◆Without Your Love◆ 9





彼が僕を見て唇を歪めて笑った。
「話なんて、別に何も無い。お前にオレの気持なんてわかるわけないだろ?」
「それはそうだけど…でも、なにか話してくれてもいいだろ?どうしたんだとかさ…」
僕がしつこく食い下がると、彼がふっと僕をバカにしたような笑みを浮かべた。
「こんな所で毎日研究なんかしてたって、なんにもならねーよ。お前だって分かってんだろ?いい所に就職できるわけでもない。性格が悪ければどんなに優秀だってダメなんだ。オレには何も残ってない。大学院なんて、必死で勉強して入ったけど、時間の無駄さ。もう飽き飽きした、自分にも世界にも。全部終わらせてやる。さっぱりさ!」
彼のその言葉は僕の心にぐさりと突き刺さった。
確かに僕もそう思っていた。
なんにもならない、性格がダメなら何をしてもうまくいかない…。
でも、そうじゃないんだ。
大切なのは、その事実を知って絶望する事じゃない。
その事実を知っても、あきらめない事なんだ。
僕にはうまく言えなかった。
僕が今、こうして、あの、引きこもっていた無為徒食な日々から立ち直れた事を話したかった。
けれど、なぜ自分が立ち直れたのか、それをうまく説明する事はできそうになかった。
一言で言えば、僕が立ち直れたのは、虎徹さんとセックスをしたからだ。
…でも、そんな事、どうやって説明すればいいのだろう。
しかもなぜ虎徹さんとセックスをしたから、立ち直れたのか、それだって自分で分からないのに……。
「もう話なんかないよ」
彼はそう言って、フェンスから手を離そうとした。
「ダメだよ!」
僕は無我夢中でフェンスを乗り越えて彼の手を掴んだ。
でもそれが逆効果だったかもしれない。
彼は激高して、僕の手を振り払おうと暴れてきた。
「あっ、あーっ!」
バランスが崩れて、彼ががくんとフェンスの外側の足場から足を滑らせる。
僕は思いっきり彼の手を掴んで引き寄せた…つもりだった。
けれど、成人男性を一人、手だけで引き寄せるなんて、僕の腕力でできるはずもない。
僕と彼はそのままずるずると重力に従って引き摺られ、そこからはあっという間だった。
視界がぱっと回転し、青空が目に飛び込んでくる。
あぁ、堕ちるんだ……そう思った。
それ以外何も考えられなかった。
青空や、浮かんでいる雲がくるくると回る。
太陽の光が目に飛び込んできて、身体がすうっと軽くなって…。
その時だった。
視界の端に、明るい緑色の光が流れ星のように光った。
その光が僕の目の前に迫ったかと思うと、僕はがっしりと抱き締められた。
緑の流星から、オレンジ色の矢が放たれる。
それは長い紐状にしゅっと伸びていく。
僕は宙をブランコのように揺れて、それからはっと気がついた時には、元の屋上に戻っていた。
下で人々の歓声が聞こえる。
呆然として僕は空を見上げた。
青空を切り取ってシルエットが目に入った。
すらりとした、銀色と緑色のヒーロースーツ。
太陽の光に、銀色が弾ける。
銀色のスーツの周囲は、青い美しい燐光で囲まれていた。
能力を発動しているのだ。
「…………」
僕は言葉も出なかった。
ぼんやりと見上げる。
僕と、それから、飛び降りようとしていた彼と二人を、ヒーローが救ってくれたのだ。
しゅっとオレンジ色のワイヤーがヒーローの腕に納まる。
ヒーローはまだ青い燐光を発したままだった。
僕はその青の美しさに目を奪われて半ば呆然としていた。
「あ、の、ワイルドタイガーさんですよね…?」
僕は自分を見下ろしてくるヒーローに向かって声を掛けた。
声はまだ震えていて、身体もぶるぶると震えていた。
「ありがとう、ございました…」
