◆お願いだから◆ 2
――僕の中にずかずかと踏み込んでくるのはやめてください。
おじさんが僕の言葉にオーケーするはずがないのはよく分かっていた。
なんといっても彼はノーマルで常識的な良き市民なのだ。
それは分かっていた。
可愛い娘さんも居る。
それにきっと奥さんをとても愛しているんだろう、今も。
会話は軽薄だったり、行動がくだらなかったりするけれど、それでもおじさんはまっとうな常識人として、僕の100倍はマシだった。
そう、僕は……自分がどこか欠陥があって、まともじゃない、と思っている。
おじさんは、僕とは違う。
だから、僕に近づかないで欲しい。
あなたが近づいてくると、僕は怖いんだ。
僕が今まで守ってきた僕が壊れそうになる。
僕を動揺させないで欲しい。
これ以上近づこうとするなら、僕は自分を守るためにあなたに攻撃をしなくてはいけなくなるんだ。
そんな事はしたくない。
でももう駄目だ。
僕の精神が日に日に危うくなっていくのを感じる。
あなたのせいだ。
あなたが僕の前に現れなければ、僕は大丈夫だった。
完璧に自分を制御して取り繕えていられたんだ。
これ以上僕に近づかれたら困るんだ。
だから僕は………。
おじさんは驚きで表情を固まらせたまま僕を見ていた。
動かない。
僕は言った最初は唇に薄笑いを浮かべておじさんを見つめた。
おじさんの反応が僕の予想した通りだったから、可笑しかった。
まさかこんな事を言われるなんて思ってもいなかったんだろうな。
おじさんは真っ当で常識人で、今まで親密で信頼に満ちた人間関係の中で生きてきたに違いない。
だから僕とだってそのうちに絶対仲良くなれる、親密で尊敬と慈愛に満ちた間柄になれる、と思い込んでいる。
残念だけど、そんな事を僕に期待しないで欲しい。
おじさんはそういう事ができるのかも知れないけれど、僕はできない。
人間にはできる事とできない事がある。
僕の能力とおじさんの能力が同じハンドレッドパワーだとしても、それはたまたまネクストとしての能力が同じだったというだけで、実のところおじさんと僕は、天と地ほど、水と油ほど違う。
おじさんは誰とでも友達になれて、仲良くできて、自分の感情を素直に出して笑いあったり怒ったり喧嘩したり泣いたり、そういう風にして真っ当で幸せな人生を送っていける人だ。
だからおじさんは、お互いにそういう事ができる人と付き合っていけばいい。
僕にそれと求めないで欲しい。
僕には無理なんだ。
無理な事を要求されてもできない。
これ以上罪悪感を抱かせないで欲しい。
できない事はできないんだ。
おじさんがあんまり何も言わないので、僕は当初高揚していた気持ちがだんだんと落ちてきた。
なんでこの人は何も言わないんだろう。
当初の驚きの表情は消えて、今、僕を見つめてくるおじさんの顔は穏やかな静かな顔だった。
なんでこの人はこんな表情をするんだろう。
そうじゃなくて、僕を軽蔑して欲しい。
僕と仲良くなろうとした事なんて後悔して、もう近づかない、仕事上の付き合いだけで結構、そういう風に思って欲しいんだ。
なんだこいつは、こんなヤツだったのか、というように嘲りと侮蔑の表情をして欲しい。
そうすれば僕はおじさんを吹っ切れる。
もうこれ以上傷つかなくてすむ。
不安に怯えなくてすむ。
踏み込まれて自分が壊れてしまいそうになる恐怖に苛まれなくてすむ。
お願いだから……。
でもおじさんは、いつまで経っても侮蔑の表情を見せなかった。
焦げ茶色の瞳が瞬きして、視線が柔らかくなる。
口角がほんの少しだけ上がって、でもそれは嘲笑や軽蔑の笑いではなかった。
まるでこの世で一番愛している存在を見ているような、そんな表情をした。
――どうして。
どうしてそんな目で僕を見てくるんだ。
そんな表情を僕も向けられた事があった。
