◆ヒーローが出向してきました!--社史編纂室篇--◆ 1
朝だ。
ぱりっとした上等なブランドスーツの上下に身を固め、スーツケースを小脇に抱えてやはり上等な革靴の音をかつかつと鳴らして、きびきびとした動作で人々が道を歩いて行く。
道路は塵一つ無く掃き清められている。
広い歩道の上は、美しく切り揃えられた街路樹。
その街路樹の葉が紅葉して、葉の向こうに見える秋の澄み切った青空に映えて、爽やかな朝の一日を演出している。
歩道の脇にはこれまた美しく植えられた、可憐な秋の花々。
ここは秋桜通りだから、白やピンクやエンジの可憐な花弁が咲き揃い、道を行く人々の目を楽しませるようになっている。
もっとも今この時間、この歩道を歩いている人は皆、ざっざっとテンポ良く歩いてそれぞれの勤務先へ足早に通り過ぎる者ばかりだ。
美しく可憐に咲いた秋桜も、残念ながら目に止めてはもらえない。
上下びしっとスーツに固めた男性も、あるいは高級ブランドもののパンツスーツやスカートに素晴らしいスタイルを包んだ女性達も、皆一様に前を向いて脇目もふらずに、会社の入っているビルに向かって歩いて行く。
そんなエリート達を横目で見ながら、俺は秋桜の咲き乱れる花壇の端に腰を掛け、朝方コンビニで買い求めたサンドウィッチと珈琲を行儀悪く食べていた。
やつらが向かう先に、俺の勤務する会社がある。
聳え立つ高層ビルの頂点には、会社の象徴ともなっているグリフィンの像。
シュテルンビルト一のメディア総合会社、アポロンメディア社だ。
この界隈でも一番格が上の会社で、社員は本社勤務のみでも数千人。
最寄りのモノレール駅から一気に人々が流れ、整然と歩く様は壮観だった。
(けっ……。ったく…毎日毎日良く行くよな…。なんだあの偉そうな態度はよぉ…)
老若男女、様々な人間が皆前を向いて歩いていく脇で心中悪態を吐くと、俺は珈琲の入った紙コップに刺したストローをちゅうと吸ってコップをぐしゃっと潰し、花壇の植え込みの中にそのゴミを投げ捨てた。
(さてしょうがねぇ、行くか…)
こんな所でくだを巻いている俺だが、さすがに遅刻するのはやばい。
社員ゲートを、自分の設定した出勤時刻よりも前に通らないと、1分刻みで容赦なく給料が引かれていく。
のろのろと立ち上がって尻をぱんぱんと叩く。
着ているのは、以前はぱりっとした高級スーツだったが、今ではクリーニングにも出していなければ汚れを取ってもいない、よれよれになったスーツだ。
そのスーツに、蹴っ飛ばしたりしてへこんだままになっているスーツケースを下げて、ぶらっと歩き出す。
他の奴らが一斉にゲートを通る時間にそこを通るのは惨めくさいから、人の少なくなる頃合いを見計らってこそこそと入る。
まるで不審者が通るみたいだと我ながら自分が嫌になる。
社員ゲートに常駐している警備員が挨拶をしてきたが、俺は、
「よっ」
と短く声を掛けるだけで、そそくさとゲートを後にした。
ゲートを通るとすぐに巨大なエスカレータと、奥にエレベータだ。
殆どの社員は、エスカレータでまず吹き抜けの部分を上がり、3階部分の広大なフロアに何基も設置されているメインエレベータに乗る。
しかし俺はあえてそこで1階の奥にある小さなエレベータを選んだ。
というのもエスカレーターなんかで他の社員と同じように上がっていたら、いつどこで元同僚と会うか分からないからだ。
こじんまりとしたエレベータがいくつかある内の一番端、きょろきょろ見回してやや離れた所に立ち、エレベータの扉が開いたのを見計らってさっと乗り込む。
よし、俺一人だ!と思ったのに、残念ながら、扉が締まるぎりぎりのタイミングで誰かが開のボタンを押しって走って入ってきた。
「あ、すいませーん、一緒に乗せてくださいっ」
(げっ、なんだ、ジャンじゃねぇか…)
――最悪だ。
ジャンははぁはぁと息を吐いて暫く下を向き息を整えていたが、落ち着くと顔を上げて自慢の金髪をさらりと流しながら俺を見てきた。
「あれ、ロベルト先輩じゃないですかぁ!いやぁ久しぶりですねぇ!」
ジャンの顔がにやっと笑う。
(くそっ!テメェの頭の中なんか分かってんだ。朝から俺に会って嬉しいんだろ?)
