◆Snowflake 2








グラスを掴んで冷えていた指先で、バーナビーの頬に触れる。
彼がはっと目を上げた。
その目は不可思議な色合いを帯びていた。
寂寥と哀惜の色が、碧の中に見え隠れしていた。
「おじさんを呼んだのは、一人になりたくなかったから。…誰かに隣に居て欲しかった。誰でもいいわけじゃないんです。今まで、僕はずっと一人で、誰かに居て欲しくなっても、人を呼んだりした事はありません。…不思議ですね、…貴方のことを考えたらいつの間にか電話していた…」
自嘲気味に唇が言葉を紡ぐ。
綺麗な左右対称の弧を描く唇が、少し震えて、きゅっと結ばれる。
「……」
引き寄せられるように顔を近づけて、虎徹はその唇を塞いでいた。
バーナビーが一瞬目を見開き、それからゆっくりと閉じた。
両手が虎徹の肩に回される。
一方の肩を窓に押しつけて支えとして、上向いた顔に深く唇を合わせる。
角度を付けて重ね、虎徹も両手をバーナビーの腰に回した。
不可思議な衝動だった。
明確に言葉に出来ない、深層からの衝動だった。
バーナビーの唇は柔らかく、少しだけかさついていた。
歯列を割って舌を差し入れると、ワインの仄かに甘い味がした。
身体の芯が疼く。
甘美な疼きだった。
この衝動はなんだろう。
形而下の意識がたまさか表に出たような、いつもなら心の奥底に深く深く沈んでいる封印された感情が、その時だけ水面に浮かび上がってきたような。
そんな不思議な情動だった。
「……ん、…っ…」
微かな、吐息混じりの声が鼓膜を震わす。
密やかに響いて、鼓膜から聴神経を伝って瞬時に脳髄へと達する。
シナプスに電流が流れ、本能の部位が刺激される。
身体の芯を突き抜けて指令が伝達され、身体の末梢まで行き渡る。
下半身が熱く熱を持ち始める。
もう、押しとどめられない。
それは確かな欲情だった。
「…バニー、……悪い」
虎徹が発した声も掠れていた。
情欲の滲み出た声に気付かぬはずがない。
バーナビーが瞳を細めた。
「おじさん…」
項に回されたバーナビーの手が、虎徹を引き寄せてくる。
そのまま後ろに倒れて、張り出し部分に仰向けになる。
その上から身体を重ねる形になって、虎徹は至近距離でバーナビーを見下ろした。
バーナビーは笑っていた。
それはどこか儚い、夢を見ているような笑いだった。
碧の瞳は虎徹と同じく情欲の色を帯び、濡れた唇が微かに開く。
「……貴方がいて、良かった…」
視線を交わしたまま、再び口付ける。
深く合わせ、同じ熱い情欲を交換する。
バーナビーの右手が虎徹の顎髭に触れてきた。
慈しむように撫で、顔の輪郭をそっと指先でなぞってくる。
その指に自分の手を重ね、掌で包み込むと、反対にバーナビーが虎徹の手を握ってきた。
ゆっくりと下へ誘導される。
指の伸びた先に、バーナビーの育った熱情を布地越しに感じて、虎徹は塞いでいた唇を離し顔を上げた。
間近にバーナビーを見つめ、目で誰何する。
バーナビーが柔らかく微笑した。
碧色がふわりと滲み潤んだ瞳に、情欲の炎が見え隠れする。
いいのか、と許可を求めるように見つめ続けると、バーナビーが答えの代わりに虎徹の顎に頬を擦りつけてきた。
「……」
何かここで言うと、全てが泡となって消えてしまうような気がした。
虎徹は一言も発せずに、バーナビーの誘いに応じた。










