◆四面楚歌◆ 3
目の前にいるのは俺がワイルドタイガーとしてさんざんお世話になった司法局の裁判官兼ヒーロー管理官、ユーリ・ペトロフだった。
何故彼がここにいるのか、…つまり、ここにいるという事は彼が俺を助けてくれたという事だが、それが分からなかった。
俺の呆けた顔を見て彼が唇を微かに歪めて笑った。
「詳細は後ほど。取り敢えず水をお飲みなさい。それに食べる物も持ってきました」
彼がそう言ってテーブルの上に置いたのは、クロワッサンの入った紙袋だった。
「このぐらいしか今は用意できませんが、また後で持ってきます」
とにかく俺は腹が減っていたし水が欲しくて堪らなかった。
彼が持ってきた食い物に薬が混ざっている可能性も一瞬考えたが即座に俺はその疑いを打ち消した。
彼は俺をワイルドタイガーと呼んだ。
そういうヤツが俺を陥れるはずがない。
よしんば陥れるつもりだったとしても俺は食う方を選択した、それは俺の判断だ。
俺は自分の判断で、ペトロフは俺の味方だと思った。
だからいい。
クロワッサンを掴み、口に放り込んで咀嚼しながら俺は水をゴクリと飲んだ。
美味かった。
ただの水がこんなに美味いなんて思ってもみなかった。
無我夢中で食べるとあっという間だった。
漸く人心地がついて、俺は水を全て飲むと、深く息を吐いた。
「…その、有難うございます。…でも、なんで貴方が…?」
「その辺りは後ほど。取り敢えず言っておきますが、私は貴方、鏑木虎徹がアポロンメデイア社に属するヒーロー、ワイルドタイガーだと知っています。そして貴方がおそらく殺人を犯していない事も」
「……」
主張したい事は山ほどあったが、言葉にすると止めどなく溢れてきそうで、俺は押し黙った。
今は腹が膨れたとはいえ、まだ眩暈はしたし、身体は疲労で綿のように疲れ切っていた。
「この部屋にはシャワーがあります。一応使えますから、浴びてきなさい」
こんな廃屋のようなアパートの水回りが使える事には正直驚いたが、俺は頷いて立ち上がった。
彼に案内されて入ったシャワー室は意外な事に新しかった。
水回りのみ改修したらしい。
シャワーを浴びて彼が持ってきてくれた服を着る。
どうやら彼の服らしい。
Tシャツにハーフパンツを身につけて部屋に戻ると、彼は帰ろうとしている所だった。
「裁判官さん…帰るんですか?」
こんな見知らぬ場所に一人きりにされるのか、そう思ったら思わず彼を引き留めていた。
彼は瞳を眇めて暫く俺を見ていたが、表情を和らげて言った。
「一度自宅に戻りますがまた来ますよ。大丈夫。貴方には私がついています。気を強く持ちなさい、タイガー」
そう言われて俺は自分の気弱さが恥ずかしくなった。
助けられただけでもよしとしなければならないのに、頼れる人間を見つけたというだけで俺は彼に寄りかかりそうになっていた。
こんな状況だから、藁にもすがる気持ちなのは確かだが、それにしても、彼と俺は殆ど接点がないのだ。
厚かましいにも程がある。
まんじりともしないでベッドにうずくまっていると、3時間程して彼が戻ってきた。
もう外は真っ暗に日が落ちて、逃亡1日目が過ぎようとしていた。
これからどうなるのだろう。
逃亡していた時はそれに精一杯で俺は自分の今後など考える余裕もなかった。
だが、この汚い小部屋で一人ベッドにうずくまって、物音を立てないようにびくつきながら隠れていると、情けない事だが俺は自分の境遇や、これから、実家に残してきた娘や母親の事などを考えてすっかり意気消沈してしまった。
特に――どうしてもバニーの事を考えてしまう。
バニーと過ごした幸せな日々やバニーと愛し合った記憶、最後に喧嘩して別れた記憶などが次から次へと頭に浮かんで、俺はベッドに突っ伏して頭を抱えた。
考えるな。
自分にそう言い聞かせてはみたが、何もする事の出来ないこんな部屋にいたのではそれは無理な相談だった。
じっとしているだけで何もできない状態では、頭の中であらゆるネガティブな思考が展開するのを阻止することなどできやしなかった。
バニー……
俺は心の中でバニーの名前を何度も呼び、その度に痛くなる胸を押さえた。
会いたい。
一度そう思ってしまうと、もう駄目だった。
会いたい。
会いたい会いたい会いたい。
声が聞きたかった。
『虎徹さん』もうバニーはそう呼んでくれないのだろうか。
きっと呼んでくれないだろう。
なぜならバニーにとって「虎徹」という名前は今や家政婦のサマンサを殺したにっくき犯人の名前だからだ。
もし呼んだとしてもそれは犯人としてであって、決して恋人としての俺の名前ではない。
そう思ったら堪えきれず俺はまた涙を流してしまった。
苦しい。
胸が詰まって息苦しくて無理矢理肺に息を吸い込んでも、半分も入らないようだった。
バニーはもう、俺を二度と呼んではくれない。
俺にキスをしてくれない。
抱き締めてくれない。
…抱いて、くれない…。
いや、まだ分からない。
希望はあるかも知れない。
現にさっき絶体絶命だった所をペトロフに助けてもらった。
彼は俺がワイルドタイガーだと分かっていた。
彼なら俺を助けてくれるかも知れない。
そうしたら、彼がいれば、俺はバニーを取り戻すことができるかも知れない…。
そこまで思って俺は頭を振った。
そんな脳天気な展開を想像できるほど、今の俺の状況は好転していなかった。
いや好転も何も、今朝がたどん底に突き落とされて、そのままどん底であがいているだけだった。
バニーの事など考えるような余裕も本当はないはずだ。
バニーよりも先に、とにかく俺自身がどうなるのかそこが問題だ。
…けれどやはり思いはバニーに行ってしまう。
バニーに会いたかった。
純粋に会いたかった。
会って、この間喧嘩してごめんな、と言いたかった。
言って頭を下げて、バニーを抱き締めて仲直りのキスをしたかった。
そうすればバニーはいつまでも怒ってなんかいない。
バニーは優しいから絶対俺を許してくれる。
『いいですよ虎徹さん、そんなに謝らないでください』
そう言って笑って、キスを返してくれる。
そうしたら俺は『ごめん、バニーちゃん。愛してる』と言ってバニーを抱き締める。
バニーはきっと俺に何度もキスをしてから、『虎徹さん、貴方が欲しい』そう言ってくれるだろう。
そうしたら俺は『俺も…』そう言ってベッドに行って、そして―――。