◆指輪◆
それを見つけた時、一瞬心臓が跳ねた。
それは、指輪だった。
デスクの上にぽつんと、取り残されたように置かれている。
なぜそこにあるのかは分からないが、一目見て、それが何か、バーナビーには分かった。
それは、――虎徹の指輪だった。
虎徹が左手に指輪をしているのは、初めて会った時すぐに気付いた。
シンプルでシックな、長年愛用しているのが分かる指輪。
初めて見た時は、特に何も感じなかった。
ただ、指輪をしているな、と思っただけだった。
左手だから、それ相応の意味があるんだろう、と思った。
それだけだった、最初は。
それなのに、いつ頃から、その指輪が気になり出したのだろうか……。
シュテルンビルト市内の最上層にある自宅マンションに帰って、バーナビーはそれを眺めた。
アポロンメディア社からの帰りがけ、虎徹のデスクの上にそれが置かれているのを見た時、衝動的に手に取り、持ち出してしまったのだ。
なぜそんな事をしてしまったのか、自分でも分からない。
指輪を掌の中心に置いて、眺める。
掌を傾けて、転がしてみる。
虎徹に良く似合う、飾りが無くて実用的な指輪だ。
眺めていると、胸に小さな針が突き刺さったように、ちくりと痛んだ。
思わず眉を寄せて、瞬きする。
指輪が室内照明を受けて鈍く光った。
この指輪は、虎徹が長年着けているものだ。
彼には可愛らしい娘がいるから、この指輪はきっとその母親と取り交わしたものなのだろう。
そんな大切なものを勝手に持ち帰ってきてしまった。
たまたま外したのをそのまま置き忘れてしまったのだろうか。
他人の、それも明らかに大切なものだと分かっているのに。
それを持ってきてしまった…。
ばれないだろうか、と不安になる。
バーナビーは自分の行動の迂闊さに、今更ながらに溜息を吐いた。
大丈夫だ。
今日は、ヒーローの中では、自分が一番最後にオフィスを出てきた。
あの時点で虎徹は既に帰っているはず。
明日の朝一番に出社して、虎徹のデスクに戻しておけば大丈夫だ。
自分が持ち出した事は、誰にも気づかれていない。
大丈夫だ。
誰にも気づかれない…。
夜景を眺めながら、バーナビーは何度も自分に確認した。
広い自分の部屋の何面、壁一面に埋め込まれた大きな強化ガラス窓の向こう、黒々とした夜空を背景に高層ビルの光が明滅して浮かび上がる。
その光が薄暗い間接照明だけの部屋にいる、バーナビーの顔を照らした。
部屋はしんと静まりかえっている。
もう夜中で、それでなくても独り暮らしの部屋は、音が無い。
シャワーで濡れた髪もそのままにして、一人、ワイングラスを傾ける。
普段他人に見せている自分とは違って、崩れた些かだらしのない姿勢で床に座って。
……そうして指輪を眺める。
これは、虎徹の指に長い間嵌っていて、彼と生活を共にしてきた指輪だ。
彼の温もりがする。
彼の息づかいが、彼そのものの気配が、する。
手を伸ばしてそっとその指輪に触れる。
暫くの間逡巡して、それからバーナビーは指輪をゆっくりと自分の左手薬指に嵌めてみた。
自分の指には少し大きかった。
意外な気がした。
虎徹とバーナビーでは、バーナビーの方が背が高いし、体格もいい。
