◆四面楚歌◆ 2







目の前にいるのは俺がワイルドタイガーとしてさんざんお世話になった司法局の裁判官兼ヒーロー管理官、ユーリ・ペトロフだった。
何故彼がここにいるのか、…つまり、ここにいるという事は彼が俺を助けてくれたという事だが、それが分からなかった。
俺の呆けた顔を見て彼が唇を微かに歪めて笑った。
「詳細は後ほど。取り敢えず水をお飲みなさい。それに食べる物も持ってきました」
彼がそう言ってテーブルの上に置いたのは、クロワッサンの入った紙袋だった。
「このぐらいしか今は用意できませんが、また後で持ってきます」
とにかく俺は腹が減っていたし水が欲しくて堪らなかった。
彼が持ってきた食い物に薬が混ざっている可能性も一瞬考えたが即座に俺はその疑いを打ち消した。
彼は俺をワイルドタイガーと呼んだ。
そういうヤツが俺を陥れるはずがない。
よしんば陥れるつもりだったとしても俺は食う方を選択した、それは俺の判断だ。
俺は自分の判断で、ペトロフは俺の味方だと思った。
だからいい。
クロワッサンを掴み、口に放り込んで咀嚼しながら俺は水をゴクリと飲んだ。
美味かった。
ただの水がこんなに美味いなんて思ってもみなかった。
無我夢中で食べるとあっという間だった。
漸く人心地がついて、俺は水を全て飲むと、深く息を吐いた。
「…その、有難うございます。…でも、なんで貴方が…?」
「その辺りは後ほど。取り敢えず言っておきますが、私は貴方、鏑木虎徹がアポロンメデイア社に属するヒーロー、ワイルドタイガーだと知っています。そして貴方がおそらく殺人を犯していない事も」
「……」
主張したい事は山ほどあったが、言葉にすると止めどなく溢れてきそうで、俺は押し黙った。
今は腹が膨れたとはいえ、まだ眩暈はしたし、身体は疲労で綿のように疲れ切っていた。
「この部屋にはシャワーがあります。一応使えますから、浴びてきなさい」
こんな廃屋のようなアパートの水回りが使える事には正直驚いたが、俺は頷いて立ち上がった。
彼に案内されて入ったシャワー室は意外な事に新しかった。
水回りのみ改修したらしい。
シャワーを浴びて彼が持ってきてくれた服を着る。
どうやら彼の服らしい。
Tシャツにハーフパンツを身につけて部屋に戻ると、彼は帰ろうとしている所だった。
「裁判官さん…帰るんですか?」
こんな見知らぬ場所に一人きりにされるのか、そう思ったら思わず彼を引き留めていた。
彼は瞳を眇めて暫く俺を見ていたが、表情を和らげて言った。
「一度自宅に戻りますがまた来ますよ。大丈夫。貴方には私がついています。気を強く持ちなさい、タイガー」
そう言われて俺は自分の気弱さが恥ずかしくなった。
助けられただけでもよしとしなければならないのに、頼れる人間を見つけたというだけで俺は彼に寄りかかりそうになっていた。
こんな状況だから、藁にもすがる気持ちなのは確かだが、それにしても、彼と俺は殆ど接点がないのだ。
厚かましいにも程がある。
まんじりともしないでベッドにうずくまっていると、3時間程して彼が戻ってきた。
もう外は真っ暗に日が落ちて、逃亡1日目が過ぎようとしていた。










