◆夕顔◆ 







夕方からの激しい風雨は、夜半過ぎに漸くやんだ。
一人娘である楓を救出し、自宅に戻って寝かしつけて、それから虎徹は夜中に実家を抜け出した。
明日にはシュテルンビルトへ帰るつもりだったが、その前にもう一度、兄に会っておきたかったのだ。
灯り一つ無い夜道を雨上がりの月明かりのみを頼りに歩き、店じまいした鏑木酒店の裏口から入る。
そこは鍵が掛けてあったが、昔は裏の出入り口の脇の植木鉢の下に、一つ鍵の予備が置かれていた。
そこをまさぐると案の定、鍵があった。
「以前と全く変わってねぇんだな…」
嬉しくなって独り言を言いながら、虎徹は裏口の戸を開けて中に入った。
中は、表の居酒屋部分と裏の住居部分に分かれている。
兄の村正自身はここに住んでいるわけではない。
隣に兄の自宅があって、独身の兄はそこに一人暮らしをしている。
が、今日はまだ酒店の方にいるらしく、住居部分の6畳の居間と台所、それに水回り部分には灯りが灯っていた。
「兄貴……」
声を掛けながら中に入って、六畳の部屋を覗き込む。
「なんだ、虎徹か…。どうした?」
一人で酒を飲んでいたらしい村正が、胡座をかいた姿勢のまま身体を捻って虎徹を見た。
「あ、さっきはありがとうな。…助かった」
「そんな事を言いに来たのか、わざわざ」
さっきの事とは、学校の帰り道に行方不明になってしまった楓を探すのに兄が手伝ってくれたことを指す。
村正は肩を竦めて苦笑した。
無精髭が少し伸びかけているその兄の精悍な横顔を、虎徹はじっと見つめた。
「なんかもう少し兄貴と話したくてさ…」
「なら、一緒に飲むか…?」
低い座卓の上に焼酎の瓶が乗っていた。
虎徹が台所から氷を入れたコップを持ってくると、そこに村正が焼酎をついだ。
村正の隣に胡座をかいて、虎徹はそれを一口口に含んだ。
しんとした夜中の静寂が、部屋にも忍び寄ってくる。
押し黙ったまま暫く飲んで、それから虎徹は重い口を開いた。
「なぁ兄貴。…俺、ヒーロー辞めて、生きていけると思うか…?」
「唐突だな、虎徹。どうした…」
村正が眉を寄せる。
弟の顔をじっと見つめれば、虎徹がすっと視線を逸らして瞬きした。
「今までネクストになってからさ、ずっとヒーローになる事だけを目標にしてきたし、そのために随分犠牲も払った。…今のオレからヒーローを取ったら、何にも残らない気がする。慣れるんだろうか…それが少し怖い…」
「犠牲か。…友恵さんの事か…」
弟の亡くなった妻の名前を口にすると、弟は苦しげな表情をした。
「あぁ、…それもあるし…」
「それだけじゃ、ないか…」
弟のいう犠牲という言葉の内容を、村正は分かっているつもりだった。
「営業の事だな…?」
虎徹が何も言わないので、自分から話題を振ってやると、虎徹が俯いた。
「もう、ヒーロー辞めればそういうのもしなくてすむだろう、…すっきりしていいじゃないか?」
弟が所謂『枕営業』と言われるものを強要されていた事は知っていた。
それは、弟の妻が死んでからの事だった。
それまでヒーローとして順風満帆、『壊し屋』というあだ名はつけられていたものの、壊しても必ず市民を助けていた弟が、公共物や建築物を壊すだけで市民を助けられない事が続き、そして賠償金の額が膨れ上がって、とうとう裏のスポンサーを募ることになってしまったのだ。
その時も弟はここに帰ってきた。
妻が死んだあと、実家に預けた小さな娘に会いに、という名目で。
その時に、こうして二人で何時間も酒を酌み交わして、漸く最後に虎徹が打ち明けてきたのだった。
枕営業というものを今度しなくてはならないという事を。
そういう現実に驚きもしたが、弟が納得しているのなら、口を出すべき事柄ではない。
そう思って村正は静観していた。
結局その後何年も弟は枕営業というものを続けていたようだが、詳しくは知らない。
彼が言い出してこない限り、自分が聞き出す事でもない、と思っていた。
「…そうなんだけど…俺、自信がねぇんだよ、兄貴」
虎徹が、俯いたままぼそぼそと呟いた。
「何が…?」
