◆Amapola◆




「あっ……あ、あっ…ああっ、も、もう、ダメだっ…あ、んっぁぁ!」
腕の中の虎徹が切羽詰まったような濡れた声を上げた。
先程から彼の体内深くに熱情を突き込んで、バーナビーは愛する人と一つになれる幸せを貪っていた。
「虎徹さんっ、僕の事っ、好きですか?」
「あっ…んんっ。好きっ、好きだっ、すげぇ好きっ、バニーちゃん、大好きっ!」
身体中を駆け巡る快感に翻弄されているのだろう、虎徹がぱさぱさと髪を振り乱し、顔を振って切れ切れに答える。
譫言のように呟きながらも自分で言った『好き』という言葉に反応してか、腸壁が搾るように蠕動してバーナビーのペニスを絶妙に締め付けてくる。
思わずイきそうになってバーナビーは眉を顰めた。
「虎徹さん、虎徹さん虎徹さんっ!」
「あーっっ、あっあ、はっああぁっ…!」
虎徹がだんだんと声のトーンを上げながらバーナビーの頭に手を回して、振り落とされまいとするかのようにしがみついてくる。
焦点のぼけた琥珀色の瞳が潤んで涙の膜が光り、目尻からつっと涙が滴り落ちる。
唇の端からは透明な粘液が滴る。
自分の与える快楽に没頭している彼が心から愛おしく、バーナビーは虎徹の頭を抱きかかえるようにして抱き締めると深く唇を合わせた。
唇を重ねて舌を伸ばし、虎徹の舌を捕らえて絡みつかせつつ、腰をぐっぐっと突き入れる。
その度に抱き締めている身体が震え熱を持ち、しっとりと汗を掻いて肌がぴたりと密着する。
鼓動が一つになって共鳴する。
「虎徹さん、愛してますっ!」
そう言うと内部がきゅうぅと締まって、もう我慢ができなかった。
「あなたも一緒に…っっ!」
右手を腹の間に差し入れて虎徹のペニスを握りしめる。搾るようにして先端まで扱く。
「―ーっっっ!」
手の先に熱い迸りを感じると同時に内部で千切れる程に締め付けられて、バーナビーも息を詰めて射精した。










幸せな愛の交歓が終わってぐったりとベッドに横になりはぁはぁと息を吐く恋人を見て、バーナビーは翡翠の瞳を細めた。
虎徹とこういう関係になってから二ヶ月ほどになる。
最初は恥ずかしがってセックスの時に声も上げずひたすら堪えていた虎徹も、最近では後ろで快感を得る事ができるようになったからか、バーナビーが挿入して虎徹の感じる部分を突き上げると、それに応えて素直に甘い声を上げるようになってきた。
もっとも彼が我を忘れるのはセックスの最中だけで、その後そんな話をすると顔を真っ赤にする。
「そんなことを言ったらもうやらねぇぞ」などとも言うから、できるだけからかわないようにはしている。
が、そんな風に膨れつつも自分を受け入れてくれる彼が、愛おしくて堪らない。
「虎徹さん…」
名前を呼ぶと虎徹が目を開けた。
泣いた目が赤く腫れて、目尻に涙の痕がついている。
半開きになった唇が少し震えていて、そんな様子を見ると胸がずきんと甘く痛む。
可愛い。愛おしくてどうしようもない。
唇を合わせて吸うと、虎徹が応えて返してくる。
「ん……ん、バニー…」
バニーと呼ばれるのも慣れたし、そう呼ぶのは虎徹だけだったから、その呼び方をバーナビーは今はもうすっかり気に入っていた。
特にセックスの最中に呼ばれるとたまらなかった。
こんなに人を愛するようになるなんて、――自分が不思議だった。
満ち足りた幸せなセックスが身も心ももこんなに豊かにしてくれるとは。
バーナビーは人生で初めての幸せを味わっていた。
「虎徹さん…」
呼びかけるだけで、虎徹が反応する。
赤く腫れた瞼を開き、重たげな瞼にかぶさるような黒い睫を少し震わせ、そのけぶるような睫の間から、琥珀色に煌めく虹彩で、じっと自分を見上げてくる。
黒目の部分が広がって虹彩の端が銀色に煌めいて、涙で潤んだその瞳を見ているだけでも、バーナビーはたまらなくなる。
瞳の中に、愛情と思慕の色を見て取れるからだ。
言葉に出さなくても、分かる。彼の愛情が、情欲が、慕情が。
「バニー…」
虎徹の低く掠れた甘い声が耳朶を擽る。
無意識なのだろうが、どこか甘えるような声音にずきっとまた胸が疼く。
「好きです…」
囁いて再び唇を重ねる。
すうっと瞼が降りて、黒い睫が微かに揺れる。
それを間近に見ながら、角度を変えて深く舌を差し入れる。
粘膜同士をゆるりと擦り合わせ、触覚からも愛を確かめ合う。
ドクンドクン―――規則正しい心臓の動きが、触れ合った肌を通して伝わってくる。
相手の生き生きとした脈動を感じて、訳もなく胸がいっぱいになる。
虎徹が愛おしい。
彼がこの世に生きていてくれることが嬉しい。彼がこうして自分に愛を傾けてくれることが嬉しい。この世に自分を掛け値無く愛してくれる存在がいることが嬉しい。
この人が好きだ。大切にしたい。笑っていて欲しい。自分を求めて泣いて欲しい。自分を求めてねだってほしい。拗ねてほしい。甘えて欲しい…。
「バニー、俺も好き…」
小声で囁かれてどうしようもなく身体が火照った。
こんなに幸せでどうしようとも思った。………どこか、怖かった。