これからどうなるのだろう。
逃亡していた時はそれに精一杯で俺は自分の今後など考える余裕もなかった。
だが、この汚い小部屋で一人ベッドにうずくまって、物音を立てないようにびくつきながら隠れていると、情けない事だが俺は自分の境遇や、これから、実家に残してきた娘や母親の事などを考えてすっかり意気消沈してしまった。
特に――どうしてもバニーの事を考えてしまう。
バニーと過ごした幸せな日々やバニーと愛し合った記憶、最後に喧嘩して別れた記憶などが次から次へと頭に浮かんで、俺はベッドに突っ伏して頭を抱えた。
考えるな。
自分にそう言い聞かせてはみたが、何もする事の出来ないこんな部屋にいたのではそれは無理な相談だった。
じっとしているだけで何もできない状態では、頭の中であらゆるネガティブな思考が展開するのを阻止することなどできやしなかった。
バニー……
俺は心の中でバニーの名前を何度も呼び、その度に痛くなる胸を押さえた。
会いたい。
一度そう思ってしまうと、もう駄目だった。
会いたい。
会いたい会いたい会いたい。
声が聞きたかった。
『虎徹さん』もうバニーはそう呼んでくれないのだろうか。
きっと呼んでくれないだろう。
なぜならバニーにとって「虎徹」という名前は今や家政婦のサマンサを殺したにっくき犯人の名前だからだ。
もし呼んだとしてもそれは犯人としてであって、決して恋人としての俺の名前ではない。
そう思ったら堪えきれず俺はまた涙を流してしまった。
苦しい。
胸が詰まって息苦しくて無理矢理肺に息を吸い込んでも、半分も入らないようだった。
バニーはもう、俺を二度と呼んではくれない。
俺にキスをしてくれない。
抱き締めてくれない。
…抱いて、くれない…。
いや、まだ分からない。
希望はあるかも知れない。
現にさっき絶体絶命だった所をペトロフに助けてもらった。
彼は俺がワイルドタイガーだと分かっていた。
彼なら俺を助けてくれるかも知れない。
そうしたら、彼がいれば、俺はバニーを取り戻すことができるかも知れない…。
そこまで思って俺は頭を振った。
そんな脳天気な展開を想像できるほど、今の俺の状況は好転していなかった。
いや好転も何も、今朝がたどん底に突き落とされて、そのままどん底であがいているだけだった。
バニーの事など考えるような余裕も本当はないはずだ。
バニーよりも先に、とにかく俺自身がどうなるのかそこが問題だ。
…けれどやはり思いはバニーに行ってしまう。
バニーに会いたかった。
純粋に会いたかった。
会って、この間喧嘩してごめんな、と言いたかった。
言って頭を下げて、バニーを抱き締めて仲直りのキスをしたかった。
そうすればバニーはいつまでも怒ってなんかいない。
バニーは優しいから絶対俺を許してくれる。
『いいですよ虎徹さん、そんなに謝らないでください』
そう言って笑って、キスを返してくれる。
そうしたら俺は『ごめん、バニーちゃん。愛してる』と言ってバニーを抱き締める。
バニーはきっと俺に何度もキスをしてから、『虎徹さん、貴方が欲しい』そう言ってくれるだろう。
そうしたら俺は『俺も…』そう言ってベッドに行って、そして―――。