「………」
いつものだんまりだ。
弟は、言い出しにくい事があるとこうして黙る。
弟が話す気になるまでじっと待つのが兄の役目と分かっているから、村正はその時も慌てなかった。
静かにコップに焼酎を注いで弟の前に差し出す。
虎徹がそれをぐっと飲んで、それから目を上げて村正を見つめてきた。
不意に虎徹がコップを座卓に置いて、村正ににじり寄ってきた。
「兄貴……」
間近で囁かれ、なんだ、と誰何するように弟を見つめると、そのまま顔が近付いてきて、唇が柔らかく重なってきた。
「………」
すぐにそれは離れて、虎徹が窺うように村正を見上げる。
「一体何の真似だ…?」
そんな風に虎徹が自分に接触してきた事などなかったので、村正には虎徹の本心が分かりかねた。
今のは、口付けというものだろう。何故そんなものを自分にしてきたのか。
この行為は、兄弟同士でするものでは断じてない。
他人と、…それも心を通わせあった恋人や配偶者と交わす物だ。
「だから、…自信がねぇ…」
「はっきり言え」
虎徹が目を伏せて、溜息を吐いた。
少し顔を振って、それから顔を上げる。
「俺さ、何年も、アブノーマルなセックスやってきた。スポンサーに要求されるままに、縛られたりとか、輪姦されたりとか…」
「………虎徹…」
弟のそんな話を聞くのは初めてだった。生々しい話に、村正は表情を険しくした。
「すげぇいろいろ。一言じゃ言えねぇぐらい。薬とかも盛られたし…。で、…そういうのに身体がすっかり慣れちゃってさ…、誰かに犯されてねーと、欲求不満になっちまう身体になった…っていうか、一言で言うとセックス依存症っていうか…、…こんな話して、ごめんな…」
「……いや、いい。言いづらかっただろう。虎徹」
「……兄貴にしか言えねぇよ。誰にも言えねぇ…」
虎徹がふっと笑って、睫を震わせた。弟の端正な顔の長い睫を、村正は見つめた。
「変な話、アブノーマルなセックスじゃねぇと燃えなくなったっていうかな…、危険なのがしてぇんだよ、すごく…」
そこまで言って虎徹が立ち上がった。
照明をバックにすると彼の細身のシルエットが黒く浮かび上がる。
照明が眩しく村正は少し目を眇めた。
「兄貴……、見ててくれねぇ…?」
そう言って虎徹が着ていたシャツのボタンを外す。
一つずつ外して、左右に開き、はだけさせる。
そのまま膝を落として膝立ちになると、虎徹はシャツを広げて、裸の胸を村正に晒した。
「…こんなの兄貴に見せてる俺って、…おかしいよなぁ…」
自嘲気味に言いつつ、虎徹が自分の胸元に左手を這わせ、乳首を自分で摘むのを、村正は眉間に皺を寄せて見つめた。
弟のこんな姿は初めてだった。
見慣れた弟なのに、…初めて見る、知らない彼だった。
どこか途方に暮れたような潤んだ瞳を宙に彷徨わせ、唇を半開きにして少し震わせている。
淫靡で、…エロティックだった。
見てはいけないものを見ているようで、村正は胸がざわりとした。直視できなかった。
しかし、ここで中座するわけにも行かない。
これは弟が意図的に自分に見せているものだ。
彼がそうしなければならない理由があるのなら、兄として最後まで付き合ってやらねばならない。
弟は、自分にしか頼れないのだから。
弟の右手が、穿いていたジャージのズボンにかかる。
ずり下げて、下着の中から、熟れた性器を取り出す。
「………」
「……っ、あに、き……」
つるりとした亀頭から、透明な蜜が滲み出ていた。
そこを潰すように握りしめ、虎徹が顔を振る。
明らかに興奮しているのが分かった。
危険な…とさっき言っていたが、…そうか…。
納得がいって村正は虎徹の顔を凝視した。
自分に見せることで、弟は興奮を得ているのだ。
…確かにアブノーマルで、病的だ。
虎徹が瞬きをして切なげに息を吐いた。
その息づかいに、村正はぞくっとした。
アブノーマルか、自分もだな…。
自分も紛れもなく、弟のそんな姿を見て興奮している。
スラックスの中で自分のペニスが痛いほどに張り詰めてきたのを感じて、村正は心中密かに狼狽した。
「……兄貴……」