その病室に入るには、まず、扉の脇の準備室で服を着替えなければならなかった。
ジャケットを脱いで、病院で用意された白いエプロン仕様の病衣を羽織る。
髪が落ちないように縛り、両手を丁寧に洗って消毒し、準備室からの別扉を空けて中へと入る。
ICU、所謂集中治療室は様々な機械音で満ちていた。
どのブースも、まるで要塞のようにベッドを囲んで種々の機械が置かれていた。勿論、虎徹の周りにもだ。
「こちらへどうぞ」
看護師に案内されて虎徹の側へ寄る。
ぴくりとも動かず、虎徹は目を閉じていた。頭はこめかみのあたりの毛が剃られ、そこに包帯が巻かれている。
酸素マスクで覆われた口元は血の気が無く、時折微かにぴく、と唇が震える。
指にはセンサーが取り付けられ、背後のモニターに何種類もの生体データが1秒毎に更新されて流れる。
首には穴が開けられており、そこに何本もの管が差し込まれていた。
「幸い頭部の外傷は思った程ではありませんでした。元々健康体ですので、すぐに回復すると思われます。ただ……」
「ただ?」
バーナビーと、同行していたロイズに説明をしていた医者が、僅かに口籠もった。
「なんらかの高次脳機能障害が出るかもしれません。これは本人の意識が戻らない事には分かりません」
「どんな症状が?」
「それも意識を取り戻して検査をしてからです。障害にも本当に軽い物、一時的な物から、重くて永続的な物まであります。鏑木さんがそのどれに相当するかはまだ…」
「そうですか…」
それ以上聞きようもなかった。
虎徹は、出動した際のほんの些細な不幸な偶然が重なって、頭部に外傷を負った。
無事事件を解決し、たまたまヘルメットを外して話していた時に、絶対落ちるはずのない鉄骨が落ちてきて一般人を巻き込みそうになった。
それをかばった虎徹は、自分がヘルメットを外しているのを失念していた。
ガッ、と鈍い音がして、鉄骨が彼の頭部を直撃した。それをバーナビーは隣で見ていた。
そこからはあまりよく記憶が無い。すぐに彼を抱き起こし、病院に連れていったらしい事はロイズから教えてもらった。
そのまま虎徹は入院し手術を受けて、この治療室に入っている。
「意識が戻ったらお知らせします」
「分かりました、よろしくお願いします」
とロイズが言い、バーナビーに退出を促す。
ICUをでて先程の準備室に戻り、病衣を脱いで返却して髪を戻し、廊下に出る。
「大丈夫、虎徹君は強いよ、そうだろ、泣くんじゃない、バーナビー」
ロイズに言われて、バーナビーは自分が泣いているのに漸く気付いた。










