◇移木之信 3   








──深夜。
静まりかえり、時折犬の遠吠えの聞こえる中を、闇に紛れてひっそりと気配を消し、するりと夜の空気をまとわりつかせて帰城したのは、スクアーロだった。
寝入った山本を独りホテルに残し、身の回りの物を全て持ってスクアーロはヴァリアーの城へと戻ってきた。
明日、起床した山本はスクアーロがいなくなっている事に驚きはするだろう。
が、どうせ彼はその日の朝の航空機で帰るだけだ。
その手はずも整えておいたから、スクアーロが今更いなくても山本が困る、という事はないはずだった。
城の前面に聳え立つ門を潜り抜け城に入ると、スクアーロは真っ直ぐにザンザスの執務室に向かった。
柱ごとに蝋燭の輝く広い廊下を大股に歩き、扉にヴァリアーの紋章の刻まれた重厚なドアをノックする。
返事を待たずにドアを開け執務室へと身体を滑り込ませる。
深夜であったが、中は暖炉の上に蝋燭が揺らめき、暖かな色をしたシャンデリアが淡い光を放っていた。
執務室の中央、重厚な古い木で作られ、荘厳な光沢のある大きな机に向かって、ザンザスが座っていた。
ザンザスの姿を認めると、スクアーロはそれまで仮面をつけていたかのように取り澄ました怜悧な表情を一変させた。
「ボ、ボス…任務、完了したぜぇ…」
どこか呆けたような忘我の表情になり、ザンザスに向かって、いかにも嬉しそうに笑って見せる。
ヴァリアーの隊服ではなく、黒くシックなスーツを身に纏ったスクアーロは、執務室の薄暗い間接照明に照らされて、しなやかな銀髪が鈍い光を周囲に煌めかせ、闇の中から一筋の光が抜け出てきたようでもあった。
机の上のノートパソコンに向かって視線を落としていたザンザスは、扉の方に顔を向けた。
スクアーロはザンザスの身体より一回り以上大きいゆったりとしたソファの傍らに近寄ると、直立不動の姿勢で主人の言葉を待った。
首尾良く任務を完了し、スクアーロ自身は主人から褒め言葉が貰えるものと信じているようでもあった。
突如ザンザスの右足が空気を切って動いた。
脚を揃えて立った太腿を蹴られ、スクアーロは思わずがくっと膝を折った。
床に膝を突きそうになるところを更にザンザスに髪を掴まれ、痛みに顔を顰めた所を派手な音を立てて左の頬を張られた。
バシッと、肉を叩く鋭い音が部屋に響き、堅く目を瞑って痛みに耐える。
更に今度はうずくまった腹の部分を靴先で抉られるように蹴られる。
「う…………ぅっっ!」
腹を蹴られ、内臓が押し上げられるような不快感に嘔吐が込み上げる。
くぐもった呻きを上げ、床に突っ伏す。
上から容赦のない蹴りがスクアーロの身体をいたぶってきた。
うずくまった脇腹を堅い靴先で何度も蹴り上げられ、意識が遠のく。
「す、すまねぇ…ザンザスぅ…ッ…く、…ッッ…ゆるして、くれぇッッ」
スクアーロはひたすら許しを請う言葉を吐いた。
ザンザスに蹴られた部分が火傷をしたように熱い。
脇腹や腿や頬や、そこから飛び火して身体のありとあらゆる部分が熱を持ち、悲鳴を上げる。
ザンザスの暴発的な暴力にスクアーロは一切抵抗しなかった。
ひたすら身体を縮め、アンザスの怒りの嵐が過ぎ去るのをただじっと待つ。
「…脱げ」
上から冷然とした声が降ってきた。
慌てて頭を上げ、ふらりと眩暈のする身体を叱咤してスクアーロは立ち上がると、ふらつく身体をなんとか宥めながら着ていたスーツを脱いでいった。
震える手でスーツのボタンを外し、ズボンのベルトを抜き、靴から下着まで全部脱ぐと脱いだ衣服を床に放り投げてザンザスの前に立つ。
「フン…カスが…」
軽く鼻で相手をあざ笑うような声を出し、ザンザスは全裸になったスクアーロの身体を不躾にじろじろと眺めた。
今し方ザンザスが蹴り上げた部分は勿論赤く腫れ上がっていたが、それ以外にスクアーロの身体には首筋や鎖骨、或いは下腹など、柔らかい部分に点々と鬱血した痕が付けられていた。
