◆ヒーローが出向してきました!--食堂篇--◆ 3
次の日朝9時半。
その頃だと、食堂にはまだ誰もいない。
食堂の社員も出勤していない。
ここは朝9時50分出勤だ。
厨房で待っていると、今期アポロンメディア社一押しの注目株であるヒーローの片割れがやって来た。
「おはようございまーす…」
予想に反しておどおどした声だ。
私は意外に思った。
もっとこう、うまく言えないが、どっしりと落ち着いた、力強い声を予想していたからだ。
声と共に、ぴょこ、という感じで顔が覗いてきた。
ドアから顔だけ覗かせてきた。
その顔を私はまじまじと見つめた。
…普通の青年だ。
普通すぎる。
ヒーローとはとても思えない。
年は確か昨日のメールでは37歳とあったが、とてもその年には見えない。
一瞬20代の新入社員が来たのか、と思ってしまったほどだ。
同じ会社内だからだろうか、いつも社外でカメラに映る時に装着している黒いアイパッチをつけていないので、一層普通の青年に見える。
白と黒のハンティング帽を被り、そこからやや長めの黒髪がはみ出している。
私を見つめてくる瞳は、くるりとした印象の人懐っこそうな茶色の目だ。
目尻が垂れている所が余計にそう感じる要因だろう。
私と目が合うと、戸惑ったような、困ったような様子で笑い掛けてきた。
やや厚めの唇をちょっと尖らせて、どうも、というように目で挨拶してくる。
服装は、普通の会社員とは一風違う。
ここアポロンメディア社は芸能人等も多く出入りするので、自由人の服装はよく見ているが、彼はそういう芸能人たちともまた一線を画していて、どこか学生のようだった。
堅いスーツではなく、緑を基調としたシャツとベスト。それが細身の身体に良く似合っている。
予想よりもずっと細いすらりとした姿に、私は内心驚いた。
もっと筋肉隆々の逞しい男性を予想していたからだ。
ぴったりしたスラックスも、彼のスタイルの良さを強調している。
脳裏にヒーローTV中継時のヒーロースーツを着用したワイルドタイガーを思い浮かべてみる。
今私の目の前に立っている彼がそのワイルドタイガーである、とは俄かには信じられなかった。
ヒーロースーツを着たワイルドタイガーは、超人的な身体能力を有し、人間とは思えない動きで犯罪者を追う。
この青年にそんな事が本当にできるのか?
オフィスを覗きこんで私と目が合った彼は、恐る恐る中に入ってきた。被っていた帽子を脱いで、ぺこりと頭を下げる。
「あのー、ヒーロー事業部から出向してきました、鏑木虎徹です。えっと…なんでもしますんで、ご指導よろしくお願いします…」
そう言って頭を下げ、上目使いに私を窺ってくる。
その仕草は、とてもアポロンメディア社の看板ヒーローとは思えなかった。
どこかおどおどとした心細げな様子が、ちょうどペットショップで売られている子犬のようだ。私は思わず眼を細めた。
想像していたようなプライドの高い尊大な男では無いので、その点はほっとする。
「やぁ、初めまして、来てくれて嬉しいよ。ロイズ氏から話は聞いているからね。今日から早速働いてもらうけど、大丈夫かな?」
「はい、そりゃぁもうっ!あー、その、なんでもしますから、いろいろ教えていただけるとありがたいです」
私の言葉に不安そうな表情がぱっと明るくなった。
「じゃあ、まず着替えだな…。こっちに来てくれる?」
「はい」
厨房と付属したオフィスの一角に、ロッカールームがある。
空いている一つを示し、その中に用意しておいた新しい制服を着るように指示する。
制服は白衣とエプロンを足したようなもので、一言で言うと、袖付きの白いエプロンだ。
一応サイズは複数用意しておいたが、タイガーはその中から標準サイズを選んだ。
ベストを脱ぎネクタイを外し、代わりに制服を着る。
「髪を縛ってもらって良いかな?」
「あ、はい…」
食品を扱う部署なので、髪はできるだけまとめてもらうようにしている。
専用の髪ゴムを渡すと彼はそれで長めの黒髪を項で一つに縛った。
そうすると、ネクタイが無いのと相俟って本当に若く見える。学生のバイト、と言っても通用するぐらいだ。
とても、『ワイルドタイガー』には見えない。
私は彼の頭に軽くスプレーを掛けた。
髪が落ちないように特殊なものだ。
「じゃあ、仕事の説明もかねて少し話そうか?」
そう言って私は彼にソファを勧め、オフィスの一角にある給湯室でコーヒーを作って彼に差し出した。
ソファにちょこん、という感じで座って縮こまり、恐縮してコーヒーを受け取る彼は、先程も思ったが、とても我が社の看板ヒーローには見えない。
そこもまたギャップがあって私は意外に思うと共に、彼に対して親近感が湧いてきた。
取り敢えず、尊大な所は微塵もない。
仕事を何でもしてくれそうである。
コーヒーを一口飲んで私は彼をじっと見つめた。