意識が戻ったと連絡があったのは、次の日だった。
すぐにでも見舞いに行きたかったが、病院の方で詳しい検査をするから見舞いは遠慮して欲しい、と言われた。
じりじりする思いで待っていると、2週間ほど経ってようやく、見舞いではなく一足飛びに退院するとの知らせを受けた。
一日千秋の思いで駆けつけようとしたが、反対に虎徹が出社してきた。
「虎徹さん…!大丈夫なんですか?」
虎徹には医者が同行していた。
いつものハンティング帽を被り、緑のシャツに黒いネクタイ、いつものベスト。
事業部に入ってきて軽く手を上げて挨拶をして二カッと笑う。今まで入院していたとは思えない、普通の虎徹だった。
「鏑木さんはここでちょっと待っていてくださいね」
医者がそう言って、バーナビーとロイズは虎徹を交えず、ロイズの部屋で医者の話を聞いた。
「鏑木さんですが、殆ど異常はありません。元通りと思ってください。あれだけ頭部に打撃を受けても異常が無いのはさすがヒーローですね。実を言うと驚愕しました」
医者の言葉に思わず顔がほころぶ。
「そうですか、それは良かった」
ロイズもほっとしたようだった。
「ただ、一つだけ……やはり高次脳機能障害が残りました」
「……そうですか」
「これが一時的なものか、それとも続くのかは今の所まだ分かりません。これからも定期的に彼の検査と治療はしていきたいと思っています」
「仕事に支障はありますか?」
ロイズが不安そうに聞く。
「いいえ、仕事など日常生活には一切支障はありません」
「では何が…」
バーナビーが畳み込むようにして聞くと医者は少し眉を押せた。
「鏑木さんは、…そうですね、一言で言えば、感情を一つ、無くしてしまった、と言うか、忘れてしまっている状態です。」
「感情を?」
「ええ……人を愛する、という感情を…」
「愛するという感情を……忘れた…?」
「簡単に言えばそうなりますね。その他の感情については全く問題有りません。ただ愛を忘れている、それだけです。」
「それは具体的には…。どういう症状なのですか?」
胸がずきっとして不安が迫り上がってきた。
「高次脳機能障害についての症状は本当に人それぞれ、千差万別で、一概に説明できるものではないのです。鏑木さんの症状についても、私が説明するより実際彼と接してみて感じられたほうがいいと思います。普通に生活している分には全く問題はありません。それから、彼に対しては以前の通りに接してあげてください。対応を変える必要はありませんし、前の通りの方が彼の障害も改善すると思いますので。なお鏑木さんは自分の異常が分かりません。だから指摘したり、気付かせたりしないようにしてください。あくまで前と同じように接して、粘り強く辛抱強く、彼が元に戻るのを助けてください」
「……」
「定期的に検査はしてもらいますし、治療薬も服用してもらいます。今の医学でしたらあのぐらいの症状なら時間が経てば治る可能性も大きいです。周囲に居る人は戸惑うかも知れませんが、対応の方よろしくお願いします」
医者はそう言って帰って行った。
事業部で医者に挨拶をする虎徹は、前の虎徹と全く同じだった。どこが違うのだろう…。
「虎徹君、すぐに仕事始めても大丈夫なのかい?」
「ええ、全然。なんか入院もすぐ元気になっちゃって暇で暇で…。暇すぎるから、病院の中のジムでトレーニングばかりしてて、身体も前よりずっと鍛えちゃいましたよ」
虎徹が肩を竦めて笑う。いつもの彼だ。どこも違わない。
ロイズもホッとしたように笑った。
「それは良かった。今回の怪我は労災だからね、君に請求が行く事もないし、今後の治療費も全部保険から出る。きちんと病院行きなさいよ?」
「へーい」
へらっと笑うところも同じだった。
ロイズが出て行って、バーナビーは虎徹と部屋に二人きりになる。今日は経理担当の彼女は、他部署に社内出張をしていた。
椅子に座ってデスクを点検する虎徹に、バーナビーは緊張を押し隠して声を掛けた。
「……虎徹さん」
「ん?バニーちゃんにも迷惑かけちゃったな、もう大丈夫だからな。俺がいない間の事務仕事、代わりにやってくれてたの?ありがとな?」
机の上にどっさり書類たまってるかと思ったのにぜんっぜんないからびっくりした、と笑いながら言ってくる。
「虎徹さん…」
「なに?」
「……虎徹さん…」
「なんだい?」
「僕の事、好きですか?」
「バニーちゃんなに言ってんの?スキに決まってるでしょ」
「好き?」
「スキ」
「……好き…?」
「スキだよ」
「……愛してます?」
「アイシテル」



