◆ヒーローが出向してきました!--食堂篇後日談--◆ 1
「くそ、またあいつだ…!」
午後の2時。
食堂は12時から午後1時までの、一日で一番忙しい時間を過ぎ、遅い昼食を摂りに来るアポロンメディア社の社員や、お茶を兼ねてゆっくりと歓談をしにくる外部の一般客などでまったりと賑わっていた。
今日は一般見学の団体客が来ていないので、この時間の食堂にしては比較的空いている。
空いている間に、昼食時間に汚れた食堂の掃除や、昼食時間には2カ所に分けて置いておいたバイキングの長いテーブルを撤去して、午後3時までは一カ所に総菜を集めてこじんまりとしたバイキングスペースを設営したり、そういう作業をする。
午後3時でバイキングが終了したあとは5時まで、食堂はカフェに切り替わる。
コーヒーや紅茶、それに軽めのサンドウィッチ、ケーキ、そういうものを提供する時間となる。
そのあたりになると、料理人たちは厨房で明日の昼食の用意を始め、厨房の中は食材の煮える湯気や食欲をそそる匂いが漂う。
私はそういう慌ただしい食堂の一日が、好きだった。
今は昼食の後の一休みの時間で、私たちは交替で遅い昼食を摂っていた。
副主任のチャンは食堂の方に行って、バイキングの総菜の鍋を持ってきてはまとめて温め直して運ぶという仕事をしていた。
それを終えて帰ってきたのだが、厨房に戻ってきた時に、いつも冷静沈着なチャンが額に青筋を立てて怒っていたのだった。
「またあいつですよ、主任。全く、文句を言うためにうちの会社に来てんですかね。やつが取引先の社長の息子じゃなかったら、ぶん殴ってやりたいです」
「いやいや、それは駄目だよ、チャン。私たちはあくまでお客様を歓待する立場なんだからね。どんな客でも心を込めておもてなしをして、アポロンメディア社やこの食堂を好きになってもらえるように努力しなくちゃね」
「主任、またそういう正論言って。本当はそうは思っていないでしょ、あなたも」
「えっ…いやぁ、ばれたか。まぁね、実は私もむかっとはしてるんだが…」
チャンに呆れたように言われて、私は眉尻を下げて苦笑した。
チャンが怒っている相手は、アポロンメディア社の創業当時から取引のある、シュテルンビルト市内では老舗の会社の役員だった。
学術書などを出版している会社で、現在の社長は既に70代近いが、その社長の人脈が広く、我が社でもその伝手を頼って高名な学者や研究家などを取材に呼ぶことができるのだ。
勿論我が社も、出版物を定期的に発注したりして、長年良好な関係を続けていたのだが、その温厚な社長の息子が、所謂ドラ息子で、どうしようもない二代目だった。
なぜあの社長からこんな息子が、と言われるほどだらしがなく、やたら他人に対して自己顕示欲が強く、威張りくさっている。
年の頃は30代後半ぐらいだろうか。チャンとほぼ同じ年代だ。
だからこそチャンは、そのドラ息子が鼻につくのだろう。
特にこのドラ息子の許せない点は、食堂に来てうちのヒーローの悪口を言うことだった。
それには私も我慢がならなかった。
自分たちがバカにされる、あるいは食堂の料理の味が悪いとか、クレームを付けられる、そういうのならいくらでも構わない。
どんな理不尽なことを言われても、客の意見として客観的に拝聴し、冷製に対処できる自信はある。
けれど、うちのヒーローについて悪口を言われるのは駄目だった。
瞬間的に感情がわっと吹き出して、我慢できなくなる。
だから、チャンが怒っているからと言って、そのチャンをたしなめる事なんて、私には実はできないのだった。
私だって、いや、本当はあのドラ息子を殴りつけてやりたいのは、私なのだから。
アポロンメディア社のヒーロー、タイガー&バーナビーの一人であるワイルドタイガーが私たちの勤める食堂に社内出向してきたのは、今から1年半ほど前だった。
当時ワイルドタイガーは、トップマグ社からアポロンメディア社に移籍して、タイガー&バーナビーとして新しくコンビを組んだばかりだった。
私たちは彼がどういう人物なのか知らなかったし、彼の事は、ヒーローTVで見るワイルドタイガーのイメージで捉えていた。
しかし、食堂に働きにやってきた彼は、そういう私たちの先入観を全く覆した。
彼はひたむきで何事にも一生懸命で人懐っこく、はっきり言って可愛らしかった。
成人男性、しかもチャンとほぼ同じ年代の人間を可愛いと評するのは、常識的に考えれば可笑しい事だが、でも彼は本当に『可愛い』、という表現がぴったりだったのだ。
一つ一つの仕草が見ていて微笑ましく、一生懸命に働く様子を見ると、そんなに頑張らなくて良いから、と言いたくなる。
いつもにこにこ笑っていて、彼が来るとそれまで喧嘩をしたり気まずい雰囲気だった社員たちが和やかになって、皆彼の笑顔に引き込まれてしまう。