「タイガー君、どうして食堂の仕事をしようと思ったんだい?はっきり言ってヒーローの君にふさわしい仕事とは思えないよ?」
そう問い掛けると、彼はコーヒーを一口飲んでカップをソーサーに置き、それから視線を左右に僅かに揺らして落ち着かなく瞬きをしてから私を見上げてきた。
「あー、いや、その、俺、会社移ったばっかりなんですけど、今まで前の会社でヒーローの仕事以外何もしてこなくて、何のスキルも無いんですよ。それで困ったなぁと思って。この会社すっげぇでかいし、今までみたいに何にもしないでごろごろしてるわけにもいかねーし。ロイズさん、あ、うちの上司なんですけど、ロイズさんがかなり厳しいんですよね。とにかく給料分は働いてもらわなくちゃって事でいろいろ探してくれたみたいなんです。今の俺ですぐ働ける職種って事で。…俺もできるならなんでもしたいんです。なんかこう、会社に来て何もしないってのもすごく居心地悪いじゃないっすか…」
「あ、そうだね」
「あ、でも俺ここの食堂好きなんです、すごく美味いっすよね!」
たまに言葉がぞんざいになるところがやはりヒーローという特殊な業務をしている彼らしいが、しかしそういう言葉遣いもなかなかに可愛い感じがする。
言葉を選びつつも、彼の本心が垣間見える返事を聞いていると、私は思わず頬が緩んだ。
「食べた事あるの?」
「はい、あー、基本的に昼に会社にいるときはここに食いにきてます。すっげぇいろんな種類があるし、全部美味いし、さすがでかい会社は違うなってびっくりしました。まだ全種類食べ切れてないんですけどね」
珈琲を飲んでにこにことしてくる。気安い雰囲気で悪くない。
「あ、勿論仕事内容はロイズさんから聞いてるから大丈夫です。ええと、食堂の掃除をしたり、重い物を運んだりするんですよね。俺、体力は自信あるんで、なんでも言ってください。どんな重い物でも運びますよ。頑張ります」
「そうかい?」
「はい」
「じゃあまず、向こうの専用エレベータからね、下に降りて、倉庫に積んである今日の食材を運んできてくれないかな?コンテナの中に入っている段ボール箱を台車に移してそれで持ってきて欲しいんだ。下に行けば倉庫の係員が指示してくれるから」
「はい、分かりました」
嬉しそうに言って、タイガーが立ち上がる。
うきうきという感じで彼が専用エレベータから下に降りるのを、私は珈琲を飲みながら見送った。
そのまま眺めていると下で早速手順を聞いてきたのだろう、大きな台車に山のように段ボール箱を積んでタイガーが上がってきた。
箱の一つ一つに記載されている置き場所を確認し、段ボール箱を持ってその指定された場所に置いていく。
昨日私はあれらの段ボール箱をかなり苦労して持ち運んだ。
一つ一つはそんな重さでもないのだが、それを続けているうちに腰が痺れ、手足がだるくなり、そして昨日は家に帰って殆ど寝たきりになったぐらいだった。
そこはさすがヒーローと言うべきか、彼は軽々と段ボールを担いではひょい、という感じで降ろしている。
私が珈琲を飲み終えてオフィスのデスクで作業に戻った頃に、社員が出社してきた。
「おはようございまーす。あ、もしかしてもう来てるのね?」
ルーシーが出社早々私にわくわくした口調で言ってきた。
「おはようございます」
副主任のチャンも出社してくる。その後調理師達や契約社員、それからバイトもぞくぞくとやってきた。
みんなが私の周りに集まり、それから厨房の方で段ボール箱を運んでいるタイガーを観察する。
「なんか、イメージ違うわね」
ルーシーが頬に手を当てて頭を傾げた。
「そうだろ?私もびっくりしたんだよ」
私がそれに応じる。
「もっといかにもヒーローって感じの人かと思ったわ。あれだと学生のバイトみたいねぇ。すごく若く見えるけど」
「年は37って昨日のメールにはあったよ」
「ええ?…全然見えないわね、20代って感じよ」
遠巻きにして見ていると、段ボールを全部運んだタイガーがこちらに気付いたようだった。
慌てて駆け寄ってきて、ぺこっと頭を下げて挨拶をする。
「あ、すんません、遅くなりました。初めまして、えっと、ヒーロー事業部から来ました、鏑木です。今日からお世話になります。その、なんでも頑張りますので、ご指導よろしくお願いします」
頭を下げたままそう言って、それから十何人いる食堂課の職員を恐る恐る窺ってくる。
「随分腰低いのね、意外だわ」
ルーシーが目をぱちぱちさせた。
調理師や契約社員たちがわらわらと彼に寄っていく。
「君がワイルドタイガー?」
「あ、はい。えー、よろしくお願いします」
「へぇ、…そうなんだ。…段ボール、すごいやすやすと運んでたね、身体痛くない?」
「はい、このぐらいは全然大丈夫っす。重い物は俺が運びますからなんでも言ってください」