愛を忘れる――。そうか、これが愛を忘れた状態なのか…。



スキ、にもアイシテル、にも何の感情もこもっていなかった。
まるで店先の正札を読むように、あるいは、言葉をただ意味も分からずに繰り返す幼児のように、虎徹はその言葉を紡いだ。
以前なら、『好き』という時、彼は、一瞬言いよどみ、どうしようかと視線を瞬時彷徨わせた。
それからぽっと頬を赤らめて唇を噛み、上目使いに自分を見た。
その瞳に愛情と欲望を十分に込めて、そっと、震えるようにその言葉を発したものだった。
『愛してる』という時はもっと躊躇していた。
目元まですっかり赤くし、すがるような目で自分を見つめては視線を外す。
目を伏せてしきりに瞬きし、それからまた目を上げて、唇を舌で舐め、「あ」の発音をするだけでぽおっと頬を赤くする。
そこから消え入るような声で、「いしてる…」と紡いで、慌てて目を伏せて目線を泳がせながらも、こちらの反応が気になって気になって仕方がないらしい。
ちらちらと窺っては目が合うと幸福そうに顔をぱっと輝かせ、でもまた羞恥でかすぐに目を伏せ、おずおずとしながら自分に身体を擦り寄せてきた。
けれど今、目の前の彼は、何も分かっていないようだった。
ただ、脳の言語中枢が覚えている言葉と記憶巣が覚えている行動を、彼がパブロフの犬よろしく反射的に繰り返しているにすぎない。
目は前と同じ琥珀色だったが、その目は自分を見ても思慕にも欲望にも濡れていなかった。
ただ、無邪気に、…何も知らない生まれたばかりの赤子のように、自分を見つめてくるばかりだった。
「虎徹さん…」
バーナビーは、震える手で彼の頬に触れた。そのまま顔を近づけ、唇に軽く触れる。
「……?」
何も……なかった。
目の前の虎徹は目を閉じることもせず、ただ動かないでバーナビーの口付けを受けた。
間近で目が合う。目が合っても…虎徹は無垢な視線を自分に向けてくるだけだった。
愛を忘れて…愛し合う喜びも、甘さも、切なさも――、幸福も、何もかもなくして、彼はどこか困惑気味に、自分を見てきた。
「どしたのバニーちゃん?」
「いえ………すいません」
………どうしよう。
どうしたらいいんだろう。
今まで、何もしなくてもこうして唇が触れ合いさえすれば、それだけで彼の心が自分に流れ込むように伝わってきて、幸せだった。
彼の欲情が、羞恥が、歓喜が伝わってきて、それだけで興奮した。
なのに、今、…唇はただ触れ合うだけで、遠い。
彼の心に何も無いのが分かる。
ただただ、彼は覚えている行動を、何も考えずに繰り返しているだけにすぎない。
「もう俺身体も全然大丈夫だからな?今日、バニーちゃんち泊まって良い?せっくすシヨウナ」
虎徹が言ってきた。
その言葉も、頭の中の記憶中枢がどこかの引き出しを開けて拾ってきたのがそのまま、愛情の中枢を素通りして、出てきたものなのだろう。
彼が紡いだ言葉は、全て以前のコピーでしかない。
「バニーちゃん、アイシテル」
それでも、彼の記憶が、……少しは残っている愛の記憶の残像が、彼にそうさせるのだろうか。
彼は少し戸惑ったような、困ったような顔をして、繰り返し何度も言ってきた。
「アイシテル……バニーは?」
「ぼ、くも……愛して、ます…」
『愛している』そう言う時、思わず声が震えた。涙が滲んで目が潤む。
「バニー?」
虎徹が首を傾げて困ったように笑った。愛を忘れた彼には、自分が泣いている理由が思いつかないのだ。
「気分悪いのか?」
「いえ、…大丈夫です。…違うんです、嬉しいんです」
「あ、そうか、俺が退院してきたから?心配いらねーぞ?全然元気だからな?」
虎徹がにこっと笑う。笑って自分の頭を軽く撫でてくる。
それは愛ではなくて、同僚としての、先輩としての思い遣りのようだった。
項垂れたまま、バーナビーは目を閉じた。
目尻から涙が溢れたがそのままにしておいた。
虎徹は自分の涙の意味も分からずににこにこしている。
それでいい、…今はいい、と思った。
今は意味は分からずとも、彼は「アイシテル」と言ってくれたのだから。
愛を忘れていても、言葉は覚えていてくれたから。
アイシテル―――あいしてる、愛してる…。
あなたがいつの日か、その言葉に心を乗せて呟いてくれる日が来るまで。
僕は決してあきらめない。
あなたが今は、ただ記憶が覚えている言葉を意味もなく繰り返しているだけでも、いい。
言ってくれるだけでいい。
今まで24年、生きてきて、あなたという最愛の存在に漸く巡り合えた。
あなたは僕の一生の、最愛の人だ。
だから、このぐらいで挫けたりしない。
あなたが治るのに、数日、いや数ヶ月、あるいは数年かかるかもしれない。
そんなの構わない。僕は絶対にあきらめない。
あなたを愛しているから。僕の全身全霊を掛けて愛しているから。
「虎徹さん、だから安心してくださいね?」
囁くと虎徹が邪気のない笑顔を向けた。



「バニーちゃん、アイシテル。家に戻ったらせっくすシヨウナ…?」
「はい、虎徹さん…」
そう言ってバーナビーは、涙を流しながら笑った。





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