
無意識に身体を海老のように丸めて防御する。
ザンザスはスクアーロの身体をまるでサッカーボールの如く執拗に蹴り上げた。
「う゛、あ゛、あぁぁ……ッッ!」
全身が火傷したように熱い。
腫れ上がり、ずきずきと脈動する。息がつけない。
肺が酸素を求めて悲鳴を上げた。
深く息を吸い込むと肋骨が軋み、びりびりと稲妻のように痛みが縦横無尽に走る。
「はっ、あ、あぁ・・ッッう゛あぁぁッッッ!」
突如ボトムを引き下げられ、床に顔を押しつけられた。
尻だけを上げた俯せの格好にさせられたかと思うと、灼熱の塊が一気に体内に押し入ってきた。
8年ぶりのそれは、入口を引き裂き、柔らかい内部を抉り、容赦なく内部を焼いてきた。
名状しがたい痛みと悦楽に、脳髄が焼き切れそうだった。
スクアーロは喉を枯らして絶叫した。
「うるせぇ」
低く、冷徹な声。
それだけで全身が蕩けた。
引き裂かれる激痛も、全身を走る戦慄きも、全て甘く蕩けた。
繋がった部分から、ザンザスの憤怒の炎が吹き出して、スクアーロの体内を全て焼き尽くしていくようだった。
本望だ。
どれだけ幸せな事だろうか。
ザンザスに……焼かれるのは。
「あ゛、あ゛ぁッッ───く、ッッう゛──ッッッ!!」
がくがくと揺さぶられて霞んだ視界が更にぼんやりとした。
全身が火がついたように熱く、腰から下はもう感覚がない程に溶けていた。
繋がってザンザスの一部となり、思う様彼に支配されて、底なしの悦楽へと落ちていく。
ぐりっと内部を抉られて、反射的に背中が撓る。
銀髪が床に広がり、生き物のようにうねり動いた。
歓喜が、全身を包む。
自他の境界線が消失し、融合し、全ての感覚が、……痛みも快楽も全てが歓喜と一つになってスクアーロを押し上げる。
8年間の隔たりも、過去も、何もかもが───全て、融けて一つになった。



意識を失う最後にスクアーロの目に映ったのは、……オレンジ色の美しい、眩い光だった。






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