だから指も太いかと思っていたが、そうではなかった。
虎徹の指輪は、バーナビーの薬指の根元まですとんと落ちて、緩やかに回った。
この指輪は、彼が神聖な愛の誓いを立てた証だ。
一人の女性と永遠の愛を。
こんなものを持ってきてしまって、どうするつもりだ。
頭の片隅で理性的な自分が囁く。
指輪を外して、バッグの中に入れておいた方がいい。
もう、指輪を見るのもやめた方がいい。
バッグの中にしまって、明日の朝早くに返してしまおう。
そうするのが、一番いい。
――でも。
指輪を薬指を振って回してみる。
外さなければ、と思うのに、外せなかった。
それどころか、指輪を見ていると、自分の胸の裡に、表現しようのない衝動が沸き上がってくるのを、バーナビーは感じた。
熱く、湿った衝動。
胸騒ぎがして、落ち着かなくなって、もう収拾を付けられなくなるような、そんな感情のうねり。
今は夜中だ。
……胸の中で拍動を刻む心臓の音が脳天まで響くような気がする。
夜中で、一人きりだ。
一人きりで、誰もいない。
ここは自分の部屋だから、どんな事をしても他人に知られない。
何をしても、大丈夫だ。
誰にも分からない。
そう思う、もう一人の感情的な自分が、理性的な自分を押しやった。
指輪を見ながら、穿いていたハーフパンツの中に、右手をそっと滑り込ませる。
――ゾクゾク、した。
こんないかがわしい事をしてはいけない、と思う気持ちが余計に自分を煽り立てる。
下着の中で触れたソコは既に半ば勃ち上がっており、指で輪を作って握ると硬さを増した。
目を閉じる。
左手はまだ使えなかった。
頭の中に、虎徹を思い浮かべる。
『バニーちゃん…』
そう自分を呼んでくる声。
低く響くテノールの声が好きだった。
呼ばれると、身の裡に甘くまろやかなものが溶け出してくる。
長い間感じていなかったような、そんな甘くて危険な、制御しきれない気持ちが湧き起こる。
バニーという呼び方は、最初は気に入らなかった。
人をバカにしていると思った。
それがいつしか、呼ばれるのを心待ちにするようになった。
彼に話しかけられると嬉しくなってしまって、そんな自分に最初は戸惑いを感じた。
次には、彼に微笑みかけられるとそれだけで嬉しくてたまらなくなってしまう自分に気づいた。
彼が自分から離れてしまうと、心の一部を持って行かれたように寂しくなる。
顔を見ないと不安になる。
彼が他のヒーローと楽しそうに話しているのを見ると、訳もなく苛立つ。
自分だけに笑い掛けて欲しい。
自分は虎徹のパートナーなのだから、その権利があるはずだ。
誰にも彼を渡したくない。
笑い掛けて、そして優しく抱き締めて欲しい……。
『どうしたバニーちゃん? 興奮してんのか?』
頭の中で、想像の虎徹が耳元に囁いてくる。
甘く低い声にぞくりと身体の芯が疼いて、バーナビーは息を詰めた。
興奮、している…。
『恥ずかしいんですけど、おじさん…』
おずおずと、想像の中で返事をしてみる。
『恥ずかしがる事はねーだろ、ん? 可愛いなぁ、バニーちゃんは』
そんな自分に構わず、虎徹が耳元で囁いて頬にキスしてくる。
それから虎徹の右手がそっと自分を握り込んでくる…。