濡れた声が、自分を呼ぶ。
目の前の弟は、まるで娼婦のように艶冶な視線を投げかけてきた。
とろりとしたその目は飴色に濡れ、赤い唇が自分を誘う。
「兄貴、…俺の事、…」
弟が何を言いたいか、それだけで分かった。
ごくり、と無意識に唾を飲み込んで村正は立ち上がった。
虎徹の前まで進むと、弟の肩を掴む。
びく、と震える肩を掴んで、畳の上に押し倒す。
虎徹が嬉しげに笑みを浮かべた。
「…悪い…けど、兄貴じゃなくちゃ、俺のこの悩み、打ち明けられなかった…」
「しゃべるな。虎徹…」
上から身体を重ねて、弟の唇を塞ぐ。
「……んっ……」
虎徹が答えて、熱い舌を伸ばしてきた。
口付けを交わしているだけで、興奮で戦慄いた。
人間として許されない行為をしているという背徳感が、一層自分を燃え立たせているのだろう。
それは弟も同じようで、この異常な行為によって明らかに快感を得ているようだ。
禁忌の行為のなんと甘美な事だろうか――村正は眩暈がした。
「ぁ……んっ……あに、き……は、も、っと…」
弟の強請る声など、聞くのは生まれて初めてだった。
今までずっと弟がこの世に生を受けてから、生活を共にしてきたのに。
もっとも成人してからは離れていたので、村正の中にある弟像は、些か幼い。
その彼が、こうして淫靡に自分を誘い禁忌を犯させ、二人でこうして背徳行為に身を落としている。
そう思うと、背筋がぞくりとした。
身体が一気に熱くなり、驚くほどに興奮した。
弟のシャツを強く引っ張って脱がせ、ジャージのズボンも脚から抜き取って、その脚を大きく広げさせる。
「…っ、…兄貴っ……気持ち悪く、ねえ…?大丈夫、か…?」
自分から脚を広げ、ペニスや陰嚢、それから奥まった窄まりまで見せつけるようにしながら、虎徹がやや不安げに聞いて来た。
「何を今更…。気持ち悪いならとっくにやめている」
バカにするなというように語気を強めて言うと、弟は頬を染めて笑った。
「そうだよなあ…良かった…俺のここ、すぐに入るようになってるから…ほら、この通りに…」
弟が指を唾液で濡らして無造作にアナルに挿入した。そこは柔らかく解れて指を容易に飲み込んでいく。
「すげぇここ使われたからな…二輪刺しとかされたし。…なんてなぁ、こんな話するの恥ずかしいんだけどさ。…ごめんな、兄貴を利用して…」
自虐的に笑って言うのを村正は遮った。
「利用なんかされてねぇぞ、虎徹。…。俺もしたいからするんだ。…お前が負担に思う事は無い。…いいか?」
「……うん、ありがとうな…」
申し訳なさそうに笑う弟の顔が儚げで、村正は胸が詰まった。
こんな顔をさせたいわけではない。
弟にはいつも屈託なく笑っていてもらいたかった。
「な、兄貴…。入れて…兄貴のが、欲しい…」
濡れた声で言われて、我慢できるはずもなかった。
カチャカチャともどかしげにベルトを外しジッパーを下げると、村正は中から自分の勃起したものを取り出した。
弟相手にこんな事をする羽目になるとは…予想だにしていなかった。
…が、自分があり得ないほど興奮しているのも自覚していた。
相手が虎徹だからだ。
これから、虎徹と、――弟とセックスをする…。
そう頭の中で言葉にすると突如としてそれが現実となって村正を襲い、背徳感に全身が戦慄いた。
甘美な誘惑だった。
抗いがたい衝動に襲われ、村正はペニスを虎徹の後孔に押し当てた。
「…あ、にきっ……っっっ!」
一気に弟を貫く。
ずぶり、と淫靡な肉の音がして、硬い凶器はやすやすと柔らかな穴に埋まっていった。
「あっ――…あっあっ…すっげぇ、イイ…兄貴っ、す、げぇ良くて、…あ、あ―…も、っと奥までっ、な、ぁ……もっと、酷く、してくれよっ…」
髪を振り乱して虎徹が喘ぐ。
身体を押さえつけ、腰を深々と突き入れれば、熱く狭い肉筒にペニスが締め付けられて、激烈な快感を感じた。
「あーっ、い、いいっ、す、げぇっ…あっあーっ…ひっ…兄貴っ、兄貴っ、…熱いっ…、そこっ、…そこ、もっと突いてくれっ…。あ、あっあっ…!!!」
弟がこんな嬌声を上げるとは知らなかった。