飛び降りようとしていた彼は、僕の隣で屋上のコンクリートに気を失って倒れていた。
けれど、外傷も何も無かった。
僕と彼と二人を抱えて助けてくれたんだ。
僕は震える身体を必死で支えながら、ワイルドタイガーを見上げた。
「いや、君が大丈夫で良かったよ…」
ワイルドタイガーが僕を見下ろして言ってきた。
「本当に、その、…」
そこまで言いかけて、僕の脳みその片隅で、あれ、という違和感が生じた。
ワイルドタイガーの声が、脳細胞のどこかに引っかかった。
なんだろう、…どこかで、聞いた事がある。
どこで…いや、TVじゃないのか。
インタビューとかに出ているから。
でも違う、そうじゃなくて、最近どこかで…。
「怪我とかないか?こいつの事助けたんだろ、すごいじゃないか、デビッド」
信じられないことに彼が僕の名前をしゃべった。
驚愕して彼を見上げると、彼が顔を覆っていたフェイスガードを上げた。
「………虎徹、さん……っ」
現れた顔には、アイパッチがしてあったけれど、その顔を忘れるはずもない。
虎徹さんだった。
優しい、深い色の瞳は、今は青く発光してこの世の物とは思えないほどに綺麗だった。
でも虎徹さんだ。
虎徹さん……最後に会ったのは、結局、虎徹さんの家で、彼をこの手に抱いた時だ。
それ以来会っていなかった。
虎徹さんがどんな仕事をしていたのか、結局分からないままだった。
…けれど、今、目の前に居る虎徹さんを見て、僕は呆然としながらも、ああそうか、虎徹さんはワイルドタイガーだったんだ、と抵抗なく思う事ができた。
しなやかな、身体。
理想的に付いた筋肉。
艶やかな肌。
…そんなものが次々と頭の中に思い浮かぶ。
僕の腕の中であえかに喘いでいたその表情や、潤んだ視線、僕の愛撫に答えて震える肢体、それから、彼の内部に押し入った時の熱い粘膜の感触―――。
「君が急にいなくなったから、心配してたんだ…」
虎徹さんが僕を覗き込んできた。
青い瞳に魅入られて僕は息が吐けなくなった。
なんて綺麗なんだろう…。
僕の身体の下で快楽に浸っていた彼も美しかったが、今こうして、能力を発動させて青く発光している彼はまた、筆舌に尽くしがたいほど美しかった。
「あ、ごめんなさい…」
思わず謝りの言葉が出ていた。
彼は照れくさそうに目尻を下げて笑うと、僕の手をそっと握って立たせてきた。
「いや、大学に戻ったんだな?良かった…。あれから真面目にやってるの?」
「あ、え、えぇ…。今、卒業研究してます。虎徹さんのおかげです…。大学に戻って、勉強する気力が出たんです…」
「そうなんだ…俺別に何もしてねぇけど、でも良かった…」
「タイガーさん?」
僕と虎徹さんが少々ぎこちなく言葉を交わしていると、彼の背後からもう一人、ヒーローが近付いてきた。
彼もフェイスガードを上げている。
美しい緑の瞳に、金髪。
ヒーロースーツは銀色に赤のライン。
やはり太陽の光に煌めいてきらきらと光っている。
「お知り合いなんですか?大丈夫ですか?」
「あ、あぁ、うん、大丈夫。……な?」
虎徹さんが僕に笑い掛けてきた。
僕はどぎまぎして、虎徹さんを眺め、それからもう一人のヒーローの方に顔を向けて小さく挨拶をした。
――全部、分かった。
こっちの彼は、バーナビー・ブルックスJr.。
虎徹さんの同僚で、…相棒だ。
彼が、一緒に組んでいる同僚で、24歳の僕と同じぐらいの若者、なんだ。
そして、虎徹さんに好きだと言ってきて、虎徹さんも好きだと思っている相手……。
「うまく、行ったんですね…?」
僕は虎徹さんに顔を近づけると、小声でこっそり話しかけた。
虎徹さんが仄かに頬を赤らめた。
「あ、う、うん。……あの、ありがとうな?その、おかげさまでさ…」
「そりゃ良かったです…」
