◇蜃気楼   







リング争奪戦の後、鮫に食われかけて瀕死の重症を負ったスクアーロがベッドから離れて一人で動けるようになった時、同じ病院に入院していたのは、スクアーロとザンザス、それにルッスーリアの3人だった。
勿論スクアーロが一番重篤だったが、スクアーロは動けるようになるとすぐにザンザスの部屋を訪れた。
病院は監視がついて厳重に拘禁されてはいたが、内部で動く分にはある程度自由が利いた。
スクアーロが松葉杖を突き、動かすたびに痛む身体を引きずりながらもザンザスの病室を訪ねると、ザンザスはほぼ回復したのか、ベッドから起きあがり、窓際のソファに座って本を読んでいた。
病室は、ザンザスが起居していたヴァリアーのアジトや、日本に来てから泊まっていたホテルに比して粗末と言えるほど簡素で、清潔だけが取り柄の何もない部屋だった。
ただ、ソファだけはホテルから持ってきたらしく、ザンザスが座るにふさわしい重厚で上品なものだった。
「ボス……」
病室のドアを開けて、ザンザスを視界に入れると、スクアーロは喉奧から掠れた声を出して、ザンザスの名前を呼んだ。
最後にザンザスに会ったのは───。
リング争奪戦でザンザスが沢田綱吉と対戦している所だった。
あの時の壮絶な闘い。
死ぬ気の零地点突破を受けて、ザンザスが再び氷に閉じこめられる様──それを見た時の、自分の魂を引きちぎられるような気持ち。
一度その姿を見て絶望し8年もひたすら待ち焦がれ、やっと会えたと思ったその時にまた……。
あの時の気持ちは到底言葉にできない。
それを思うとスクアーロは背筋が冷たくなり、全身が震えた。
だからこそ、こうして今目の前に動くザンザスを見る事ができるのは、たとえ彼が負けたとは言え、自分たちが完膚無きまでにやられたとは言え、それでも嬉しかった。
「ボス…」
スクアーロの記憶にあるザンザスは、少なくともリング争奪戦でのザンザスは、常に憤怒に包まれていた。
制御しきれない怒りに自分で自分の身を焼き焦がしていた。
そんな彼にスクアーロは魂を持って行かれ、自分の全てを捧げ尽くしていたのだ。
「…スクアーロか」
しかし、今、灰色を基調とした色の無い寒々しい病室の中で、ソファに座って本を読んで俯いていたザンザスは、リング争奪戦での怒りを全てあの場所に置いてきてしまったかのようだった。
後に流しセットしていた髪も前に降ろし、深紅の鋭い視線が少し黒髪で隠れている。
その姿はどこか寂しげで、儚いものを感じさせた。
スクアーロはそんなザンザスを見た事がなかったので、少し戸惑った。
「カス、もう歩いて大丈夫なのか?」
そんな風に声を掛けられる事も今まで決してなかった。
8年ぶりに会うなり酒瓶で殴られた。
その後もザンザスは常に怒りを燃やしており、その怒りを自分に向けてきた。
暴力を奮ってくる。
或いはその暴力に任せて自分の身体を蹂躙し、犯す。
そのような行為に慣れきっていたから、スクアーロはどうザンザスに対応したらいいのか分からず、微かに眉を寄せた。
「あぁ、オレは元々頑丈にできてっからなぁ。もう歩けるし大丈夫だぜぇ」
「そうか」
深い赤い色を湛えた瞳がじっとスクアーロを見つめ、それからふっと視線が落とされる。
ザンザスはスクアーロから視線を逸らし、薄いカーテンの引かれた窓の外を眺めた。
小さく溜息を吐き、ソファから立ち上がる。
立ち上がると病室の端にある冷蔵庫から氷を取り出し、透明なグラスにその氷をいくつか入れ、冷蔵庫の上の棚から琥珀色のウィスキーを取り出してグラスに注ぐ。
持ってくるとそれをスクアーロに差し出す。
「飲め」
「ボ、ボス……有難うよ…」
