◆夕暮れ◆ 2
そこは、落ち着いた雰囲気の上品なバーだった。
シュテルンビルトの中でも最上層の市民が出入りするゴールドステージの一角にあり、虎徹が入るのは勿論初めてだった。
重厚な古錆びた扉を空けた途端の店員の丁寧な応対からして気後れした。
「いらっしゃいませ」
上品な物腰で案内されて、奥まった個室へと通される。
ここのバーはカウンターと、それから個室に分かれているようだった。
年齢不相応に落ち着いているバーナビーの後に続いて個室に入り、勧められたソファに居心地悪く尻を据えて、虎徹はバーナビーとは反対に落ち着き無く周囲を見回した。
被っていたハンチング帽を脱いで傍に置き、小さく息を吐く。
バーナビーは、と見れば、仕事の時と全く同じ、堂々たる雰囲気だった。
きっとどんな所に行っても気後れなどしないのだろう。
マナーも完璧、そつなくなんでもこなす。
それがバーナビー・ブルックスJr.だもんなぁ…。
虎徹はぼんやりとそう思った。
自分とは違う。
やはり違う所ばかりなんだろうか。
バーナビーが店員にワインを頼んでいる横顔を、見るとは無しに見る。
その頼み方も、いかにもワインなら何でも知っているという様で、しかもそれを嫌味ったらしくではなく自然に当たり前の事のようにやっている時点で、虎徹とは次元が違う。
店員が優雅に一礼をして出て行き、すぐに銀製の大きなトレイにワイン一式を乗せて運んできた。
バーナビーが慣れた手つきでワインをグラスに注ぎ、一つを向かいに座った虎徹の前に置く。
「あ、ありがとな、…ところで、お前、いつもこんなとこで飲んでるのか?」
ぼんやりしていたのに気づいて慌てて礼を言いながら、グラスを手に取ってワインを口に含む。
ワインはほの甘く、淡い桃色の液体が、どこかバーナビーを連想させた。
今目の前にいるような完璧な態度を取るバーナビーではなくて、たまに見せる無防備な彼の笑顔みたいな色。
氷のように堅い表面が溶けて、中から優しく繊細な内面が垣間見える時の彼のような…。
――唐突に、そういう彼が見たいと思った。
冷たい、理知的な視線では無くて、ちょっと含羞んだような、どこかきょとんとしたような視線。
虎徹の反応が意外な時に、たまに見せる無防備な表情。
感情が珍しく動いて表にまで出てきて、制御できずに怒ったり慌てたりする時の、いきいきとした表情。
すごく、可愛いのに。
……もったいない。
もっと、見せてくれればいいのに…。
「滅多に来ませんが、たまにパーティの後などに付き合いで。そういえばおじさん、パーティには殆ど出ませんね?」
「あ、…そうだな…。俺ぁそういうかしこまった席は嫌いだからな」
また考え事をしていたようだ。
はっとして虎徹は返事をした。
今、何考えてたんだ…。
最近、なんか少しおかしい…。
ちらちらと目の前のバーナビーの顔を眺めながら、ワインを咥内に含む。
虎徹がいつも自宅で飲んでいる酒よりずっと甘く円やかな味が、喉を優しく擽ってくる。
やはり、バーナビーみたいだ。
冷たくて、上品で、とっつきにくいのに、……口の中では甘く蕩ける。
「…なんで俺を誘ったんだ?」
なんとなく気持ちが急いているのが分かって、虎徹は身動ぎした。
何か話して、落ち着かないと、まずい気がする。
当たり障りのない話題で。
「さぁ……特に理由はないです。強いて言えば暇だった、と言うか…」
取り敢えず問い掛けてみると、バーナビーがワインを一口飲んで、それから形の良い唇を開いて答えた。
「暇、ねぇ…」
暇だからってわざわざ自分を誘うとは思えない。
バーナビーの方から誘ってくる事自体、殆ど無いのだ。
普段は虎徹の方から誘うばかりだ。
それも昼食程度。
昼はよく一緒に食べることはあっても、夜は滅多に無い。
(慰めてくれようとしてるのか? それとも、俺が珍しく元気が無いのが見てると面白い、とか…?)
