◇懼   







自分が八年間眠らされていたことを、その間、半ば晒し者のように、サーカス小屋の片輪の見世物のような扱いを受けていたことを知った時、ザンザスは腸が捻じくり返り、憤りに脳の血管が破裂するのではないかと思った。
が、それにも増して、目の前の大人びた男の、腰まで伸びた髪を見た時は、確かに脳の血管がぶち、と切れた気がした。
目の前が霞む。
怒りに目が眩むとはこの事か。
父だと信じていた老人の部屋で真実を知った時は怒りはすぐには湧いてこず、ただただ衝撃が自分を襲ったものだが、今は怒りだった。
目の前の見覚えのある男が、確実に年を取り、まるで自分の惨めさを見せつけるように長い髪を靡かせているのが、我慢できなかった。
八年間。
その間、自分は晒し者になり、ひっそりと笑い者にされ、嘲笑の格好の話題となっていたわけだ。
表だって人の口の端には上らないまでも、事情を知る人間の間では。
情けなさと恥ずかしさが全身を苛んだが、自分が惨めだと思っているのを他人に悟られるのだけは、なんとしても阻止しなければならなかった。
そうしなければ、自分が自分として保てなかった。
平然とした表情で以前の部下の前に君臨し、過去の事など少しも傷になってはいないと周囲に知らしめなければ。
しかし、どうしても、目の前の長い銀髪だけは我慢ならなかった。
顔を見せるな、髪を切れ、と言えば、自分が過去を気にかけていることがスクアーロにばれてしまう。
もしその事でほんの少しでも同情されるような素振りを見せられたら。
そうしたら、憤怒の余り自分で自分を炎で焼き尽くしてしまいそうだった。
だが、それも結局自分の弱さを露呈することに他ならない。
ザンザスは超然として、内心の憤怒や惨めさをひたすら押し隠すしかなかった。
怒りは押さえ込めば押さえ込むほど、ザンザスの内面を侵略していった。
ザンザスにできることは一つしかなかった。
スクアーロを痛め付け、彼をいたぶる事。
唯一、それだけだった。
ザンザスが前から凶暴なのはよく知られていたし、スクアーロに暴力を振るうのも、周知の事だった。
ただ、八年後は、それが段違いに熾烈になったのだが、その理由は悟られることなく、単に体格が良くなったからその分激しくなったのだろう、ぐらいにしか思われていないのが唯一、ザンザスの救いだった。
スクアーロはどう思っているのか。
それは彼の表情からは分からなかった。
スクアーロはザンザスが知っていた、屈託のない明るい表情の少年ではなく、どこか瞳の奧に陰惨な色を浮かべ、それでいて何もなかったように自分に盲従する部下になっていた。
得体が知れない部分が垣間見えて、それがザンザスには不気味でもあり、苛つく原因でもあった。
もしかしたら、スクアーロは何か知っているのかも知れない。
自分の秘密を。
8年前、最も自分に近かった存在として、それから8年の間、その近さを彼はそのまま維持していたのだ。
表面上は前の通りに、いや前よりももっとスクアーロはザンザスを敬愛し尊敬し、付き従っていた。
それだからこそ、不気味だった。
不気味だと思う事自体、噴飯ものであり、ザンザスのプライドをいたく傷つけた。
スクアーロを見るたびに自分の心の奥底に深く隠し持っている惨めさや恐怖を掘り起こされる心持ちがした。
靡く銀髪を見るたびにスクアーロが自分を脅迫しているような気持ちにまでなった。
彼の存在そのものが脅威に思えて、ザンザスはそんな風に他人に怯える自分がまた許せなかった。










目の前に倒れ込んでいる人物を、ザンザスはぼんやりと見下ろした。
床に鮮やかな血液が広がり、銀色の長い髪がうねって赤く染まっていた。
俯せになってスクアーロはぴくりとも動かなかった。
自分が何をしたのか、記憶がなかった。
ただ気が付いてみたら、床にスクアーロが倒れており、俯せの顔の回りに血溜まりができており、髪がべっとりと血糊でまみれていたのだ。
心臓が胸から飛び出すように波打っていた。
深呼吸をして沈めようとするがうまく行かなかった。
頭の後の方がずきずきと痛み、熱を持って爆発するようだった。
眩暈がして、ザンザスは床に膝を突いた。
俯せのスクアーロをごろりと転がして仰向けにさせると、彼の顔面は真っ赤だった。
だがその派手な血はどうやら鼻血のようらしく、彼の生命に異常はなさそうだった。
赤く染まった銀色の髪を掴んで引くと、ずるり、と床をうねるそれが蛇の腹のように白く輝いて動いた。
ザンザスは吐き気がした。
胃がむかむかとし、胃液が込み上げてきた。
奥歯を噛み締めてそれをやり過ごし、気を失ったスクアーロを見下ろす。
目を閉じて、意識のない状態の彼ならば、……怖くなかった。
怖いという感情自体認められないザンザスは、漸くスクアーロを見る事ができた気がした。
見下ろしていると、怒りが沸々と湧いてきた。
それは先程、スクアーロがザンザスの部屋に入ってきたのを見た時の感情とは違っていた。
入ってきたスクアーロを殴りつけ彼が動かなくなるまで暴虐の限りを尽くした時は……その時の怒りは恐怖と狼狽が混じっていた。
しかし今は純粋に怒りだった。
この、銀色の男に自分の感情を左右されているという事実。
自分の惨めさ、情けなさ、恥の概念を、この男によって更に痛感させられるという現状。
それなのに、面と向かってこの男に何も言えない自分。
それを知っているのか知らないのか…不満も不平も言わずに暴力を受け続けているこの男。
再び嘔吐感が込み上げてきてザンザスは胸を押さえた。
殺してやりたい。
いや、そんな事をしたら、コイツに自分が負ける事になる。
ではどうしたらいいのか。
分からなかった。
酷い眩暈がしてザンザスはスクアーロの血溜まりに手を突いた。
血はべったりとザンザスの掌に付き、錆びた鉄の匂いがぷんと鼻孔を突き刺した。
蹌踉めきながら立ち上がると、ザンザスはスクアーロに背を向けた。
机の上の電話を取る。
呼び出したのはルッスーリアだった。
スクアーロの手当をするように指図すると、ルッスーリアが部屋に来る前に、ザンザスは執務室の奧の扉を開けてそこから繋がっている自室へと入った。
カーテンが閉ざされた儘の暗い部屋は、微かに黴の匂いがした。
ソファに座り、右手を薄暗い光に翳す。
口元へ持っていって舐めると、古い鉄の味がした。
ほんの少しだけ嘔吐感が治まったような気がした。
その代わりに酷い疲労感を感じた。
身体中に鉛が詰まって、それが身体を奈落へ引きずり込もうとしているようだった。
もう、引きずり込まれているのかもしれない。
二度と這い上がれない、薄暗い底へと。
スクアーロが生きている限り。
自分は救われない。
そして、スクアーロが死んだら、──更に自分は奈落の底へと墜ちていくのだ。




瞳を閉じて、ザンザスは項垂れた。
暗く澱んだ空気の中に、鉄錆の匂いが広がっていった。






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