◆四面楚歌◆ 2






バニーはどうしているのだろう。
彼はマーベリックさんが育ての親だ。
以前パーティの席で、これからは彼に恩返しをするんだ、と言っていたのを思い出す。
バニーの記憶もきっと改竄されているのだろう。
どうやったらそんな事が可能なのか、まるで分からないが。
とすれば、今頃バニーは、俺を、昔可愛がってくれて慕っていた家政婦を殺した、凶悪な殺人犯と思っているはずだ。
俺が会社の同僚で、コンビを組んでいたワイルドタイガーで、…一緒に事件をいくつも解決してきたバディだとか、全て忘れて。
コンビを組んだ最初は気が合わなくて、何度も衝突したけれど、だんだんと打ち解けて仲良くなって、バニーの家に行ったり、バニーが俺の家に来たりしたのに。
それから―――。
俺は俯いて下唇を噛んだ。
絶対考えないようにしていたのに、とうとう考えてしまった。
一度考えると、堰を切ったように今まで封印していた思いが溢れてきた。
それから――バニーがジェイクを倒して復讐を遂げて、その日の夜に俺に『好きだ』と告白してきた事、抱き締められて、キスをした事。
俺は驚いて、心底驚いて一度は拒絶したけれど、バニーは全くあきらめなくて、それからも何度も告白してきて、結局俺は自分もバニーの事が好きだと認めざるを得なくて、何度目かの告白の時にバニーの言葉を受け入れた事。
その日バニーの家に泊まって初めて彼とセックスした事…。
そんな思い出が次から次へと溢れてきて、いくら下唇を噛んでも駄目だった。
鼻の奥が痛くなって、視界が潤んだ。
ぽたぽた、と涙が滴って、薄汚い路地裏のゴミ溜めに落ちた。










「こっちに不審者が来たって通報があったぞ」
大通りから声が近付いてきた。
慌てて顔を上げると、俺が潜んでいる細い路地と大通りが交差する方から、人影が覗いた。
俺ははっとして身を縮めたが一瞬、動作が遅れた。
泣いていたからだ。
「誰かいるぞっ!」
鋭い声が響く。
警察官だろうか、数人が路地に踏み込んできた。
俺は立ち上がると路地の奥へと逃げた。
足をゴミに取られながら、必死で走る。
「いたぞ!」
数人の声が路地から大通りへとリレーのようにつながって、路地に入り込んでくる。
「回り込め!」
誰かが背後で叫んだ。
路地を抜けて逃げようとしていた俺はその声を聞いて狼狽して周りを見回した。
どこか横に逃げられる所はないか。
狭い路地は汚い廃屋がひしめき合っており、どこにも逃げ道はなかった。
俺が逃げようとしていた先にも追っ手が到達したのか、細く伸びる光の中に人の黒いシルエットが動く。
絶体絶命…という単語が思い浮かんだ。
どうする。
能力を発動させて飛んで逃げたかったが、30分ほど前にそれでここに逃げてきたばかりだった。
能力は使えない。
心臓がどきどきと破裂しそうに鳴った。
焦りで目の前が霞む。
捕まったら終わりだ。
マーベリックさんの所に連れて行かれてジ・エンド。
絶対いやだ。
でもどうしたらいい――。
(――っっ!!!)
突如背後から口を塞がれた。
あっと思う余裕もなく、俺は口を塞がれたまま身体を拘束された。
驚愕に一瞬目が眩む。
後から回り込んできた誰かの腕が俺の鳩尾を深く抉った。
「………」
どこから人が来たのか皆目分からなかった。
俺はそのまま昏倒した。










霞んだ視界。
薄暗いその部屋はまるで見覚えのない部屋だった。
天井はグレイで、所々蜘蛛の巣が張っている。
天井板にはなんでできたのか分からない、いつからあるのか分からないような年代物の染みが随所にあり、汚れが濃淡になって絵のようだった。
ぼんやり俺はそれを眺め、黴臭い部屋の空気を吸って、ゆっくりと覚醒した。
顔を巡らす。
小さな曇りガラスの窓があり、薄汚れたカーテンが掛かっていた。
元は綺麗な淡い水色だったらしいそのカーテンは、すっかり汚れて暗い灰色になっていた。
顔を横にすると、些か湿ったシーツに頬が当たる。
粗末なシングルベッドに俺は寝かされていた。
身体は重く、鳩尾はずきずきと痛んでいたが、俺は慎重に庇いながら上体を起こした。
その部屋は小さく、ベッドに椅子とテーブル、そのぐらいしか無かった。
どこなのか全く分からなかった。
汚れたカーテン、天井と同じように染みの付いた板壁。
ブロンズステージには良くあるタイプの、底辺労働者が仮住まいにするアパートのようだ。
廃屋になってそのままうち捨てられたものだろうか。
警戒しつつ俺が部屋を見回していると、一つだけある小さなドアが開いた。
「おや、気がつかれましたか?水、いかがです…?」
落ち着いたテノールの声。
上品な身のこなし。
長い銀青の髪を揺らして、その人物は入ってくると、俺の目の前に、飲料水のペットボトルを差し出した。
「朝から水も飲んでいないのではないですか?ワイルドタイガー…」
ワイルドタイガー、と呼ばれた時、息が止まった。
俺は呆然としていた。
目の前の彼は、薄い色の双眸をすっと細め、笑い掛けてきた。
「本名、鏑木虎徹、そして貴方はワイルドタイガー。…そうでしたね?」
俺は戦慄く唇を漸く開いて、目の前の人物を呼んだ。



「裁判官、さん…?」



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