昼下がり
いつから、こんなに気になるようになってしまったのだろうか。
アポロンメディアのオフィスの一角。
開口部の大きなガラス窓を背に所在なく座る自分のパートナーを眼鏡の視界の端に入れ、バーナビー・ブルックスJr.はその形の良い秀麗な眉を顰めた。
――ほら、今もだ。
彼の……虎徹の何気ない仕草から目が離せない。
なんていうことのない、ただの仕草でしかないのに。
例えば――、彼がソファに座って、肘掛けに肘を突いて顎に手をやったり。
どこかぼんやりとした物憂げな視線で、窓の外を見たり。
バーナビーがじっと見つめているのに気づいたのか、振り向いてバーナビーを見てきたり。
しかも質の悪い事には、すぐに目を逸らしてくれればいいのに、そこでバーナビーに笑い掛けてきたりするのだ。
まるで小さな、無邪気ないとけない子供のように。
でも、結局の所それは、そんな、何気ないただの動作だ。
しかも相手はバーナビーよりもずっと年上で、所謂中年のうらぶれた男だ。
なのにバーナビーはその笑顔から目が離せなかった。
むさくるしい髭まで生えた中年なのに、その目はきらきらと、まるで見る物全てが珍しく楽しく興味深い、輝かしい時代の少年の瞳のようだ。
好奇心に満ちた、躍動的な。
(……僕にそんな頃があっただろうか……)
バーナビーはそこで考え込んだ。
自分の幼少時の記憶……と言えば、それは遙か昔、両親が健在で幸福だった頃のほんの僅かな幸せな記憶と。
それから圧倒的に長い、両親が死んだ後の、暗く重い記憶。
一人きりで誰にも頼れず、必死に生きてきた頃の記憶が殆どだ。
あんな目をして笑っていた頃が、果たして自分にあったのか……。
分からない。
両親が健在だった頃にはあったのかもしれない。
けれど、覚えていない。
独りになってしまってからは、もう周囲の大人と同じ目線で生きてきた。
心を許せる相手もいなかった。
自分の事は自分でなんとかするしかないと分かっていた。
学生生活ではそれなりに友人もできたものの、それだって心を許しあったわけではない。
というより、『心を許しあう』という事柄が、バーナビーにはよく分からなかった。
虎徹には、友人が多い。
親友だって居る。
ヒーロー仲間のロックバイソンがそうだ。
自分から見ても危なっかしい程に開けっ広げに他人を信頼する様子が……苛立つ。
「ん、どうしたバニーちゃん?」
虎徹が脳天気な声を出してきた。
「別に…なんでもありませんよ。仕事中です」
「ンン? まーた、仕事熱心だねぇ」
「おじさんがやらない分僕が代わりに報告処理をしてるんです」
「あ、そっか…。そりゃありがとな?」
こちらの皮肉が分かっているのか分かっていないのか…。
分かっていても、気にも掛けていないのかもしれない。
皮肉の応酬なんて、虎徹には一番したくない事だろうし……実際彼は乗ってこない。
そんな事を仕掛けてしまう自分にも腹が立つ。
虎徹の事なんて、ただの、仕事の出来ない…わけではないがどこかずれた、困った同僚として片付けてしまえばいいのに。
それなのに、……。
「っと、溜息なんか吐いちゃってー…。ん、大丈夫か?」
「……大きなお世話です。おじさんは自分の身体の心配でもしていてください。昨日の仕事、途中がたが来てませんでしたか?」
「おいおい、オレだって常に鍛えてんだからな。まぁお前ほどじゃないかもだけど…」
虎徹がだらしなくソファに上体を預けた恰好のまま、ちらちらと横目でバーナビーを見てきた。
テーブル越しに身体を見られていると分かって……体温が急に1,2度上がった気がした。
おかしな表情をしていないか、身体の変化に気づかれていないか不安になって、できるだけ平静を装って、さり気なく顔を逸らす。
虎徹の不躾な――無邪気な視線が痛い。
この人は……きっと何も感じていないのだろう。
その視線が自分にどんな影響を与えるかなど。
この人にとって、自分は、年下でいけすかない、生意気な相棒でしかないのだから。
そう思うと、胸がちくりと痛んだ。
切なくどこか息苦しい気分が胸元から喉元へと込み上げてくるようで、バーナビーは俯いた。
変だ…。
やっぱり、自分はどこかおかしい。
――そうだ、おかしい。
こんな中年の冴えない男に見つめられて、どきどきするなんて。
今までどんな事にも心を動かされた事も動揺したこともなかったはずなのに。
いつも冷静沈着でいられるように訓練し、理性を忘れず、客観的に物事を把握できるように、自分を律してきたはずなのに。
そうできるよう、小さな頃から鍛錬してきた。
いつ如何なる時も冷静に、感情を露わにせず、戦略的に、計算高く振る舞えるように。
他人に合わせて目立たなく振る舞う事も、周囲に埋没する事も訓練した。
自分を見失わずに常に平静を保てるように。
それなのに。
……視線が、痛い。
自分が見透かされそうで、……何故か不安になる。
自分の気づかない弱点を、見つけられそうで。
心の奥底に眠っている、自分でも気づかない感情を掘り起こされそうで。
居ても立っても居られないような不安が、沸き起こってくる。
不安なんだろうか、それとも。
もっと違う、今までに感じた事のない、感情なのだろうか。
……この僕が怖いと思うなんて……。
「あー、暇だから、トレーニングルームにでも行ってくっかな…」
不意に虎徹が立ち上がった。
顔を上げたバーナビーに向かってにかっと笑い掛けると、肩を竦め、右手で帽子をくるくると回しながらドアから出て行く。
姿が視界から見えなくなると、バーナビーは詰めていた息をふう、と吐きだした。
知らぬ間に肩に力が入っていたらしい。
ソファの背もたれに背中を預け、脱力して目を閉じる。
身体の熱がすっと引いて、ラクになる。
分かっている。
自分が、おかしい事は。
おかしくなってきた事は。
信じがたい事だが、……自分はあの、さえない中年男が気になってしかたがないのだ。
いつからか、分からない。
恋の始まりなんて、そんなものは気付かないものなのかもしれない。
この僕が……恋……?
笑止千万だ。
けれど、今のこの気持ちは……今まで経験した事もない、この動揺に名前を付けるとしたら、……それしかないのだろう。
不安に近いけれど、やはり違う。
焦燥にも似ているけれど、それとも違う。
このどこか切なく、それでいて泣きそうになるほどに甘い感情。
虎徹を見ているだけで、落ち着かなくなる。
自分が自分でなくなるような、そんな気持ち。
虎徹のほんの些細な言動でも気になって……自分で自分が制御できない、この不安定さ。
僕が、…こんな事になるなんて…。
どうしたらいいのだろう。
バーナビーは途方に暮れるしかなかった。
何もかも信じたくない気持ちだった。
虎徹は男だ。
同僚で相棒で、…常識的な一般人で、可愛い娘がいる。
自分とはまるで違う。
頭を振ってバーナビーは片手で目を覆って溜息を吐いた。
溜息を吐くしか、できなかった。
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