そして彼は、人懐っこく可愛いだけではなかった。
忍耐強く食堂の仕事を黙々とこなし、横柄な客にも丁寧に接し、そして何よりもヒーローとして危険を顧みずに人命を救助する人間だった。
彼が窓の外に出てしまった幼児を救出した時、――その時の彼は本当に『ヒーロー』で、私たちは彼に惜しみない賞賛の拍手を送ったものだった。
これがうちのアポロンメディア社のヒーローなんだ、と思うと誇らしくて嬉しくなって、自分の事のようにわくわくした。
あんな浮き浮きした躍るような気持ちになった事は、大人になってからは無かったと思う。
まるで自分が少年の頃に抱いていた、わくわくとした冒険に出掛けるような気持ち、それを取り戻したようにも思った。
その後タイガーは食堂への出向は終了しヒーロー事業部へと帰っていったが、私たちは交流を続けた。
交流は、たまに私たちがヒーロー事業部へ遊びに行くという形で続けていた。
タイガーはヒーロー事業部へ戻ってからますます活躍した。
私たちは、彼と、相棒であるバーナビーの活躍を欠かさずヒーローTVで見ていた。
タイガーがジェイクとの一騎打ちで重傷を負った時には、食堂のみんなも顔色を無くした。
私たちはそのニュースを夜遅く各自の自宅で見たのだが、次の日出勤してきた社員達はみなその日の仕事に差し障りがあるほどに、タイガーを心配していたものだった。
タイガーが入院していた病院にも、数人ずつお見舞いに行った。
さすがヒーローと言うべきか、彼はすぐに退院して、食堂にも遊びに来てくれたし、私たちはその後もヒーロー事業部へ遊びに行った。
怪我の治った彼は、マスコミへの露出も増え、ヒーローとしての活動も支障なく、順位もあがり、順調な仕事ぶりだった。
そんな彼を見ていて、私はとても元気づけられた。
しかしその彼が一年前に突如引退を発表し、アポロンメディア社を去っていった。
その時は彼の引退という事もショックだったが、それよりも、このアポロンメディア社のCEOだったアルバート・マーベリックが凶悪な犯罪者であった、というのが更にショックだった。
食堂のみならずアポロンメディア社全員がショックを受けていた時期だったので、正直私もタイガーに会う暇もなく、さよならを言う事もできなかった。
食堂課も他の部署も、アポロンメディア社の何もかもが混乱していた。
その後新しいCEOが司法局から天下りの形で就任し、実直で温厚なその人柄でアポロンメディア社を立て直し、社員たちも落ち着きを取り戻すまで数ヶ月かかった。
食堂も一時はバイキングの種類をほぼ半分に減らしていたが、会社が軌道に乗ってくるに従って元に戻り、今では元の種類よりも増やして運営している。
そして嬉しいことに、先日、ワイルドタイガーが再びヒーローに復帰したのだ。
これも私たちは、ヒーローTVの中継で彼が二部リーグとして犯人を追いかけているのを見て知った。
ヒーローTVは中継されている間、強制的にアポロンメディア社の建物内に流れるようになっている。
食堂にも大きなスクリーンがあり、そこにぱっと自動的に映し出されるようになっている。
私たちはいつそれを、見るとも無しに見ているのだが、ルーシーがその時、
「あ、タイガーよ!」
と大声を上げたのだ。
はっとして私もスクリーンを見た。
懐かしい、明るい緑色の蛍光色を発するヒーロースーツを着たタイガーが走っていた。
彼がネクスト能力の減退で引退をしたという事は、知っていた。
元々5分だったハンドレッドパワーの発動時間が今は1分という事実を、堂々と彼は表明していた。
その姿をスクリーンで見て、私たちは反対に勇気づけられた。
本当に彼はいつも私たちをびっくりさせる。
どんな時でも彼は希望を失わない。
あきらめず、めげず、前向きに頑張っている。
頑張っているからといってそれを他人に押しつけたりせず、いつもにこにことしながら精一杯人のために尽くしている。
やっぱりタイガーは最高だ。
我がアポロンメディア社の誇るヒーローだ。
二部に復帰したタイガーは、タイガーと同時に引退してヒーローを廃業していたバーナビーと再びコンビを組み、その後一部に復帰してきた。
私たちはタイガーに会いたいと思った。
が、まだタイガーが一部に復帰して数日だ。彼も忙しくてそれどころではないだろう。
もうちょっと時間が経って落ち着いた頃合いを見て、ヒーロー事業部に遊びに行ってみようか、などと厨房でルーシーやチャンと話をしたのが昨日の事だった。
今、食堂でしきりにヒーローの悪口を言っているドラ息子は、以前からも出版社社長の代理としてたまにやってきては、食堂でくだを巻いていた。
老舗の出版社の社長も、どうやらそのドラ息子の扱いにはほとほと困り果てているらしい。