山本が付けたキスマークだった。
睨め付けるようにそれを眺め、ザンザスは紅蓮の瞳を狭めた。
「ボ、ボスの言うとおりにちゃんとついてるだろぉ…?オレ、うまくやったぜぇ。山本のやつ、オレに食らいついてきたぁ、面白かったぜぇ」
ザンザスがやや機嫌を直したようなのを見て取って、スクアーロは乱れた銀髪を掻き上げながら、微かに笑いを浮かべた。
主におもねるような媚びた笑いだ。
山本が来る数日前、スクアーロはザンザスに呼び出された。
その時に山本を誘惑しろ、とザンザスに命じられたのだった。
ザンザスがどんな意図を持ってそんな事を命じたのか、それはスクアーロには分からなかった。
が、スクアーロにとってザンザスの命令は絶対である。
彼が自分に命じた事なら、どんな理不尽な事であろうと、スクアーロは嬉々として任務に就く。
その任務の是非について考えた事はない。
スクアーロにとってザンザスの命令はそれだけでなんであろうと遂行されるべきものであり、その道徳の是非や常識の有無について考えるという事はスクアーロにとっては全くの範疇外だった。
他の事なら常識的判断も付き、人並み以上の知能と才覚を持って事に当たるスクアーロも、ことザンザスの命となれば全くの思考停止に陥るのである。
「……」
じろりと、特に山本が執拗につけたスクアーロの鎖骨付近の痕を見て、ザンザスが唇を歪めた。
肉厚の唇をやや吊り上げて笑ってみせると、それに攣られておずおずとスクアーロが銀色の瞳を瞬きして笑った。
その媚びた笑いが勘に障り、ザンザスは座ったまま、脚を振り上げて無防備なスクアーロの腹を蹴った。
「う゛…っ!」
油断していたのか、スクアーロの鳩尾にザンザスの脚の爪先が見事にめり込む。
スクアーロは床に声もなく頽れていった。
「カスが…」
意識を失ったスクアーロを見下ろして、ザンザスは唇を歪め吐き捨てるように言った。
床にスクアーロの長い銀髪が放射状に広がって薄暗い照明の光を乱反射させる。
髪の合間から見える白い背中に、先程蹴り上げた痕が赤く腫れ上がっている。
紅の瞳を狭め、ザンザスは険しい表情をしてそれを眺めた。
執務室の机の上に置かれていたウィスキーの瓶を取ると、瓶の口を傾けて、中の琥珀色の液体をスクアーロの頭にぶちまける。
「う……」
冷たい液体を掛けられて、スクアーロがうっすらと覚醒する。
アルコールの匂いが部屋に立ちこめ、口の中にも入ったのか、軽く咳きこんでよろよろと身体を起こすスクアーロを、ザンザスは上から冷めた目で見つめた。
乱れた髪を震える指で掻き上げて、スクアーロが頭を起こし、ザンザスを見上げる。
「ボ、………ボス…愛してるぜぇ…好きだぁ…」
半ば譫言のように呟きながら、震える身体を起こし、スクアーロが自分の靴にそれでも恭しく顔を近づけて口付けするのを、ザンザスは上から見下ろした。
胸の中に何か、悪いものでも食べたような吐き気がする。
苛ついて、居ても立ってもいられず、そこら中のものを破壊してしまいたくなる。
(何故、コイツは…)
何故スクアーロはどんな命令でも聞くのだろう。
……気持ちが悪い。
今回の事に関しては、ザンザスは自分でも理解しがたいほど苛ついていた。
山本がイタリアに来る、という話を聞き、誰か護衛につけてやってくれと9代目から直に頼まれたとき、ぱっと頭に浮かんだのがスクアーロだった。
それは、やってくる日本の少年がスクアーロに純粋に憧れている、という事を承知していたからに違いない。
自分の前では痴呆のような、何も意志のない人形のようになってしまうコイツ。
そんなヤツをあの山本は純粋に尊敬し憧れている。
素晴らしい人物だと思いこんでいる。
山本のスクアーロを見る視線に、あの純粋で曇りのない視線に、自分は苛ついた。
あの純粋さを、壊してしまいたかった。
山本のその思いを踏みにじり、スクアーロに対して二度とあのような視線を向けないようにさせたかった。