「どうしました?」
不意に声が耳元で聞こえて俺は驚愕した。
慌てて顔を上げると、ペトロフが立っていた。
「こんな暗い所で…あぁ、見つかるかも知れないから明るくできなかったんですね。大丈夫です。ここは私のアパートでもありますから」
そう言って彼は照明を点けた。
ぼんやりと部屋が明るくなる。
照明も薄汚れていて、あまり明るくもならなかったが俺はかえってそのぐらいの方が良かった。
「おや、泣いていたのですか?」
彼にそう言われて俺は俯いた。
泣いていたのはその通りだが指摘されると恥ずかしかった。
「どうしました?心細いのですか?私がいますよ?」
彼は俺の隣に腰を下ろすと俺の頭を慰めるように抱きかかえてきた。
きっと俺があまりにも情けなく泣いていたから俺に同情してくれたのだろうが、俺は胸が一気に一杯になって反対に嗚咽を堪えきれなくなった。
それは俺が朝から追われ通しだった事。
ロイズさんから冷たくあしらわれた事。
ヒーロー仲間が俺を公然と追っている事。
俺が誰からも忘れ去られていた事も原因だった。
ペトロフだけが俺を知っていた。
今こうして彼の体温を感じていると、それだけで俺は自分が存在しているという事を確認することができた。
俺は鏑木虎徹で、ワイルドタイガーで、ヒーローを10年以上やってきた男だ。
俺以外にワイルドタイガーというヒーローはいない。
ワイルドタイガーはタイガー&バーナビーというコンビでヒーローをやっていて、バニーの相棒は俺、鏑木虎徹で、公私ともに俺たちは仲良くやっていたのだ。
バニーの事をまたしても考えてしまって、俺は涙が止まらなくなった。
ペトロフが黙って俺を抱き締めていてくれるのを良いことに、俺は彼の肩に顔を押しつけて泣いた。
こんな風に俺は自分が弱い所のある人間だとは思っていなかった。
俺はもっと逆境に強くて、ちょっとやそっとじゃへこたれない性格だと思っていたのだが、実はそうでも無かったようだ。
たった一日、追われただけでこの有様だ。
それも、俺一人では到底逃げ切れなかっただろう。
こうして危ない所を身近とは言えない人物に厚意で助けて貰って、漸くこうして息を吐いている。
「タイガー…顔を上げて?」
耳元で彼のよく響く声がした。
不思議と心が落ち着くような声だった。
裁判官をしている時の彼の声しか聞いたことがなかったが、その声ともまた違った響きだった。
どちらも落ち着いていて聞く者を峻厳とした気持にさせる所はあるが、今の彼の声はずっと柔らかかった。
顔を上げると、間近に彼の顔があった。
ふと…柔らかく唇が重なってきて、俺は呆気にとられた。
キスはほんの少しの時間、一瞬だった。
すぐに顔が離れて、彼の薄い銀色の瞳が俺を見つめてきた。
「バーナビーの事を考えていたのですか?」
彼が俺の心の中をぴたりと言い当ててきたので、俺は驚愕した。
息を飲んで目を見開いたまま彼を見ると、彼はすっと双眸を細めた。
「貴方たちの事はある程度調べてあります。ヒーロー管理官としての私の勤めでもありますし…それに単純に貴方に興味があったから、とも言えますが…」
「……」
俺の視線に気付いてか、彼はふっと口元を緩めた。
「あなたたちが所謂恋愛関係にあった事も知っていますよ。ただ、バーナビーも恐らくは、今現在は貴方を恋人としても認識していないでしょう。今のバーナビーにとって貴方は、彼の家の家政婦を殺した殺人犯。それ以上でも以下でもありません」
「………」
そうだろうとは思っていたが改めて他人から言われるとやはりショックだった。
バニーはやはり、俺をもう、俺として認識していないのだろう。
バニーの中に俺は今現在いないわけだ。
今までの思い出も全部、失ってしまったのだろうか。
あんなに俺に熱烈に『好きだ』と言ってきた事も。
二人で共有した時間も。
熱情も愛情も何もかも。
全て。
「考えても致し方ない事です、タイガー。今は考えないように」
ペトロフがそう言ってきたが、言われてできるようなら苦労は要らない。
俺は唇をきつく噛んで俯いた。
涙はもう堪えようと思った。
彼の前で泣くのは嫌だった。
だが、そうは思っても後から後から涙が溢れてくる。
涙腺が壊れてしまったように。
「今日はもう遅い。いろいろな事を考えるのは明日にしましょう。ここに隠れている限り貴方は大丈夫。これからのことは慎重に考えないといけません。分かりますね?」
俺は小さく頷いた。
「では私はこれで。明日の朝また来ます」
彼がそう言って立ち上がろうとしたのを、俺は無意識に引き留めていた。
彼の腕を掴み、肩口に顔を押しつけて、行かせまいとした。
「タイガー…?」
「なぁ、ここに居てくれよ、駄目か…?」
俺は震えてままならない声を無理矢理に紡いだ。
一人になりたくなかった。
先程3時間程一人でいただけてあれだけネガディブな事ばかり考えてしまったのだ。
特にバニーの事を考えるともう、どうしようもなかった。
ここでペトロフが帰ってしまったら俺は明日の朝まできっとバニーのことを考えて発狂しそうになるに違いない。
いや、発狂すると思った。
自暴自棄になって、この部屋から抜け出してヒーローに捕まりに行ってしまいそうだった。
バニーに会いたくなってそうしてしまいそうな自分を抑える自信がなかった。
誰かに傍に居て欲しかった。
すがりたかった。
そんな事を頼むのは我が儘で、自分勝手で到底許容されるようなものでもないとは分かっていたが、それでもなりふり構っている余裕はなかった。
俺がペトロフの腕を強く掴むと、彼は溜息を吐いた。
「一つ言っておきます。私はゲイなんですよ。貴方がバーナビーと恋愛関係にあると分かってもいます。それで一晩貴方は居て欲しいと言う。分かります?私を引き留めるという事は、貴方は私と寝てもいい、という意味ですよ…いいのですか?」
彼の瞳は銀色に光っていた。
間近で眺めて俺はその吸い込まれそうな色に思わず息を飲んだ。
俺はなんでも良かった。
バニーの事を考えたくなかった。
考えると胸が潰れそうだった。
一晩じっとここで我慢する事など絶対にできそうになかった。
目の前の男だけが俺を救ってくれる。
あぁ、構わない、と俺は答えた。
構わない。
いやむしろそうして欲しい。
俺の中からバニーに対するこの狂おしい思慕を一晩、消し去って欲しかった。
頭の中で渦巻く焦燥を蹴散らして欲しかった。
何も考えたくない。
思考を止めたい。
全て停止させたい。
「そうですか。…分かりました」
彼が静かに言った。
ゆっくりとベッドに押し倒されて、俺は何故か安堵した。
彼がいてくれれば大丈夫だ、そういう気がした。
ギシ、と粗末なベッドが音を立て、男二人分の重みを受けて軋んだ。
俺は目を閉じて彼の頭の後に両手を伸ばし引き寄せると、その薄い唇に自分から唇を押し当てていった。




  終

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