考え過ぎだろうか。
(ちょっと卑屈になってるな、俺)
良くない傾向だ。
軽く頭を振ってワインをごくりと飲む。
出されたワインも極上だった。
虎徹の自宅に置いてある数少ないワインよりもずっと上質だ。
ワイン自体飲むのも久しぶりだった。
グラスを傾けてちびちびとワインを飲み、白い皿に盛られたチーズを摘みながら、虎徹は窺うように傍らの青年を見た。
間接照明に照らされて、豪華な金髪がきらりと光る。
バーナビーの髪は襟足がくるくるとした癖っ毛で、そこに照明が当たって、光が柔らかく乱反射している。
正面から見ると、左右対称の完璧な美貌だ。
すっと通った高い鼻梁に、形良くきりっとした眉。
昼より深い色に見える緑の宝石のような瞳に、細いフレームの眼鏡が良く似合う。
(やっぱり綺麗だよなぁ)
素直に感嘆の声が上がる…のは否めない。
外見だけではない。
マナーも完璧、上品な仕草は板についており、外見の美しさと相俟って、ワインを飲む姿は一幅のルネッサンス期の西洋画のようだった。
(やる事だって格好いいしな…)
ワインを手酌でグラスに注ぎながら、虎徹はぼんやり考えた。
テレビに出演すれば、堂々としていかにも新進気鋭、人気抜群の若手ヒーロ−、という雰囲気だ。
実際人気は凄い。
女の子のファンの多さは群を抜いている。
上司の受けもいいし、アニエスなんかもなんだかんだ言って、バーナビーには破格に優しい。
まぁ性格的に少々難はあるが…そういう所もきっと人気なんだろうな。
格好良くてプライド高そうで、少し生意気な所が反対に魅力的なヒーローって感じか。
なんとなく、肩が落ちた。
いつもなら、バーナビーはバーナビー、自分は自分、と切り離して考えられるところなのだが、今日はなぜか比べてしまう。
怒られるのなんていつもの事だし、こんな気持ちになるのは今日だけなのだろうが…。
心なし俯いて、虎徹はワインを飲んだ。
「おじさん…?」
静かな個室に、不意にバーナビーの声がした。
話しかけられて顔を上げると、
(………?)
目の前にチョコが差し出されていた。
チーズと共に運ばれてきた、一口サイズの丸くて小さなチョコレートだ。
「口開けてください」
ぐい、とチョコを突き出されて、思わず唇を開く。
(……っ…)
口の中にチョコが入ってきた。
ほろ苦くて……同時に甘かった。
口の中に残っていたワインと混ざり合って、豊穣なそれでいて繊細な味がする。
むぐむぐと頬を動かして食べると、バーナビーが微笑した。
「おじさんが元気ないと、変な感じなんですよね。あなたはいつも威勢が良くてうるさいぐらいじゃないと」
形良く整った唇がほころんで、表情が和らぐ。
深い碧色の瞳が柔らかく緩んで、いつものきつい視線が優しく変化する。
「甘い物でも食べて元気出してください」
(……)
上目使いにバーナビーを見ながら、チョコを食べる。
ちょっと子供じみていて、恥ずかしくなった。
けれど、……美味しい。
なんだか、くさくさしていた心が甘く溶けていくようで、ほんのり癒される。
黙ったまま口を動かしていると、バーナビーが不意に手を伸ばして虎徹の頭を撫でてきた。
(………!)
髪をくしゃっと撫でられる。
「お、おい、俺は子供じゃねーぞ?」
さすがに狼狽して口籠もりながら抗議すると、
「……そうでしたね、つい…。たまにあなたがとっても子供に思えるんですよね」
そう言って、バーナビーが肩を竦めて苦笑した。
「……それって、俺が子供っぽいって事か?」
「まぁそう穿って捉えずに。最近あなたの思考回路が分かってきましたよ」
「そりゃあどうも」
バカにされているのかなんなのか、でも何故か心地良かった。
虎徹は黙ってチョコを食べた。
グラスに残っていたワインをぐいっと喉に入れると、チョコの味と混ざってワインも更に美味しく感じる。
テーブルの向かいをちらりと見ると、バーナビーは済ました表情で優雅にワインを飲んでいた。
自分だけなんだか動揺しているようで、虎徹はちょっとむすっとした。
いきなり手を伸ばしてテーブルの上に出ていたチョコを取ると、バーナビーの唇に押しつける。
(……っ!)