「…ぁ、…あ、あっ…ふ、――ン、…んんっ…」
重なった二人の影が、大きなガラスに映っている。
室内の僅かな間接照明を反射して、シルエットになって。
虎徹の浅黒い肌に、飛行船の回転する夜光灯が当たる。
一瞬目映く室内を照らし、すぐにその光は去っていく。
二人は、全裸で絡み合っていた。
バーナビーの白い身体の中に、深々と自分の熱を埋め込んで、虎徹は息を吐いた。
身体の下のバーナビーは、今まで見た事のない表情を晒し、見た事のない媚態を露わにしていた。
細い眉を寄せ、切なく喘ぎ、顔を振る。
振る度に、金色のくるりと巻いた髪が乱れ、淡い光を乱舞させて、宙に舞う。
いつもは冷たいまでに整った隙のない容貌が、今は柔らかく蕩けて、得も言われぬ艶と可憐さに彩られていた。
埋め込んだ熱で内部を抉れば、耐えきれぬように顎を仰け反らせ、眉を寄せて吐息を漏らす。
白い喉の動きに目を奪われると、その下の薄桃色の乳首が汗で光って、そこも虎徹の目を誘う。
一気に情欲が高ぶって、虎徹はごくりと唾を飲み込んだ。
バーナビーの両手が、震えながら差し出される。
それを掬い取るように握って、虎徹は応えてバーナビーの頭を胸元に抱きすくめた。
首筋に鼻筋を埋め、バーナビーの耳下に唇を押し当てて強く吸い上げる。
彼が微かに身動ぎし、金糸の髪が虎徹の頬を擽る。
甘く切ないような彼の匂いが鼻孔に忍び込んできて、その匂いはダイレクトに虎徹の劣情を直撃した。
「ぁあッッ…!」
体内で虎徹が嵩を増したのが分かったのだろうか、バーナビーが苦しげに喘いで顔を左右に振る。
宥めるように抱きかかえ、首筋を吸っていた唇を顎へ、顎から頬、頬から彼の目尻へと移して口付けを繰り返す。
眼鏡を取った彼の瞳は茫洋と潤み、目尻に浮かんだ透明な雫に、間接照明が淡く光った。
何故、こうしているのか、明確な答えは出なかった。
強いて言えば成り行き、とでも言うのだろうか。
陳腐な表現ならそうかも知れない。
バーナビーの身体は、男とのセックスが初めてではない事を示していた。
こういうシチュエーションには慣れているのかもしれない。
彼が過去どんな生き方をし、こうして今、虎徹の腕に抱かれているのか…、彼の人生をついこの間から知り始めた虎徹には分からなかった。
もっとも、バーナビーにとって虎徹の人生も分からないに違いない。
分からない事だらけだ。だから、こうして、ほんの少しでも分かり合おうとする…。
「や、ぁ、っ…あ、…お、じさん…ぁ、…も、っと、動いて…」
緩慢な動きでは、絶頂に達しないのだろう、バーナビーがもどかしげに虎徹の髪を掴んできた。
後頭部に指を差し入れ、生え際を指先で擦り、同時に下から、腰を虎徹に押しつけてくる。
結合が深くなり、意図的だろうか、バーナビーの内部に締め付けられて、虎徹はさらわれそうになる自分を堪えた。
「分かった、バニー…」
応えれば、バーナビーの唇が微かに綻ぶ。
金色に縁取られた端正な顔に赤みが差し、けぶるような睫が降りて瞼が閉じる。
腰を引いて身体を起こし、虎徹はバーナビーの腰骨を掴んだ。
白い肌は全体が上気して桜色に染まり、目を落とすと、濃い金色の柔毛の中心では、彼の熱がびくびくと脈打っていた。
色白の美しくそれでいて猛々しい性器に、視覚からも情動を喚起されて、虎徹は奥歯を噛み締めた。
腰を一気に進めてはバーナビーを乱暴に揺さ振って、荒々しいセックスをする。
進めるたびに腰を回し、彼の体内を貪る。
「あっ、やっ、あ―っっ!」
バーナビーが明らかに快感を得ている部分を探り当て、腰を撓めてその分めがけて深々と貫くと、堪えきれないのか嬌声が上がった。
宙で不安定に揺れていたバーナビーの白い足が、虎徹の腰に絡まってくる。
過ぎる悦楽に逃げかける腰を逃すまいと強く掴み、がくがくとバーナビーを激しく揺さ振る。
「あ、あっあっ…も、う、駄目っ……あ、イ、くっっ!」
泣きそうな甘く舌足らずな声音が、虎徹の脳髄まで瞬時に伝達される。
ぐっと盛り上がる情欲は最早止められなかった。
目の前が一瞬真っ白になる程の衝撃に、全身が硬直する。
体内の情熱を全て迸らせたような浮遊感。
バーナビーの中深く注ぎ込めば、一体感に自我が溶ける。
熱くて何も考えられない。
身体全部が性器に変化し、本能と情動のみのシンプルな構造となって、求める快楽を追い続ける…。