山本はその純粋さ故に、スクアーロによこしまな行為をした自分を恥じるに違いない。
そして、我に返った時自分を責め、スクアーロに二度とあのようにまっすぐな視線を送ってはこないだろう。
スクアーロに誘惑され、そして裏切られた傷と共に彼の純粋さは喪われる。
いい気味だ。
……これは嫉妬なのだろうか。
よく分からない。
しかし、あまりにも次元の低い仕業だ。
自分の私情だけで、スクアーロにくだらない命令を出し、何も知らない山本を巻き込んだ。
自分がこんな命令をスクアーロにしてしまうとは……。
全く自分も落ちたものだ。
──ザンザスは自嘲した。
自分が山本に対してうっすらと嫉妬めいた感情を持っていた事に気付かされたのにも苛ついた。
自分の堅い靴先にひたすら口付けをするスクアーロを見下ろす。
この白痴は、オレの内面を暴きやがる……。
ふと、心の中に冷たいものが忍び込んできた気がして、ザンザスは身震いした。
(山本……)
あの刀小僧は、コイツに骨抜きにされただろう。
馬鹿なヤツ。
スクアーロの誘惑に乗ってしまったら、もう引き返せない。
山本の将来が目に見えるようだった。
しかし…………。
ザンザスは唇を歪めて笑った。
自分も、既に引き返せない事はうすうす気付いている。
スクアーロほど、蠱惑的で相手を陥れる存在はいないだろう。
自分が制御できない。
コイツを見ると、自分の中の衝動が白日の下に晒され、それを叩きつけずにはいられなくなる。
コイツと出逢ったせいで、自分までおかしくなった。
オレが僅かに持っていた狂気を、コイツは最大限まで引き出す。
……オレも既に狂っている。
ザンザスは背筋が冷えるような心持ちでそう思った。
しかし、そう思う一方でザンザスは分かっていた。
スクアーロほど自分を愛してくれる存在はいないという事も。
コイツはオレのためだけに生き、オレの命令ならなんでも聞き、どんな事でもする。
人殺しだろうが、自分の身体を切り刻む事だろうが、誰かを誘惑して寝てくる事だろうが。
全ての事ができる。
──コイツは、……オレのものだ。
そう思うと、心の底に澱んだ暗い喜びが湧き上がってきた。
他の誰にも抱いた事のない、根元的な、本能にも似た陰惨な喜びが。
……コイツがいないと、オレは生きていけないだろう。
ザンザスは目を伏せた。
深い溜息を一つ吐き、うずくまっているスクアーロの首を掴むとそのまま引きずるようにしてバスルームへと向かう。
熱いシャワーをスクアーロに浴びせて、ウィスキーや蹴ったときの汚れを落としてやる。
スクアーロはじっとしていた。
動かない相手をバスタブの縁に俯せにさせて無造作に腰を掴む。
シャワーの湯で濡れた尻たぶを左右に開き、ザンザスは背後からスクアーロにのし掛かっていった。
「あ、あぁ…っ、ボスっっ!!い゛ぁ…ッ、ボスッッッ!」
ずぶっとペニスを挿入し、腰を回して内部を容赦なく抉ってやる。
途端にスクアーロが顎を仰け反らせ、濡れた銀髪を背中やバスタブに振り乱し貼り付かせながらバスタブの縁を握り、哀れっぽい喘ぎ声をバスルームの中に響かせた。
その声が苛つきを更に誘う。
と共に、細いスクアーロを蹂躙して、もっといたぶりゆさぶってやりたくなる。
凶暴な欲望が身の裡に充満し、さらにスクアーロを追い詰めて、彼が自分のものである証明をしたくなる。
膨れ上がる衝動のままに背後から容赦なく突き上げ、柔らかくうねる熱い内壁を破る勢いで突き上げる。
節くれ立った手をスクアーロの白いしなやかな首に回し、背後から突き上げるのに合わせて力一杯スクアーロの喉を絞める。
スクアーロが一瞬硬直し、細かく全身を震わせる。
そのまま指に力を籠めていると、ペニスを締め付けている腸壁がきゅっと痙攣して己を絶妙に締めあげてきた。
絶頂が訪れ、ザンザスはスクアーロの中に射精した。