いや、弟のこんな姿自体、知らない。
兄弟であれば絶対に見る事のない、見てはいけない姿だ。
ぞくぞくして堪らなかった。
信じられないほど興奮した。
もっと蹂躙し、いたぶって泣かせたい。
もっと酷くして、許しを請わせたい。
凶悪な欲望に村正は戦慄した。
自分の中に、こんな強烈な情欲があるとは。自分ながら恐怖を感じた。
高ぶる嗜虐心のままに弟のペニスを強く掴む。
「…ひぁっっっ!」
弟が目を剥いて悶絶する様子も、途轍もない快感だった。
潰すぐらいに強く圧を加えて、ペニスを扱く。
「あっあーっあぅ…し、ぬっ、…あ、あっっ…も、っ、ダメだっ…兄貴っ…そ、んなっ、強いっ…い、てぇよっ…」
切れ切れに訴えてくる声が、涙を滲ませて潤んだ茶色の瞳が、自分を誘惑する。
「…虎徹っ……っ…!」
弟の名前を呼ぶと一瞬彼が目を大きく開いて、両手を伸ばして自分にしがみついてきた。
はぁはあという息づかいが耳元で聞こえて、それだけで身体が痺れるほどの興奮を煽ってくる。
握ったペニスを根元から先端にかけて何度も扱いてやれば、くっ…、と瞬時弟の身体が戦慄いて、手に熱い粘液が迸った。
同時に内部をきゅうっと閉められて、一気に射精衝動が高まる。
我慢できず深々と突き刺せば、弟の身体が反り返って綺麗な弧を描いた。
「虎徹っ…」
「……ぁ…あー……っっ」
貫いて、腸内に白濁を噴出する。
どくどくと流れ込むソレは、弟の身体の中に、背徳という名の甘い蜜となって浸透していった。










「…兄貴……すまねー…」
暫く弟を抱き締めたまま畳に寝転がって乱れた息を整えていると、腕の中の虎徹が微かに呟いた。
「何言ってる。…いちいち謝るな。嫌だったらお前の誘いになんてのってねぇよ、虎徹」
「…うん……」
「バカなやつだな。…お前の事で俺が負担に思う事なんてねぇって言っただろうが…」
「そうだけど…でも、これはちょっと、どう考えてもよくねーだろ…」
「自分で誘っときながら言ってんじゃねぇよ。…俺たちはいい年の大人だ。良いか悪いかなんてのは、自分で判断するもんじゃねぇか。俺は悪くねぇと思った。だからお前を抱いた。…虎徹、お前はどうなんだ?後悔してるのか?」
「まさかっ…」
虎徹が慌てて首を振って、心外だと言うように睨んだ。
「俺は、兄貴とこうしたかったから、ここに来たんだ。…兄貴を誘惑するつもりで…」
「ったく、誘惑とか、お前も随分と都会人になったよなぁ。ここに住んでた時はそんな事考えもしなかっただろ?」
やや皮肉めいた物言いをすると虎徹が目元を赤らめて視線を外した。
「ごめん…兄貴。俺って悪い弟だよな。でも…すげぇ、良かった。死ぬかと思った。…満ち足りて、気持ち良かった…」
視線を和らげて村正は虎徹の頭をくしゃっと撫でた。
「構わねーよ、誘惑でも何でもしてこい、虎徹。悪い弟なんかじゃねぇ、お前は俺の自慢の弟だ。…俺はお前の兄なんだからな…どんな我が儘言ってもいいんだぞ…?分かったか?」
「…ん…ありがとうな…」
「いちいち言わなくていい。他人行儀じゃねぇか」
「兄貴……」
甘えるような声音で、虎徹が村正に口付けしてくる。
応えて唇を深く重ねて、村正は目を瞑った。
これが一般的に許容されがたい行為であるなら、自分たちは許容されなくていい。そう思った。
こうして弟と繋がって、背徳感も後悔も何も起きなかった。
それどころか、弟が愛しくて、もっと愛してやりたい、幸せにしてやりたいという気持ちが強くなった。
今後、弟がどういう道を進むにしろ、自分はそれを後押しし、どんな時も彼を見捨てず、抱擁し許容し抱き締めてやるだけだ…。
唇が熱を持ったように熱く、その熱を共有している自分たちが、愛おしかった。
誰に認められなくても良かった。
批難されてもいい。唾棄されてもいい。
こうして二人だけで、分かっていればいい――。

「虎徹…」
最愛の弟の名前を呼んで、再度村正は深く唇を合わせた。





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