ザンザスが手ずからスクアーロに酒を出すなど今までに無かった事だ。
スクアーロは戸惑った。
目の前にいるザンザスに、どう対処したらいいのか、迷う。
逡巡しながらまだよく動かない腕をゆっくりと伸ばしてグラスを掴み、氷の涼やかな音を部屋に響かせて、ウィスキーを喉に流し込む。
久し振りの酒の味は、喉に染みた。
緊張していた精神がゆっくりと弛緩していき、それに伴って身体の芯が少しずつ火照っていった。









暫く黙ったまま酒を飲み、それからスクアーロはザンザスをじっと見つめた。
ザンザスが口を開かないので、焦れてスクアーロから話しかける。
「アンタが生きていて、嬉しい。こうしてまた話せるのが嬉しいぜぇ…」
降ろした前髪の間の深紅の瞳を見据えて言うと、ザンザスが虹彩をすっと狭め、僅かに唇を歪めた。
「ハッ……オレはもう終わりだ。テメェも早くオレを見限って、どこかに行くんだな…」
独り言のように呟かれるそれに、スクアーロは銀蒼の瞳を見開いた。
「…何を言う、ボス」
「テメェも見ただろうが、…オレは負けた。何も残っちゃいねぇ。テメェが信奉していたオレはどこにもいねぇんだ。そのぐらい分かるだろうが、カス。分かったならさっさとオレを捨てろ…」
グラスを傾け、静かに飲み干して、ザンザスはスクアーロの銀の瞳に視線を合わせた。
左手を伸ばし、スクアーロの長い銀色の髪を一掬い指に絡める。
「髪も、切れ…」
「ボスッ…」
不意にどうしようもない切なさが襲ってきて、スクアーロは立ち上がるとザンザスの座っているソファの前に詰め寄った。
跪いて彼の足に頬を擦り寄せる。
長い髪を床に乱れ広がらせ、頭を垂れて相手の右手を取り、手の甲に唇をそっと寄せる。
「オレは…アンタについていくぜぇ、ザンザス。オレがアンタを見限るとか、ありえねぇだろうが…」
「…うぜぇんだよ、カス。…もう、テメェが見ていたオレはいねぇ。分かるだろ、そのぐらい」
ザンザスの低く静かな声が悲しかった。
唇を何度も押し当てて、スクアーロはそれからザンザスを見上げた。
「ボス、……愛している。…アンタを感じてぇ…」
掠れた声で強請ると、ザンザスがふっと口元を歪めた。
微かに首を傾け、スクアーロを見つめ、瞳を細め薄く笑う。
「来い、カス……」
手を取られ、ベッドへ誘われる。
病室のベッドは白く無機質で、シーツの上に仰向けになると、灰色の天井が見えた。
ザンザスの頬の傷跡に、そっと手を伸ばし、なぞるように指を這わせると、ザンザスが深紅の双眸を眇めた。
そのまま抱き締められ、ゆっくりと服を脱がされる。
このような優しい交歓は、初めてだった。
慈しむように抱き締められ、胸元を這うザンザスの唇に、スクアーロは胸が詰まった。
久し振りに飲んだ酒の余韻もあってか、心の奥まで染み込むような愛撫を受け、意識がぼんやりと酔う。
酩酊は、心地良く水底をたゆたうような感覚を覚えた。
ザンザスの体温が愛しかった。体重を掛けて脚を開かされ、明るい病室の中で露わになった秘部をザンザスの手がそっと握りしめてくる。
愛撫に全身が震えた。もどかしく、自分から脚を開き、後孔まで晒して強請る。
丁寧に馴らされた後孔にザンザスが入ってきた時、甘い痛みに全身が戦慄いた。
心が震え、繋がる一体感に我を忘れた。
身体はまだ所々包帯に巻かれており、動けば痛みが走ったが、そんな事よりも、ザンザスを身の裡に感じる幸福感が遙かに勝った。
「ボ、ス……ザンザスッッ……う゛、ぁあ゛……ッッ!」
身体が満たされ、心が打ち震える。
自分からも腰を動かして、スクアーロはザンザスと深く深く繋がった。