もう殆ど覚えていない、小さな頃。
いつも僕を慈しんで見守ってくれていた両親の、四つの瞳。
幸せなのが当たり前で、自分が幸せだと気付かないほど、平穏な安らかな日々。
そんな日々がずっとずっと続くと思っていた。
突然僕の前から奪い去られて二度と戻ってこないなんて想像もしていなかった。
でも失われた。
そして二度と戻って来なかった。
その傷が辛すぎて、それ以上傷つかないために、僕は自分を防御した。
その防御が無かったら僕は生きていけなかっただろう。
これはどうしても僕に必要なんだ。
だからそれを壊そうとしないで欲しい。
お願いだから僕に構わないで。
そんな目をしないで欲しい。
軽蔑して、僕から離れて、二度と接近して来ないで欲しい。
おじさんは視線を更に細めた。
まるで神様みたいな慈愛の目線だ。
神様なんて信じていない。
けれど、おじさんの目は、小さな頃教会で見た宗教画の中の神様みたいだった。
胸が息が吸えなくて、僕は無理矢理肺から息を絞り出した。
吐いて、それから吸う。
――どうしよう。
これ以上この人の前にいたくない。
頭にかっと血が昇っていくのが分かる。
視線が合うと二度と離せないような気がして、絡め取られてしまうようで、僕は忙しなく瞬きをして視線を逸らした。
もう駄目だ。
鉛のように重く動かない脚を一歩、おじさんとは反対の方向に踏み出す。
重くて重くて動かない。
けれどなんとしてもここから去らなければ。
「バーナビー」
その時、おじさんが、いつもの『バニー』じゃなくて、僕の名前を呼んだ。
絶対普段は呼ばない、僕の名前を。
その言葉が耳に入ってきた途端、僕は硬直した。
「こっち向けよ」
おじさんの言葉が耳から脳の中枢にダイレクトに入り込んでくる。
嫌だ。
駄目だ。
できない。
……と思うのに、僕の身体はのろのろと向きを変えた。
おじさんの目が僕を覗き込んでいた。
暖かい焦げ茶色の二つの瞳。
ちょっと大きめの虹彩が、じっと僕を見つめてくる。
その目が近付いてきた。
おじさんの大きな節くれ立った手がすっと伸びて、僕の頬に触れてきた。
頬の形を確認するようにふんわりと触って、それからその手がゆっくりと目尻まで上がってきた。
目尻をなぞるように指が動いて、そのままおじさんの顔が僕に近付いてきた。
思わず僕は目を瞑った。
唇に柔らかくてちょっとかさついた感触が一瞬して、すっと離れる。
息を詰めたまま僕が目を開けると、間近でおじさんが僕を見つめていた。
栗色の瞳。
暖かな家族の団欒を思わせるような、落ち着いていて癒されるようなそんな色。
おじさんが口角を更に上げて微笑んできた。
優しい笑みだ。
視界がぼやけて、鼻の奥がツンとした。
おじさんの指が僕の両目尻を慈しむように撫でる。
唇が近付いてきて、目尻にちゅっと口付けられた。
髭が頬に当たった。
くすぐったくて、切なくて、どうしたらいいのか分からなくて、僕は瞬きも出来ずにおじさんを見つめた。
「大好きだよ…」
おじさんが言った。
「心配要らねぇよ、俺に何言ったっていいんだ。お前が何か言ったから俺がどうにかなるなんて事はねーし、お前が何を言おうと、どうしようと俺はお前が好きだよ。お前が何しようといなくなったりしない。だから安心して何でも言えよ」
おじさんが何度も何度も頬を撫でる。
顔が近付いてきて、キス、される。
触れるような、優しいキス。
それから、少し押しつけてくるような、キス。
角度を変えて、唇の端からそっと包み込むようなキス。
「だから、泣くんじゃねーよ、バーナビー」
実際の所おじさんの言葉がその時僕に理解できたかどうか分からない。
ただ僕はその時初めて、自分が泣いていたのに気付いたのだった。
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