◆Four Leaf Clover◆  2






「バーナビーさん、急いで病院に来てください」
突如連絡が入ったのは冬の寒い午後のことだった。
出動要請もなく、ヒーロー事業部で仕事をしていたところで、即座に病院へと駆けつける。
「どうしましたか?」
馴染みの看護師が出迎えてくれて、二人でエレベータに乗る。
「鏑木さんが、気が付きそうなんです」
「えっ…ほ、本当ですか?」
「えぇ」
病室に入ると、数人のスタッフと担当医が虎徹を覗き込んでいた。
「あ、バーナビー君、もしかしたら、鏑木君が目を覚ますかもしれない。朝から反応が違うんだ。今、意識が覚醒するようにと薬剤を打ってみた。暫く様子を見ていてもらえないかな?できるだけいろいろと話しかけてみてください」
「はい、…大丈夫です」
「容態的には安定しているから、心配は要らないと思う。もしいつもと違ったら、すぐ私たちを呼んでくれ」
「はい」
スタッフ達が出て行くと、病室は静かになった。
ピッピッピッピ、という機械音が響くだけだ。
虎徹の様子はバーナビーから見ればいつもと同じだった。
穏やかな寝顔。
閉じた瞼。
笑っているような口元。
本当に、覚醒するのか。
分からない。
今更心臓がどきどきとしてきた。
いや、でも期待して外れた時の落胆は大きい。
何も考えないようにして、とにかく話しかけなければ。
心臓の音が煩い。
緊張する。
「虎徹さん…」
ベッドの脇に椅子を持ってきて、バーナビーは彼の顔に頬擦りするように顔を寄せて話しかけた。
「虎徹さん、この間、コンビはもう組まないんですかって聞かれたんですよ、僕。だから言ってやりました。勿論貴方と組むつもりはあるって。僕、今年もKOHになりそうですよ。虎徹さんがいつも応援してくれてるからですね。貴方とこうして一緒に居られるから…」
囁いて、虎徹をじっと見つめる。
滑らかな頬にふんわりと唇を押し当てる。
柔らかい感触と、石鹸の匂いがする。
「虎徹さん、僕、炒飯がプロ並みになりましたよ。楓ちゃんに褒められるんです。勿論味は貴方の味ですよ。楓ちゃんからは『お父さんよりずっと美味しい』なんて言われるんですけどね。早く貴方の炒飯また食べたいな…。最後に作ってもらった時、食べられなかったのが残念で。…でも、その分次に貴方に作ってもらえるのが楽しみですからね。ずっと待ってるんです」
虎徹に話しかけるというのは、自分の思い出をつぶさに思い出す事だ。
今まで日常に隠れていた思い出が意識上に出てくる。
なんとも言えない切ない感情が心の中に湧いてくる。
少し、困惑した。
今感情的になるのは避けたかった。
何より、穏やかな気持ちがかき乱されるのは辛かった。
辛い。
3年前のあの時のように、死にそうな程の辛い思いは…もうしたくない。
けれど、一度思い出してしまうと、当時の感情が心の中に次々とわき出してきた。
自分が放った銃撃の光線で、虎徹が瀕死の重傷を負った事。
彼の能力減退を、知らなかった事。
自分の腕の中で、がくりと項垂れた彼の重み。
最後の言葉。
「虎徹さん……」
声が震えた。
どうしよう。困った。
――いけない。
今は自分の甘っちょろい感情などにかまけている暇はない。
虎徹が目覚めるかも知れないのだから、声をかけ続けなくては。
「虎徹さん、……」
でも、感情が溢れてくると、さりげない内容はもう思い浮かばなくなってしまった。
「早く、起きてくださいよ、虎徹さん。…貴方がいないと僕、ダメなんです。本当は分かってるんでしょ。…いつまで寝てるんですか。もう、起きてもいいじゃないですか。待つの、辛いです…」
恨み言は決して言わないつもりだったし、感情さえ制御できていれば絶対そうできたはずだった。
けれど今はダメだった。
一度口にしてしまうと、それは堰を切ったように溢れてきた。
「虎徹さん、僕がもう待てないって言ったら貴方どうします?僕、そんなに精神力強くないですよ。もしかしてって思ってずっと生きるの辛いです。…虎徹さん、…嘘です。いつまでも待ちます。ごめんなさい。虎徹さん、弱音吐きました…」
しまった、と思ったが、その時には既に言葉が口から出ていた。
重い後悔が胸をいっぱいに塞ぐ。
奥歯を噛み締めたが、堪えきれず、涙で視界が滲んだ。
「虎徹さん、虎徹さん……」
顔を擦り寄せて、目を閉じる。
彼の暖かい頬にほっとする。
彼は生きている。
こうして息をしている。
これ以上何を望むことがあるだろうか。
贅沢だ。
――いや、でも、声が聞きたい…。
名前を呼んでもらいたい。
なんでもいい、何気ない会話がしたい。
目を開けて、間近に虎徹を見る。
おずおずと唇を寄せて、触れるか触れないか、ほんの少し一瞬だけ、口付けをする。
柔らかく、ちょっとだけかさついた感触がする。