お飾り的な役職に就けてなんとか誤魔化しているようだが、それにしても一応その社長の代理でやってきたりするのでやたら威張って始末に負えない。
ドラ息子はいつも2時過ぎの、食堂が比較的空いている時間にやってくる。
昼頃に会社にやってきて、どうでもいいような伝達事項を偉そうに伝えた後に、この食堂にやってくるようだ。
やってくるとここで珈琲を飲んでケーキを食べる。甘い物が好きなようだ。
同行している小判鮫のような部下を相手にしきりに高説を垂れている。
きっと周りにいるアポロンメディア社の社員に聞かせたいのだろう。
こんなに良いことを言ってやっているんだ、お前ら聞け、という態度だ。
本当に腹に据えかねる。
特に、ヤツはヒーローが嫌いらしかった。
以前、タイガーもバーナビーもヒーローをしていなかった時期にはそれほどは言っていなかったが、それでも他のヒーローの悪口まで言っていた。
そこにタイガーが二部リーグに復帰だ。
彼はその後二度ほどこの食堂にやってきているが、タイガーが戻ってきてからは口角泡を飛ばしてタイガーの悪口を言うようになった。
よくよく聞いてみると、ドラ息子自身がヒーローになりたかったらしい。
というのは、食堂でヤツの高説を盗み聞きしていたチャンの言葉だが、どうやらそのドラ息子はネクストらしいのだ。、
能力的には全くたいした事が無く、ちょっと力が出るぐらいだが。
その力もタイガーやバーナビーがハンドレッド、百倍パワーであるとすると、そのドラ息子は5倍ぐらいらしいのだが、それでもまぁネクストには変わりない。
親の会社に入社してぶらぶらしていたヤツは、30過ぎてからヒーローアカデミーに親のコネで無理矢理入学したらしい。
が、授業についていけず退学し、会社に戻ってきて現在に至っているようだ。
そんな風に自分が挫折しているからだろうか、成功しているヒーローがますます妬ましいらしい。
前々からスカイハイや折紙サイクロンの悪口なども言っていたが、ここに来てワイルドタイガーに矛先が向いた。
特に、タイガーの能力が減退して現在ハンドレッドパワ−が1分しか発揮できないのにもかかわらずヒーローをしている、という事実が、彼のささくれたプライドを微妙に刺激しているらしい。
そこでドラ息子としては憤慨する訳である。
曰く。
あんな出来損ないネクストなんかがヒーローやってたんじゃ、このシュテルンビルトも終わりだ。
ヒーローは慈善事業じゃないんだ、能力の減退した年寄りがぼけぼけ務められるようなもんじゃない。
全く、1分しか能力が保たないというのに平気でヒーローやってるなんざ、恥を知らないにも程がある。
……などと言っている始末である。
これではチャンが怒るのも無理はない。
勿論私だって本当に腹が立っている。
こんな、人間の腐ったようなやつに、ワイルドタイガーの事を言われたくない。
ほんの少しでも言われたくない。
タイガーは一分だろうがなんだろうが、心の底から、根っからヒーローなんだ。
彼がどんなに他人に優しく思いやりがあって、人の役に立つことが好きで、自分の危険も顧みずに頑張る人物か、私はよく知っている。
だから、こんなバカなヤツがいくらタイガーの悪口を言おうと、そんなの鼻にも引っかけずにせせら笑っていればいいのだろうが、でもそこは私もただの人間。
やはり感情的にむかむかしてどうしようもない。
他の社員たちも皆同じようだった。
そいつが来ると表情が堅くなってあからさまにむすっとした顔になる者も居る。
けっ、と吐き捨てるように一言言って、そいつが帰ったあとの椅子を蹴飛ばしたり、二度と来んな、と言って、荒々しくそいつが食べた食器を洗っていたりもする。
そういうのを見ると、人間の格の差、というのを私は考えてしまうのだった。
「さ、しょうがないしょうがない、明日の仕込みをしよう」
チャンの肩をぽんと叩いて、私はにっこり笑った。
「そうですね…やつ、帰りましたよ。二度と来ないで欲しいですね…」
「ま、そういうわけにも行かないしねぇ。ここが会社勤めの辛い所さ。…でも、とりあえず、うちの社員じゃないって事だけが救いかな?あそこの出版社の社員はきっと大変だと思うよ」
「全くですね、いやぁ、本当、あんなやつが上にいて威張ってるとか最悪ですよ。うちはその点主任は腰が低くて人当たりがいいですからね?」
「おや、そんなに言われても何も出ないよ?」
チャンが珍しく私を褒めてきたので、私は照れくさくなって思わず苦笑した。
ドラ息子が出て行ったからか、食堂の雰囲気も元に戻り、社員達が和やかに遅めの昼食を摂ったり、あるいはコーヒーや紅茶を飲みながらサンドウィッチを食べたりしている。
そんな光景を眺めながら、私も明日の仕込みをしようと気を取り直して立ち上がった。