◆蜘蛛の巣◆ 1
アポロンメディア社のビルの大きな窓からは、シュテルンメダイヤ地区の近未来的な美しく整備された街並が見える。
眼下には高層ビル群、その向こうに悠々と流れる大河。
青く澄んだ空を背景にして優雅に浮遊する飛行船。
のんびりと午後の時間を楽しむには恰好の景色だ。
しかし、アレキサンダー・ロイズの眉間には細い皺が寄っていた。
神経質そうな内面を表している細い顎に手をやって撫でては、更に眉を寄せる。
細くきつい視線の先には、書類一式。
TOPMAG社から送られてきた資料をプリントアウトしたものだ。
今度移籍してアポロンメディア社に来る事になった人物の履歴と経歴が詳細に載っている。
勿論過去のTOPMAG社での業績や賞罰、…賠償金についてもだ。
ロイズは片眉をぴくりと上げて、目の前に所在無げに立っている人物を見据えた。
年の頃は30代半ば、服装はなかなかに洒落ているが、些か軽薄そうなのは否めない。
社会人たるもの、新しい会社に出社して上司との面接となれば、スーツで来るべきだ。
まぁ、彼の場合は職種が特殊業務で言うなれば自由業のようなものだったから、服装までとやかく言うのは酷かも知れない。
しかし、30代半ばにしてこれとは。TPOぐらい弁えるべきではないのか。
「君がワイルドタイガー? あぁ、トラテツって名前だから」
「いえ、コテツです。…カブラギコテツ…」
じろりと眺めるとさすがに姿勢を正して帽子を脱ぐ。
帽子を被ってきたという事自体驚きではあったが、それもこの鏑木・T・虎徹という人間の一面を表しているのだろう。
一言で言えば、常識がない。
帽子を脱いで、ロイズの方にやや哀れっぽい視線を向けてくる。
少しは緊張しているらしい。
ロイズは虎徹を頭の先から爪先まで不躾に眺めた。
――まぁ、悪くはない。
虎徹がアポロンメディア社に採用されたのは、アポロンメディア社が大々的にバックアップして売り出す予定のヒーロー、バーナビー・ブルックスJr.のサブとしてだったが、眉目秀麗のバーナビーと並んでいても遜色のない程度には整った顔立ちではある。
東洋人特有のブラウンの瞳に黒い髪。
だが背は高く、容貌にはヨーロッパ系も少し入っているようだ。
虎徹についてはヒーローTVでの映像しか見ていなかったが、画面上のワイルドタイガーの雰囲気は今は無い。
今目の前にいる虎徹は、何処かしょんぼりとしているようで、伏し目がちに俯いている。
緊張しているなら良い事だ。
ロイズは入社に当たっての条件を淡々と説明した。
案の定、虎徹は全て初耳だったようだ。
いちいち「そんなの聞いてないっすよ」と言ってくるので、ロイズも「いやならやめてもらってもいいんだよ」と返した。
そうするとぐっと詰まって俯く。
言い返したいのを堪えている様に、ロイズの口元に薄く笑いが浮かんだ。
会社からの用件をあらかた説明し終わると、後はロイズの自由裁量となる。
この時が待ち遠しかった。
虎徹に会う前ははっきり言って気乗りしなかったが、今は大いに乗り気だ。
意外と彼が気に入ったようだ。
「さて、それじゃ次に。入社に当たってのもう一つ条件がある、いいかな?」
窓を背にした大きな椅子に座って足を組み、デスクに肘を突いて虎徹を見ると、虎徹がまだ何か、という視線を向けてきた。
窓からの光を受けて、虎徹の表情がよく見える。
訝しげな、何も分かってなさそうな表情に、思わず含み笑いが漏れた。
「それじゃ、まず、服を脱いで貰おうか」
「……はい?」
一瞬きょとんとした表情になる。
東洋人的風貌は、年より若く見られることが多いが、虎徹も例外ではないようだ。
そういう表情をすると20代の若者のようにも見える。
「服を全部脱ぎたまえ」
「……な、なんで……?」
さすがに驚愕したようで、手に握っていた帽子を取り落とした。
慌てて拾ってぱんぱんと埃を叩く。
それから顔を上げてロイズを窺うように見てくる。
「君、前の会社では随分賠償金を会社に負担させていたようだね。そのせいでTOPMAG社の業績が悪化したと聞いたよ」
「……はぁ…でも、ヒーローは賠償金なんか気にしてたら駄目っすよ、ロイズさん。市民の命を守るのが――」
「御託はいいから。賠償金の事はTOPMAG社からの報告で分かっているからね」
力説しそうになるのをぴしゃりと遮れば、不満げに頬を膨らませて睨んでくる。
なかなか元気がいい。
そんな顔をしても、その顔を歪ませる楽しみが増えるだけなのに分かっていないあたりが彼らしい。
「そんな君がうちの社に入るんだから、当然こちらもある程度の賠償金は覚悟せねばなるまいとは思っているんだよ、タイガー」
「そ、そうっすか…ありがとうございます」
睨んでいた表情がほっとしたように和らいで、頭を下げてくる。
収まりの悪い黒髪がぱさっと宙に舞う。
「だが、賠償金を引き受けるに当たっては、君にもそれ相応の対価を払ってもらわないとね…?」
畳みかけるように言うと、虎徹が不安げにブラウンの双眸を揺らした。
「……身体検査、とかですか…?」
成程そう来たか、とロイズは無意識に瞳を眇めた。
細い顎をひとしきり撫でてから口を開く。
「賠償金については私の一存で支払いを決定する事になっている。私が払わないと決めれば、君が自分の財産の中から捻出せねばならなくなる。分かるね?」