触れたらもっと感情が溢れてしまうのに…でも、触れないではいられない。
「虎徹さん、ごめんなさい…。貴方が僕にしてくれた事棚に上げて、貴方を責めてしまいました。ごめんなさい。…僕はずっとずっと待ちます。貴方が目覚めるまで。…もし、目覚めなくても…待ちます…。愛してます。貴方がもし目覚めなくて、これ以上病院にいられなくなっても僕が引き取りますからね。一緒に暮らしましょうね。毎日散歩に行きましょう。楓ちゃんもいますよ。寂しくないですよ。それから…、貴方と一緒に眠ります。毎日貴方を腕の中に抱いて。きっと幸せですよね?」
大丈夫。
自分は耐えられる。
彼さえいれば。
生きてさえいれば。
そうだろう、バーナビーブルックスJr.。
指を伸ばして彼の頬を撫でる。
暖かい。
――大丈夫だ。
大丈夫大丈夫。
何度も何度も自分にそう言い聞かせる。
「虎徹さん…大好きです。貴方が生きていてくれて嬉しい。貴方が、僕と出会ってくれて嬉しい。貴方と…出会えて僕は幸せでした…」
それは虎徹に言うと言うより、殆ど自分に対して言った言葉だった。
囁いて、瞼をなぞる。
睫に指先で触れて、眼球を指の腹で撫でる。
瞼に軽く唇を寄せる。
…胸が詰まる。
やっぱり、胸が痛い。
大丈夫だと思ったのに、やはり、辛い。
心の中が千々に乱れる。
「虎徹さん……虎徹さん、虎徹さん……」
これ以上話しかけるのは苦しかった。
言葉が思い浮かばない。
名前を呼ぶぐらいしかできなくなって、バーナビーは壊れた音響機器のように彼の名前をリピートした。
幸せなのは事実なのに、でも辛い。
辛いのも事実で、苦しくて、切ない。
…声が聞きたい。
いや、そんな事望んではいけない。
望めば自分が苦しくなるだけだ。
でも……。
「虎徹さん、…ねぇ、僕の名前、呼んでください…ダメですか?……」
つい、心の奥底で押し殺していた本音を言ってしまって、バーナビーは後悔した。
表に出してはいけない感情なのに。
考えてはいけないのに。
「しゃべってくださいよ、虎徹さんっ、ねぇ虎徹さん……、やっぱり、ダメですか?…虎徹さん…」
ダメだ。
これ以上彼の傍に居ると自分が制御できなくなる。
必死の思いで堪えて、バーナビーは立ち上がった。
嗚咽を噛み殺しながら、ベッドを離れて窓に凭れる。
目を閉じて深呼吸をし、感情を抑える。
夕暮れで、オレンジ色の光が、うすくカーテン越しに入ってくる。
閉じた瞼を赤く照らすその光は柔らかい。
暫くすると、漸く気持ちが落ち着いてきた。
深く息を吐いて、目を開ける。
夕方の薄い光が、ベッドまで差していた。虎徹にあたっていないか、心配になってベッドを見る。
夕暮れの金色の、暖かな光がベッドを薄淡いオレンジ色に染めている。
そして、それと同じ金色の瞳が、小さな太陽のように、煌めいていた。
「虎徹、さん……?」
虎徹が、目を開けていた。
金色に深く揺れる瞳が、バーナビーを見つめてくる。
真黒の中心を覆うように金色の虹彩が光り、白目との境界が銀色の輪となっている。
「…………バ、ニ…ちゃ、ん…?」
掠れた殆ど発声されない声。
彼は3年の間、一度も声帯を使わなかったのだ。
声が出なくて当然だ。
でもバーナビーには聞こえた。
唇が動き、微かな声が。
息だけの発声が。
涙で汚れた目尻をごしごしと拭く。
こんな姿、彼に見せられない。
狼狽する。
慌てているからか、無闇と無駄な動作をしてしまう。
金色の目が見ている。
暖かい目が。
3年の間焦がれた瞳が。



「おはようございます、虎徹さん。よく眠れましたか?」
できるだけ平静を装ったけれど、でもやはり声は震えてしまった。
でも、いい。
彼にはきっと何もかも気付かれてしまうだろうから。
気付かれても、いい。
なんでもいい。こうして彼が目覚めてくれたのだから。
でも次に何を言ったらいいか分からなかった。
何か、何かしゃべらなければ。
何を言ったらいいだろう、何も浮かんでこない…。
「虎徹さん、僕、炒飯作ってきましょうか。お腹減ったでしょう?」
結局口から出た言葉は、そんな陳腐なものだった。
虎徹がバーナビーを見上げて、ふっと瞳を細めた。
まだよく笑えないようだけど、それでも全然構わなかった。
ゆっくりと震える手が伸ばされる。
その手に引き寄せられるように近付いてバーナビーは虎徹の手を取った。
頬に当てる。
「……ご、め、ん…な…」
掠れた吐息だけの声。
でも虎徹の声だった。
耳から脳へ一気に伝わって脳全体を蕩かしてくる。




ふと気付くと、虎徹の指が自分の頬を流れる涙を掬って、宥めるように撫でてくれていた。
それはとても暖かく…………そして優しかった。



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