一瞬、ふわっと指先が溶けた。
指に感じた柔らかさに、心臓がどきっとする。
バーナビーが驚いたのか目を見開いてきた。
緑の綺麗な瞳だ。
雨に洗われたみずみずしい新緑を映した、雨の雫みたいに。
「お前も食えよ」
照れくさくなってぶっきらぼうに言うと、瞬きを数度して、それから軽く肩を竦めてバーナビーが笑った。
唇が開いて、桃色の舌がチョコを探る。
指先に舌が触れて、虎徹は息を詰めた。
暖かく柔らかな、でも弾力のある感触。
指先が濡れる。
チョコを取って舌が引っ込んで、バーナビが唇を動かす。
チョコを取られたあとも、虎徹はバーナビーの顔を見続けた。
「食べましたよ?」
「あ、あぁ…」
何故か頬が熱い。
なんだろう、何か落ち着かなくて、息苦しい。
虎徹はバーナビーが舐めた指先を何気なしに自分の唇に持って行って含んだ。
「………」
今度はバーナビーが緑の目を見開いた。
丸く大きくなった緑の瞳が、ぱちぱちっと音が聞こえるのではないかと思うほどに数度瞬きする。
はっとして虎徹も一瞬固まった。
「い、いや、その…」
慌ててワインを飲む。
慌てすぎて喉に詰まり、ごほごほと噎せながら無理矢理嚥下する。
飲み下して息を吐いて、バーナビーを窺い見ると、彼は目元をほんのり赤らめて視線を逸らしていた。
虎徹の行動が意外だったらしい。
まぁ虎徹自身も意外だったのだが。
………可愛い。
不意にそう思って、虎徹はバーナビーから視線が外せなくなった。
いつもの澄ました表情ではなくて、戸惑って困惑している様が可愛らしい。
碧の目。
ピンクの唇。
酒で酔ったからか、ほんのり赤い頬。
額から、頬にかかる金髪。
知らないうちに、虎徹は手を伸ばして、相手の頭を撫でていた。
「…な、んですか?」
「あ、いや、……お前に撫でられたからな、お返し……」
「あなたが子供っぽいから撫でたんですよ。僕はそうじゃありませんから」
ちょっと拗ねた物言い。
子供っぽいじゃねーか…。
いつもと違う生き生きしたとした表情や、気を許してくれているような表情から目が離せない。
可愛い。
可愛いバニー。
俺の……。
(って、俺頭の中で何考えてんだ!)
不意に思い浮かんだ単語に虎徹はうろたえた。
でもやはり……可愛い。
もっと触れていたい。
拒絶されないんだったら、…バニーが嫌がっていないのだから…。
頭から頬へと手を動かすと、バーナビーがびくっとした。
困ったように視線を左右に揺らし眼鏡越しに虎徹をちょっとだけ見て、すぐに逸らす。
個室の中は時間が止まったようだった。
虎徹はバーナビーの頬を確かめるように撫でた。
部屋に二人だけ。
自分の鼓動が部屋中に響き渡るようだ。
何も考えられない。
こうして、触れているのが夢のようで…。
「失礼します」
不躾な声に虎徹ははっと我に返った。
バーナビーもはっとしたようで、慌てて顔を引く。
二人の視線が一瞬かち合う。
何故か狼狽して、虎徹は指を離した。
(どうしたんだ、俺)
店員が大きなトレイを恭しく捧げ持って、メインディッシュを運んできた。
慌てて身体を起こし、椅子に深く座り直して、何度も深呼吸する。
大きな皿を店員がテーブルに置くと、肉料理の香ばしい匂いが立ちこめた。
「美味しそうですね?」
バーナビーが気を取り直したように、いつもの平静な、玲厳な声で言う。
たった今まで漂っていた甘やかな空気が、雲散霧消する。
さっきの時間はなんだったんだろう。
虎徹はバーナビーに答えて頷きつつ、考えていた。
時が止まったようだった。
あの時間がもっと続けば良かったのに…。
二人きりで、触れ合っていた、あのひとときが。
(なんて、何考えてんだ!)
自分でも混乱しているようだ。
虎徹はメインディッシュを食べつつ、先程の一瞬を忘れようと何度も頭を振った。
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