人懐っこい琥珀の眼を細め、彼がにっこりとする。
「なんか、いい感じの人じゃない?」
ルーシーが彼に釣られたように笑顔を見せた。
「そうなんだよな、すぐ打ち解けられる感じだしね。意外だね。テレビで見ている分には全然分からないけどね、素顔があんな人だったとはね」
「ほんとほんと。全然イメージ違うわね?」
などとがやがや話している内に時間が経った。
「さ、みんな今日もよろしく頼むよ」
私がそう言うと、調理師達が表情を引き締め、各自持ち場に戻って調理に取りかかる。
昨日、ある程度仕込みはしてあるから、これからの調理は新鮮なものや煮込みの最後の調整ぐらいだが、それでも料理の品数が多いので忙しくなる。
「タイガー君。君、食堂の方の掃除してくれる?掃除の仕方はラジャブ君に聞いてね?」
ラジャブとは、タイガーと同じ社内出向組の青年だ。
タイガーが来た事で先輩の立場になった彼には、厨房の掃除をメインにしてもらうことにする。
「あ、はい、分かりました」
タイガーがそう言って、ラジャブに頭を下げて一つ一つ仕事を丁寧に聞いている。
ラジャブは20代半ばでタイガーよりはずっと若いはずだが、タイガーはそういう年齢差等は気にせず、先輩を立ててきちんと礼儀正しく振る舞える人間のようだ。
考えてみればタイガーがコンビを組んでいるバーナビーは、24歳だったはずだ。
バーナビーについては頻繁にインタビューを受けているからよく見知っているが、なかなかにプライドの高そうな、言い換えれば気難しい所のありそうな人間に見えた。
その彼とうまくやっているんだから、心配は要らないか。
白い割烹着を着た彼が、食堂の方に行く。
食堂は11時半から開く。
アポロンメディア社は12時から1時の間が基本的に昼休みになっているが、各社員はフレックス勤務のため朝早く来て早めに昼食をする社員もいれば、遅めに来る社員もいる。
11時半以降は食堂は基本的にずっと開いている。
勿論混むのは昼の12時から午後1時の間だ。
それ以外にもアポロンメディア社には、見学や取材や商談に訪れた外部の人間が多数食堂にやってくる。
だから、アポロンメディア社の中で一番、外部の人間が出入りする所が食堂と言っても過言ではない。
それだけに食堂でどんな人間に会ったか、など軽々しく公言してしまうような者は採用できないという訳だ。
食堂が開く約30分前から、本格的に食堂の掃除が始まる。
まずは広大な食堂の床だ。床に丁寧にモップを掛ける。モップは毎日取り替えないと一日で汚れてしまう。
それから何十とあるテーブルを一つ一つ清潔なタオルで全部拭いていく。更にトイレの掃除もして完了だ。
その後人が来るようになったら随時モップやタオルで汚れを拭き取る。
その間、特に1時ぐらいまでの混雑する時間帯は、掃除係はずっとテーブルを拭いたりなんだり、仕事が途切れない。
簡単そうに見えてその実、周囲の客に迷惑にならないように、しかし客が不快にならないように的確に掃除をして食堂を清潔に保たなければならないので、かなり気を遣う難しい仕事でもある。
私たちも厨房でその日の昼食に出す様々な食事を作っていた。
食堂の二カ所にバイキングのコーナーが設置される。そこに大きな皿や鍋に入った総菜を各種並べる。
一通り並べ終わると11時半になる。
食堂を開くと、三々五々社員達がやってきた。バイキングの総菜を皿に取り、テーブルに座って食事を摂り始める。
タイガーは、と見ると、彼は客の座った所からは少し離れた所を重点的に掃除していた。
モップは端の掃除用具入れの所に置いて、何枚かタオルを持って、それに腰から下げた消毒用アルコールのスプレーを掛けている。
そのタオルでテーブルや椅子の汚れを落としているようだった。
遠くから見ても、彼がこのアポロンメディア社を代表するヒーロー、タイガー&バーナビーのタイガーであると分かるものは誰一人いないようだった。
元々彼は社内でも殆ど顔が知られていない上に、アイパッチの印象が強い。
それが無い上に髪型も変わっているとなれば、まず気付かれないだろう。
それになんと言っても、ヒーローがあんなにヒーローらしからぬ、はっきり言って地味な学生バイトのように見える青年だとは誰も思うまい。
ヒーロー、と言えば、誰もが思い浮かべるのがタイガー&バーナビーの片割れ、バーナビー・ブルックスJr.だ。
もしバーナビーなら、タイガーの代わりに掃除をしていたとしても一目で分かるようなオーラを放っているはずだ。
バーナビーが社内を歩いているところを見た事があるが、後ろ姿からもバーナビーと一目で分かる、きらきらとした派手な金髪に堂々とした物腰、それだけで圧倒されたものだ。
あの彼とコンビを組んでいるのだから結構大変なんだろうな、などと思いながら、私も次々と総菜を作っていった。