真夜中の飛行船は、相変わらず柔らかな光を発しながら暗い夜空を背景に浮かんでいた。
回転する光が定期的に窓に差し込み、ガラスの内側の虎徹の顔を照らす。
飛行船の下は、光を殆ど落としたビル群が、屋上の明滅する警告灯のみを赤や黄色、白に光らせている。
顔を動かして傍らのバーナビーを見ると、彼は窓に頭を押しつけて、虎徹を見つめていた。
白い素肌に、飛行船の遠い光が薄く当たる。
汗で濡れた、性交の後の身体のまま、乱れた髪も揃えずに窓に凭れている。
その姿は、無垢な天使のようだった。
情事の痕に塗れているにも関わらず、今までに見てきたどの場面の彼よりも清楚で美しく、神の祝福を全て与えられた選ばれた人間のように見えた。
「バニー…」
虎徹を見ているようで、焦点がどこか遠くを彷徨っている。
呼びかけると、数度瞬きをして、今、この世に生まれたばかりというような汚れのない視線を向けてきた。
「……帰りますか?」
ややあって、掠れてはいるが、落ち着いた声が返ってきた。
くったりとしどけなく窓に凭れた白い肢体を見つめ、虎徹は眉を寄せた。
ここにもっといてやるべきではないかと思ったが、バーナビーの声の調子は、虎徹に帰ることを促していた。
「あぁ、そうするよ。…今日はありがとな。…シャワー、連れてってやろうか?」
気を遣ったつもりだったが、バーナビーが淡く笑った。
「いえ、僕はもう少しこのままでいたいので…」
「…そうか」
バーナビーが何を考えてこのような行動をし、そして自分が何を考えてあのような行動をしたのか。
結局の所答えは出ないだろう。
人の行動の殆どは、奥深く封印された情動によって支配されている。
「じゃあ…おやすみ、バニー」
扉を空けて部屋を出るときにもう一度声を掛けたが、バーナビーの返事はなかった。
彼は、夢でも見ているかのように、半ば呆然と窓の外を眺めていた。
大きなガラス窓の向こうに浮かぶ飛行船。
射し込む光。
照らされた金色の天使――それは、一幅の絵画のようだった。










マンションの外に出ると、夜半過ぎの凍えるような風が虎徹の頬を掠めていった。
街路樹を揺らし、路上に落ちた枯れ葉を吹き上げて、どこか知らない遠くへと吹き過ぎていく。
遙か頭上、ゆるりと浮かぶ飛行船が見えた。
回転する淡い光が、高層ビル群を一瞬照らし出しては、走馬燈のように流れていく。
その中に、今出てきたばかりの、バーナビーの部屋もある。
映し出された一瞬、窓際に佇む金色の光が見えたような気がした。


頭を上げて遙かにそれを見上げ、それから俯いて暗い地面を眺め、虎徹はハンチング帽を目深に被って歩き出した。
静まりかえった街並の中、その姿はすぐに暗闇に溶け、後には冷え冷えとした静寂が残るだけだった…。







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