こんな所で自分の本心なんか気取られてたまるか。
そう思って俺はむかむかと腹が立ってどうしようもない自分をぐっと押さえ、できるだけ営業用のにこやかなスマイルを作ってやった。
「よぉ、ジャン、久し振りだなぁ。相変わらず忙しそうじゃねぇか?」
「えぇ、そうなんですよぅ、ロベルト先輩!何しろ今、うちの課で巨体プロジェクト立ち上げることになりましてねぇ、それでなんと、僕がそのプロジェクトの企画の一員に選ばれちゃったんです!えへへ、僕できるかなぁ?がんばらなくちゃ」
さらりとした金髪に、青い瞳。
まぁいわゆるハンサムだが、その端正な顔をぶっつぶしてやりたいぐらいに腹が立った。
ひくひくと思わず瞼が動いてしまて、ジャンがめざとくそれを見つけてにやにやしてきた。
「あー、ロベルト先輩がいてくれたらなぁ、きっともっとプロジェクトばんばん進んだと思うんですけど、ホント残念ですぅ!ところでロベルト先輩はお仕事の方、いかがですかぁ?」
「…あ、あぁ、まぁ、ぼちぼちかな。…なにしろ平和だからな」
「そうですかぁ?平和なのはいいですよねぇ、ホント。僕なんか毎日毎日午前様だし、ほら、そのせいで今日もちょっと遅刻しそうになっちゃったんですけどね?それにやっぱこういうプロジェクトだと敵も多いから、秘密厳守だし大変ですよぅ。あ、ロベルト先輩もこれ秘密にしておいてくださいねぇ?一応ちょっとした事でも部外者には秘密って事になってるんで。でもロベルト先輩は部外者ってわけでもないし、ちょっとだけお話しちゃいましたよぅ。あ、すいません、エレベータここで降りますんで、そんじゃ、また!ロベルト先輩もメディア調査部にたまには遊びにきてくださいよぅ?みんな待ってますよ?たまにロベルト先輩の話出るし?…じゃ!」
シュン、と音がしてエレベータが開き、ジャンが出て行く。
再びエレベータが締まると俺は腹立ちが我慢できなくて、スーツケースをエレベータの床に叩きつけた。
――ガシン!
派手な音がする。
またどこかへしゃげただろうか。
頑丈なので中身が零れるという事は無いが、表面はぼこぼこだ。
まぁ中身が零れた所でどうせたいしたものは入っていない。
筆記用具にメモ帳ぐらいだ。
それにしても今日は厄日か。
朝から最悪なヤツに会っちまった。
ジャン・スペンサー。
こいつは、俺が前、メディア調査部にいた時の部下だった。
2年前、俺はメディア調査部の中で一番の主力企画のメンバーだった。
メディア調査部は、アポロンメディア社の中でも特に主要な部門である。
という事はぶっちゃけて言えば、そこの部署の社員、課長あるいは部長になれば、まぁばりばりの出世コースって訳だ。
俺は当時の調査部の部長や課長に覚えもめでたく信頼されていて、その企画を成功させた暁には内々に課長に昇進する約束も取り付けていた。
が、ちょうどその時、俺を可愛がってくれた部長が突然失脚してしまったのだ。
表向きは体調不良という事で早期退職、子会社への出向という形でアポロンメディア社を去ったが、実際にはライバルである同期の別の部の部長との出世争いに負けて嵌められた、らしい。
実際そうなのだと思う。
何にしろ、そういう裏での駆け引きというやつが社内にはあって、そういうのにもある程度スマートに対処して危険は躱し、掛かってくる火の粉は払いのけねぇと出世できねぇという訳だ。
当時の部長は、それをするには正直すぎた。
その正直な所が俺は好きだったし、彼が去ったのはとても悲しいし悔しい。
けど結局の所、部長がこけるとその部長に目をかけられていた課長、俺、そして他にも数人、全員こけるってわけだ。
そんな訳で部長がいなくなってから数日後、新部長の赴任と共に部内の再編成って事で、前部長派だった奴らはみんな別部署に異動になっちまった。
勿論俺もだ。
俺が異動になったのは、社史編纂室だった。
新しく赴任した部長、コイツはその前の部長を陥れたヤツの派閥の一員だが、ソイツがにこにこと作り笑顔で、
「ロベルト君、君もこのメディア調査部で随分頑張ってきたし、大変だっただろう。この辺で少しゆっくりと別の所を体験して英気を養ってくれたまえ」
ぽんぽん、なんて肩を叩かれて渡された紙が、社史編纂室への異動を命ずっていう命令だった。
メディア調査部がアポロンメディア社の花形の部署とすると、社史編纂室は地下の地下、地の果ての底辺部署だ。
本社ビルの中でだって、差別がある。
メディア調査部は最上階に近い110階にあるのに対し、社史編纂室は資料の保管する閉架書庫が地下にあるという表向きの理由もあってか、地下1階だ。
つまり地の底だ。
呆然としたまま俺は、メディア調査部の俺の机の荷物を段ボールに詰め、それを持ってエレベータでシュテルンメダイユ地区を見はるかす素晴らしい眺望の部屋から、地下1階まで降りる羽目となった。
そう、社史編纂室は地下だ。
今俺は、ジャンのヤツなんかが乗ってきちまったから思わず一緒に上に昇っちまったが、俺の居場所はこんな上から人を見下ろすような場所じゃねぇ。
地下の地下、人を下から見上げる場所だ。
ジャンなんて、俺がメディア調査部にいる時は、新入社員研修の異動が終わって配置されたまぁ言ってみればぺーぺーで全く仕事が出来なくて、毎日怒鳴られていたばかりのどうしようもないヤツだったのに。
そんなやつに馬鹿にされて、俺は誤魔化し笑いでへらへら笑っている。
そりゃ社会人だし、働くっつう事はそういう事だとは思うが、でも悔しい。
せめて異動先がメディア調査部程では無いにしろ働きがいのある所だったら少しは気が紛れるだろうが、『社史編纂室』だ。
俯いて俺は、地下へのボタンを押した。