「カス、これで終わりだ…」
慈しむような、それでいて激しい交情の後、抱き合って荒く息を吐いている時にザンザスが囁いてきた。
「オレに囚われる必要はねぇ、カス。テメェは一人で生きろ…」
静かな口調だった。
「バカな事言ってんじゃねぇ、ザンザス。勝手に決めるな…」
突如、目の前が眩むほどの怒りが湧き上がってきて、スクアーロは叫んだ。
「オレがテメェから離れるとか思ってるのか? 絶対離れねぇ。アンタがいやがってもオレはアンタの傍にいるぜぇ」
「負け犬にまだ仕える気か?」
それに対して、ザンザスは静謐だった。低く落ち着いた声が、スクアーロを包む。
「アンタは負けてねぇ!」
スクアーロはザンザスを睨んだ。
銀の瞳をぎりっと眇め、ザンザスの目を射るように睨む。
それから唇を歪めて言葉を吐き出す。
「確かに、負けて得られるものなど何もねぇ。…だがそれは、自分に負けるってぇ事だ。自分だけは決して自分からは逃れられねぇ。たとえ敵を全部倒したとしても、最後に残るのは自分だ。もし自分が敵だったら。ボス……オレは絶対に負けねぇ。自分に負けねぇ。アンタを8年間待った。たとえ今回アンタが負けたとしても、それは負けじゃねぇ。これからまたアンタはアンタの道を、オレは自分に負けねぇように、自分に常に勝って生きていく。アンタの傍で。それがオレの生き甲斐だ。オレが存在するのは、そのためだ。ボス。ザンザス…オレは自分に勝ちてぇ。勝ってアンタと共に生きるんだぁ。これからもずっと。ずっとアンタと一緒だ。一緒に………」
それはザンザスに言うというよりは、自分に宣言しているようなものだった。
言っている間に鼻の奥がつんとして、堪えようと唇を噛んだが駄目だった。
視界が潤み、目尻から熱い雫がぽたりと滴り落ちるのを、スクアーロは感じた。
泣いている顔を見られたくなくて、俯いて唇を噛んでいると、顎にザンザスの手が掛けられた。
上向かせられて、潤んだ視界に、ザンザスの紅の瞳が映る。
「ボス………」
情けない顔は恥ずかしかった。
あんな大言壮語を吐いて、ザンザスの前で強がっている自分が恥ずかしかった。
それは真剣に心の底からそう思っている事ではあったが、やはり言葉にして相手に言うのと、自分がそれを実践するのでは天と地ほどの差があった。
(テメェでできない事をボスに言いやがって…)
自嘲の笑みが浮かぶ。
「馬鹿なヤツだ……」
低く甘い声が響く。
「ボス…」
傷跡の残る顔がゆっくりと近づいてきた。
唇が重なる。
甘いキスに、スクアーロは瞳をゆっくりと閉じた。
柔らかく唇を食まれる、啄むような優しいキス。
ザンザスの唇は少しかさついていた。
まだ熱があるのだろう。
その唇が愛おしく、たまらなく切なく、スクアーロの胸を抉った。
「ボス……」
まだよく動かない腕を上げて、ザンザスの背中へ包み込むように回す。
唇を数度食んで、慈しむようなキスを繰り返す。
ザンザスが目覚めてからこの方、やっとザンザスに触れられたような気がした。
8年の間を置いて、今まで繋がらなかった自分とザンザスの時空軸が、その時初めて繋がったような気がした。
涙が止まらなかった。
今だけは、情けない自分を晒してしまおう。
今、この瞬間だけは。
涙が乾いたら、もう泣くまい。
自分はザンザスの剣なのだから。
彼を支え、守り、彼のために生きる事こそ、自分の全てであり、自分が存在する理由なのだ。
「ボス……」
涙で潤む眸を閉じ、祈るようにスクアーロは彼の主をかき抱いた。









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