深く息を吐いて、締めていた指を緩めてやると、スクアーロはバスタブからずるずると崩れ落ちた。
どうやら意識を失ったようだった。
ペニスを抜き、後始末をして抱き上げる。
血の気を喪った白い顔は、媚びた笑いやおどおどした仕草がなければ、端正で神々しいほどに美しく、どこか儚い雰囲気も漂わせていて、それがザンザスの胸を打った。
意識を失っているスクアーロをそっとタオルで包み、身体や髪を拭き、抱き上げてバスルームを出る。
寝室へ行き、自分の大きなベッドにスクアーロを静かに降ろす。
意識がない彼は、ぐったりとして操り人形のようであった。
閉じた瞼に長い銀色の睫が時折震え、可憐な花びらのような唇が少し開いてそこに耳を近づければ微かな息づかいが聞こえた。
白く滑らかな頬にそっと手を這わせれば柔らかく吸い付くような肌の感触に胸になんとも言えないものが込み上げてくる。
点々と首筋から胸元にかけてついている山本がつけた痣さえも痛々しく愛おしく、ザンザスは胸が痛んだ。
と、スクアーロが長い睫を震わせ、ゆっくりと瞼を開いた。
銀に青みがかった虹彩が夢を見るような色を湛えてザンザスを見上げてくる。
首を絞めたせいで脳に酸素がいっていないのだろう。
自分が誰か分かっていないようでもあった。
ザンザスを見上げ、スクアーロはあどけなくまるで天使のような微笑を浮かべた。
それは全く彼の美しさに似合っており、この世のものとは思えぬほど美しく無垢で、そして愛らしかった。
たまらなくなって、ザンザスはスクアーロの唇に己の肉厚の唇をそっと押し当てた。
こんな風に優しく接する事など、彼にとってまず覚えがない程であった。
スクアーロの唇はしっとりとして柔らかく、少し開いていて、その唇を上下の唇で挟んで食むようにして愛撫してやる。
まだ状況が分かっていないようで、スクアーロが焦点の合わない美しい銀色の虹彩を揺らめかせた。
そのまま数度、唇を食み、舌でなぞり、啄むように軽いキスを繰り返す。
大きな手でスクアーロの頬を撫で、乱れた髪をとかし付けてやる。
スクアーロの意識が戻ったようだった。
視点が定まり、銀色の虹彩が青く縁取られた部分を狭め、彼の手が震えながら持ち上げられ、自分の頬に宛てられる。
左頬の傷跡を辿るようにスクアーロの手がなぞる。
指が撫でてくる。
「寝ろ…」
一言静かに囁いて促すように唇を合わせると、スクアーロは微かに笑った。
ゆっくりと瞼を閉じると、長く美しい銀色の睫が少し震える。
安心しているのだろうか、幼子のようにあどけない微笑を浮かべたまま、やがて規則正しい寝息を立て始める。
ザンザスはスクアーロが眠るまでじっと彼を見つめていた。
銀髪を撫で、整え、上掛けをそっとかけ、普段では考えられないような優しい動作でスクアーロを包み込む。
ベッドの隣のランプのぼんやりとした光がスクアーロの銀髪に光って幻想的な色を醸し出していた。
(オレが死ぬときは………)
唐突にザンザスは思った。
オレが死ぬときはコイツに取り殺されるんだろうな…
なんの脈絡もなく不意にそんな言葉が浮かんできて、ザンザスは唇を歪めた。
「ハッ、くだらねぇ…」
自嘲は途中で消えて、ザンザスは目を閉じた。
いや、違う。
静かに首を振る。
既にオレはもうコイツに……。
そうだ。
コイツがオレに囚われているのではない。
オレがコイツに囚われているんだ。
──オレが。
「もう、手遅れだな…」
額に手を当てて、ザンザスは息を吐いた。
既に手遅れだった。
自分の方が、この底なしの地獄に──否、地獄のような永遠の安寧に、囚われてしまっているのだ。
スクアーロではなく。
自分が。




静まりかえった寝室は暗く。
スクアーロの規則正しい寝息とザンザスのひっそりとした息づかいだけが響いていた。









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