僕は虎徹さんに向かってにっこりと笑って見せた。
実際、すごく嬉しかった。
僕の立場としてはやや複雑な心境になってもいい所だったけれど、そうはならなくて、とにかく僕は嬉しかった。
不思議な気持ちだった。
僕は虎徹さんを抱いた。
虎徹さんの初めてをもらったのは僕だ。
けれど、今、その虎徹さんが、彼が好きな相手と結ばれてうまくいっている、というのが嬉しくて堪らない。
おかしな気持ちだ。
自分でも訳が分からないけれど、僕はとにかく嬉しかった。
「タイガーさん、そろそろ帰りますよ?」
バーナビーが背後から声を掛けてきた。
僕たちのことは分からないらしい。
僕が虎徹さんにお礼を言っていると思っているようだ。
「貴方が幸せそうで良かったです」
僕はバーナビーに気付かれないようにそっと虎徹さんの手を握り返した。
「君はどうなんだ?」
虎徹さんがそこは真剣な表情をした。
「僕も幸せですよ。…あなたが幸せなのが分かったから、僕も幸せ」
「そりゃなんだよ…。でも本当に良かった…大学、頑張れよ?」
僕と虎徹さんは視線を交わして、それから僕たち二人は笑った。
「じゃあ、また?」
虎徹さんが僕の手を離し、小さく手を振ってくる。
「さよなら」じゃなくて「また」なのが嬉しかった。
きっともう二度と会わないだろうけど、でも、もしかしたら街角でまた会えるかも知れない。
あのコンビニに行く事はないだろうけど、でもコンビニの行き帰りの虎徹さんを見かけることはあるかもしれない。
虎徹さんとバーナビーと二人連れかもしれない。
そんな光景を目にしたら、僕は更に嬉しくなってしまうかもしれない。
虎徹さんがバーナビーと連れだって屋上から飛び降りるのを僕は見守った。
太陽の光が二人にあたって、瞬間、周囲がぱぁっと光る。
銀色の残像がすうっと青空を区切って、それはとても美しかった。
青空と、銀色と、緑色と赤の光跡。
屋上から下を覗くと、二人がヒーロー専用のバイクに乗って帰るところだった。
屋上に人がどやどやと入ってきた。
「大丈夫か?」
「こっちが飛び降りようとしていた方か。気絶しているみたいだ。急いで病院に搬送しよう」
救助隊の人たちらしい。
「君は大丈夫?」
「はい、僕は全然」
「そうか。ヒーローに助けてもらったんだよね」
救助隊のチーフらしき中年の男性にそう声を掛けられて、僕は力強く頷いた。
「そうなんです、ワイルドタイガーに助けてもらいました」
今だけじゃない、僕は彼に助けられた。
この飛び降りようとした先輩ではなくて、僕こそが、ワイルドタイガーに助けられたんだ。
彼は、僕が一番落ち込んでいた時期に、奇跡のようにやってきて、僕を助けてくれた。
癒してくれた。
今の僕があるのは、彼のおかげなんだ。
「ワイルドタイガーさんに助けてもらいました、彼は最高のヒーローです!」
僕は誇らしげに、そう宣言して、それからまた青空を振り仰いだ。
もう二度と虎徹さんには会えないかも知れない。
けれど僕の記憶の中には永遠に彼がいる。
それで十分だった。
絶対に忘れない。
「大丈夫かい?どこか痛いのかな?涙が出てるよ?」
救助隊の人にそう言われた。
気付いて見ると視界が潤んでいた。
僕は慌てて苦笑した。
「太陽が眩しくて…もう大丈夫です。僕もこの人について病院行きます、友達だから」
太陽の光が眩しかったのは本当だ。
いつまでも、綺麗な残像を見ていたかったから。
虎徹さんと、彼の最愛のパートナーのバーナビーの。
笑いながら、僕は目をごしごしと拭いた。


最後にもう一度、太陽を見て、それから僕は屋上を後にした。





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