「ン……ッッ……!」
尾てい骨を突き抜けて、背筋が総毛立つような甘い戦慄が走り抜けて、バーナビーは思わず呻いた。
『我慢しなくていいんだぞ? 俺にこうされて嬉しいだろ? もっとしてもらいたいだろ……?』
虎徹が耳孔に息を吹き込むようにして囁いてくる。
『ほら、足を開いて。俺によく見えるようにな。…お前の可愛い所をいっぱい見せてくれよ』
囁かれる耳朶が擽ったくて、火照ってくる。
首を縮めて、頬を染める。
恥ずかしいのに、嬉しくてぞくぞくして、身体の中が甘くとろりと蕩ける。
蕩けて、熱く滾ってくる。
『返事は…?』
『…はい、おじさん。……こうですか?』
床に座ったままの姿勢でもどかしげにハーフパンツを脱ぎ、長くすらりとした脚を限界まで広げて、バーナビーはその中心で息づいている性器を握りこんだ。
右手だけでなく、そこに左手も伸ばす。
虎徹の指輪が嵌った左手を。
「あっ……うっ、っん…」
熱い肉塊に虎徹の指輪の硬い感触を感じたと思った途端、激烈な快感が電撃の如く瞬時に体内を突き抜けて、バーナビーは堪えきれずに喘いだ。
ぱさぱさと髪を振り乱して、目をぎゅっと瞑る。
せわしなく息を継いで、床に後頭部を打ち付けるように仰向けに倒れ込んで、太腿を強張らせて耐える。
虎徹の指が、バーナビ−の肉茎をやわやわと握りこんでは、扱いてくる。
その度に快感の衝撃が間断なく脳髄を侵してきて、全身が湯気でも立つように火照る。
身体中の神経が敏感になって、特に虎徹が握っている性器はもう、丸い先端から透明な愛液をとろりと溢れさせていた。
くちゅ、と濡れた音が、静まりかえった部屋に響く。
『バニーちゃんのはすぐ大きくなっちまうんだな。俺が弄ってやってるからだろ?』
『そうです、おじさん。…おじさんだから。…もっと……、もっとしてください…』
虎徹が肩を竦めて笑った。
ちょっと目尻が下がって、口元が緩んで、並びのいい白い歯が覗く。
『恥ずかしい事いっぱい言っていいんだぞ? 俺が全部聞いてやる。ここには俺しかいないんだからな。…自分の欲望に正直になってみろよ、バニー』
『じゃあ、…もっと、…もっと触ってください。…そこだけじゃなくて、後ろも…』
虎徹の言葉に、躊躇しつつも欲望を口にしてみる。
『後ろに欲しいのか、バニー。…どっちの指で触ってもらいたいんだ?』
『左手。…左手で』
虎徹の左指がバーナビーの奥まった部分へと伸びた。
ぬるりと熱い先走りを指に絡めて、そのぬめりを双丘の狭間に塗りつけてくる。
『ここ、弄ってもらいたいんだろう、バニー?』
『そうです、…もっと、もっとしてください…』
『名前、呼んでみろよ、オレの名前』
『おじさん』
『おじさんじゃねえだろ?』
『虎徹、さん…』
『そう、良い子だ、バニー。じゃあ、褒美をやるよ』
指がぐいっと体内に埋め込まれた。
指輪の嵌った指だ。
リングの冷たく硬い感触が、熱く濡れた敏感な柔襞に当たって、バーナビーは息を呑んだ。
――いけない。
これは、虎徹の指輪だ。
彼が永遠の愛を女性と誓ったものだ。
そんな大切な神聖なものを、こんな下卑た、醜い自分の欲望のために汚してしまっていいのか?