虎徹が真剣な表情をして頷く。
「今の所は、私は君が賠償金問題を起こした場合、全額払うつもりでいる。まぁ、これから君が私の言う通りにしてくれたら、の話だが…」
水を向けると、虎徹は一瞬考え込んで、それから頷いた。
「分かりました。何をすればいいっすか?もっと身体鍛えるとか…?ですか?」
鈍感な男だ。
別の見方をすれば真っ当すぎて頭の中が硬直しているとも言える。
TOPMAG社ではヒーローとして厚遇されてきたのだろうが、こちらではそうは行かない事を最初に知らしめる必要がある。
「私の言う通りにできるかな、タイガー」
「あ、はい…」
困惑気味の茶色の瞳が左右に揺れる。
ロイズの部屋の中を落ち着き無くぐるりと見回して、それから小さく溜息を吐いて、窓を背にしたロイズを眩しげに見る。
ロイズは瞳を細めたまま言った。
「では、今着ている服を全部脱ぎたまえ。脱いだら私の前へ」
そういう命令はされた事がないのだろう、虎徹が困惑しきっているのが分かる。
手に持った帽子を握っては手の力を緩める。
茶色の視線を左右に彷徨わせ、眉を寄せる。
虎徹があきらめる迄気長に待つつもりだったが、程なくして虎徹は肩を竦めて帽子をローテーブルの上に置いた。
「了解っす…」
返答すると、ネクタイに手を掛ける。
小さな衣擦れの音をさせて、ネクタイを抜き取る。
ベストの釦を一つずつ外して、ぱさりと脱ぎ捨てる。
シャツのボタンも外して脱ぐと、服を着ていた時には想像のできなかった逞しい上体が現れた。
着痩せするタイプのようだ。
浅黒い肌は東洋人特有の艶やかさに水を弾くようで、年齢を感じさせない。
体毛は薄いようで、…もっとも、ヒーローのような肉体を酷使する危険な職業に従事していれば、体毛は怪我等の際の治療に邪魔になるから剃っているのが普通だが…つるりとした肌理の細かい肌だ。
ベルトに手を掛けカチャ、と乾いた金属音をさせて外す。
ボトムを靴ごと一気に脱いでしまうと、あとは黒いボクサーパンツ一枚となった。
上体の逞しさに比べると、足は引き締まっていて細い。
いかにも俊敏な動きをしそうだ。
腹は腹筋が綺麗に割れ、そこも細身で引き締まっている。
理想的な肉体だ。
そこまででいいと思ったのか、脱いだ衣服をテーブルの上に放ると、虎徹がロイズを窺ってきた。
「全部、と言ったはずだが?」
「へ……?あの、でも…」
虎徹が後ろをちらっと振り返る。
他人が来るのを警戒しているのだろうか。
ロイズは口角を上げて薄く笑った。
「私の部屋は鍵が掛かっているから誰も来ないよ。ああ、明るいと恥ずかしいかね?」
椅子を回して後ろを向くと、背後の大きな窓にカーテンを引く。
薄淡い緑のカーテンで仕切られると、部屋はほの暗くなった。
「これでいいだろう?さ、脱ぎたまえ」
「……はぁ…」
意図が掴めないのだろう、首を傾げながら虎徹がボクサーパンツを脱いだ。
筋肉質の引き締まった尻が露わになる。
股間は黒々とした直毛気味の陰毛に覆われている。
その中心の性器は、緊張しているからだろうか、柔らかく項垂れていた。
「脱ぎましたが…」
「じゃあ、こちらに来たまえ」
手招きすると、頭に手をやってぼりぼりとかきながら、虎徹がロイズに近付いてきた。
椅子を回して虎徹をデスクの横に立たせ、その前で彼を見上げる。
近くで見れば見るほど惚れ惚れするような肉体だった。
長年現役のヒーローをやっているだけはある。
ロイズはおもむろに手を伸ばして、虎徹のペニスを掴んだ。
「へっっ!!?」
虎徹が素っ頓狂な声を上げた。
慌てて腰を引こうとするのを、下から睨み上げる事で押さえる。
虎徹は困惑して、視線を左右に彷徨わせていた。
「君も鈍い男だね、タイガー」
「は、ぁ…あの…」
事態についていけず、言葉も出ないようだった。
ロイズは小さく肩を竦めて、薄い唇を吊り上げた。
「…君が私を満足させてくれたら、君の賠償金は全額払うし、君がこのアポロンメディア社で自由にやっていけるように最大限取りはからってあげよう。私の言う事が分かるかね、タイガー?」
「………」
今度は虎徹にもロイズの意図が分かったようだった。
眉が顰められ表情に怒気が昇る。
腰を引こうとするのをペニスを強く握ることで押さえながら、ロイズは畳みかけるように言った。
「嫌なら勿論無理強いはしないよ。ただ、辞めてもらうだけだ。…君には過去の賠償金の自己払い金も莫大な金額が残っているんだろう、タイガー。それに家族への仕送りも毎月大変なようだね。…アポロンメディア社では勿論、そのあたりについても、社の方で負担させてもらうよ。過去の賠償金は全額即払いできる。…さて、どうするタイガー?」
ロイズの言った言葉を、虎徹は一つ一つ吟味しているようだった。
「貴方の言う通りにすれば、いいんですか…?それだけで…?」
「あぁ、それにするかしないかは君の自由意志だ。嫌なら、アポロンメディア社では君を雇用しない、それだけだよ」
「……」
眉間の皺が更に深くなったが、怒気は消えた。
困惑し、思案している様に、ロイズは我慢強く返答を待った。
やがて、小さく溜息を吐いて虎徹が肩を竦め、ロイズに向き直った。
「分かりました、…じゃあ、そうします…」