「――あ、あぁぁッ!」
強い罪悪感が反対に、たとえようもない興奮を煽ってきた。
耐えきれず叫びながら、バーナビーは左指を深く後孔に埋め込んだ。
右手ではペニスの根元を千切れる程に強く握り締め、絞りながら先端まで指を動かす。
全身の血が一気に下半身に流れ込んでいくような、そんなブラックアウトするような衝撃とともに瞬く間に絶頂が訪れた。
「くッッッ!!」
熱い白濁で指をしとどに濡らしながら、バーナビーは数度痙攣した。
背中を瑞枝のように撓らせ、後頭部を激しく床に打ち付けながら、全身を震わせる。
ねっとりとした精液が床に飛び散り、精液特有の濃厚な雄の匂いが部屋に立ちこめた。
自慰と妄想が終わると理性が戻ってきた。
狂気と忘我の時間、束の間の至福も消え去る。
――と、何とも言えない虚しさと自己嫌悪が襲ってきた。
後孔に埋め込んでいた左手を、のろのろと抜き取る。
目の前にかざすと、薬指に嵌めていた指輪は、吐き出した白濁に塗れていた。
鈍く光る指輪から白濁が一つ、小さな雫となって滴り落ちる。
「ごめん、なさい…」
思わず、謝罪の言葉が出た。
一体誰に向かって謝っているつもりなのか。
今更だった。
謝っても、許してもらえない気がした。
なにより、自分が自分を許せない。
誤魔化しの言葉だ。
自分を守るための、口先だけの。
それでも、それを言わずにはいられなかった。
「ごめんなさい……虎徹さん…」
名前を呼ぶと胸がツキン、と痛んだ。
何も知らない虎徹。
自分のこんな汚れた妄想の相手になっている事も。
指輪をこんな変態じみた行為に利用された事も…。
絶対、虎徹に知られてはならない。
こんな自分を絶対、虎徹に悟られてはならない。
虎徹の前では、あくまでも、理性的で落ち着いた人間でいなければ…。
自信に満ちていて、虎徹が頼りにするぐらいの恰好のいい相棒でいなければ…。
理知的で、なんでもこなす、完璧な。
そんな理想のバーナビー・ブルックスJr.でいなければいけない。
素の自分を見せたら、虎徹が離れていくような気がした。
離れるだけならまだマシだ。
軽蔑されて、侮蔑と憐憫の目で見られて、もう相手にもしてもらえなくなる。
話しかけてもくれなくなるだろう。
それどころか、自分の前から姿を消してしまうだろう。
虎徹の性格を考えると、そうに違いなかった。
二度と、彼を見る事ができなくなる。
彼の声も聞けなくなり、笑顔も……何もかも、見る事ができなくなる。
彼の存在そのものが、自分の前から消失してしまう。
考えると恐怖で発狂しそうだった。
怖かった。
彼を永遠に失ってしまいそうで。
今まで培ってきた何もかもを、壊してしまいそうで。
でも、触れたい……。
それは強烈な渇望だった。
自分の身のうちで膨れ上がって、もう後戻りできないぐらいの。
それが無ければ自分が自分でいられないぐらいの、根源的な欲望だった。
触れてもらいたい。
抱き締めてもらいたい。
……キスされたい。
虎徹を欲しがる気持ちが強くなりすぎて、バーナビーは窒息寸前だった。
これ以上、正常を保っていられる自信が無かった。
制御、できるのだろうか、この自分の暴走を。
独占欲を。
渇望を。
虎徹が欲しくて欲しくてたまらなかった。
優しくしてもらいたい。
頭を撫でてもらいたい。
好きだと、言ってもらいたい。
求められたい。
一つに繋がりたい。
…愛されたい……。
想いはどんどんと膨らんでいくばかりだった。
どうしたらいいのか、見当も付かなかった。
きっと自分はそう遠くない将来、爆発してしまうだろう。
人前で。
虎徹の前で。
彼に全部知られてしまう日が来るだろう。
自分の本当の姿を。
醜い正体を。
隠していた欲望を。
そうしたら、自分はどうなってしまうのだろうか……。
息ができない。
視界がくるくると回り、居ても立っても居られなくなる。
立っていられなくて倒れ込み、うずくまる。
堪えきれなくて、バーナビーは何度も何度も、床に頭を打ち付けた。
金色の乱れた髪の間から、鮮血が滴り落ちる。
それでもやめられなかった。
肉体的な痛みは、懊悩を少しだけ紛らわせてくれる。
だから今だけでも、この苦しみから逃れたかった。
こんな事をしていては、いつか破滅の日が来るのに……。
「虎徹、さん……」
愛する人の名前を呼ぶと、胸が引きちぎられるほどに痛かった。
ずきずきと痛む胸と、血に汚れた頭を抱えてバーナビーは突っ伏した。
静かな部屋。
明滅する高層ビルの光。
真夜中の暗い部屋の中に、バーナビーの金髪だけがひっそりと淡く光っていた。
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