◆ヒーローが出向してきました!--社史編纂室篇--◆ 6
それから後も鏑木は、毎日きちんと真面目にこの社史編纂室にやってきた。
ブラインドタッチはすっかり習得したようで、最初は間違えないように注意深く打っていたせいで遅かったタイピングの速度もだんだんと速くなってきた。
社内文書についてもあらかた形式や作り方を覚えたようだ。俺もいくつか教えてやった。
やつは素直で腰が低く何事にも一生懸命だ。
それに何と言っても俺を尊敬しているという態度が分かるので、俺は気持ちが良かった。
人間誰でも他人から尊敬されたり親愛の情を向けられれば気持ち良くなるもんだし、その相手が気に入るもんだよな。
そういうわけで俺は、鏑木の事がすっかりお気に入りになっていた。
時には『夜一杯やらねぇか』と言って飲みに誘う事もあった。
『帰りに社史編纂室に寄れよ』と言うと、終業時刻後に編纂室にやってくる。
そこから一緒に、俺の行きつけのバーに行く。
行きつけっつっても俺がメディア調査部にいた時に行っていた、会員制の高いバーじゃねぇ。
そんな所に行ったら前の仲間に出会っちまって最悪だ。
そうじゃなくて、社史編纂室に異動になってから見つけたこじんまりとした所だった。
高い酒を勧められるような事もなく、無愛想なマスターが適当につまみを見繕ってくれるし、酒も俺の好みのヤツを置いてくれる。
無愛想な所が気に入ってよく通っていた所だが、鏑木もそこが気に入ったらしい。
「落ち着くところですね?」
そう言って鏑木は焼酎の水割りを飲んでいる。
この店に焼酎なんていうものがあるのは初めて知ったが、マスターが結構機嫌良く出してきた所を見ると、意外に人気のある酒らしい。
酒が入ると口が軽くなって、俺はつい鏑木に、アポロンメディア社での自分の境遇を愚痴混じりに話したりもした。
自分がメディア調査部で花形だったのに、上がこけたせいで社史編纂室に左遷されたこと。
こんなくそつまんねぇ所で終わるとか思うと、全くやる気が無くなっちまったこと。
最初はスキルアップと思って頑張っていたがそのうち気力が無くなったことなど、なぜか自分の弱い部分まで話しちまった。
何故かと言うと、鏑木が俺のどんな愚痴でも真剣に聞いてくれて、『それは大変だったんですね』とか、『そりゃひどいな』とか共感してくれるからだ。
「俺だったらとても我慢できないっすよ」
などと、今の境遇に甘んじている俺を持ち上げてくれたりもする。
唯一意見が合わないのはヒーローについてだが、これは話題に出さない事にした。
まぁ、ヒーローに憧れてうちの会社に入ったんじゃ、しょうがねぇよな。
とにかく俺はそんなわけで数回、鏑木と飲みに行った。
なんだか俺は、俺らしくなく嬉しかった。
社史編纂室に来てから、いやアポロンメディア社に来てから初めて、弱音を愚痴る事の出来る友人ができたように思えたからだ。
考えてみると、同期の奴らはみな友達じゃなくてライバルだった。
ライバルだから俺がメディア調査部で花形、同期のトップに立っていた時にはなんだかんだ言ってみんな擦り寄ってきたものだが、俺が社史編纂室に左遷された後はその友人関係もあっという間に消滅してしまった。
誰も擦り寄ってこねぇし、それに話しかけても来ない。
まぁ、会社の交友関係なんてそんなものだろう。
表向き仲良くしていたって、結局の所はライバル。
裏で相手を貶めるためにどんな工作をしているか分からない。
信用なんかできねぇし、だいたいはなっからそんな信頼関係なんか作れるはずがない。
けれど、この社史編纂室でどん底の状態でできた、なんでも話せるヤツってのは、俺にとっては学生時代の親友みたいな、そんな心持ちがした。
学生時代の親友だって、今は親しく連絡を取っているヤツはいない。
それは俺のつまらねぇプライドのせいだ。
アポロンメディア社で大活躍していたはずなのに左遷されちまって、結局それで恥ずかしくてその頃から疎遠になっちまったんだ。
考えてみたら、そんな社会的な肩書きとか俺のプライドとか、そんなの気にしない気のおけないいい友人だったのにな……。
久し振りにメールでもしてみるか…。
鏑木みたいに自分の話をなんでも聞いてくれたヤツだった。
そんな風に思えるぐらいに、俺の頑なだった心は、鏑木と話したり会ったりすることで、ちょっとずつ解れていくような気がした。
それから数日後の午後。
俺は室長に頼まれて別の部署に至急のファイルを持って行くために、社史編纂室を出て普段足を踏み入れない別のフロアにきていた。
ファイルを渡し終えて廊下を歩いていると、廊下の奥から3、4人がやがやと話ながら歩いてくるのが見えた。
その中に見覚えのある顔を見つけて、俺はぎくっとした。
――やばい。
メディア調査部のヤツだ。
しかも対立派閥に入っていたヤツで、俺が左遷された後めきめき重用されて天狗になっているヤツじゃねぇか。
あんなヤツと顔を合わせたら、たまったもんじゃねぇ。
咄嗟に俺は、丁度開いていたエレベータに飛び乗った。
乗って急いで『閉』のボタンを押す。
シュン、と扉が閉まって、エレベータが上昇しはじめた。
あらかじめ上の方で呼ばれているのだろうか、エレベータがどんどん上にあがっていくので俺は慌てて現在の階数と一番近い、止まれそうな階数を慌てて押した。
エレベータが止まって扉が開く。
降りるとそこは知らないフロアだった。
俺が昔勤務していたメディア調査部よりは低い所にあるが、かなり上層だ。
上層という事はつまりアポロンメディア社の中でも花形の主要な部署が入っているフロアという事になる。
……こんな所に用はねぇ。
しかしエレベータは上階に行ったままで、すぐには戻ってきそうになかった。
(他のエレベータでも探すか……)
そう思って俺はフロアに誰もいないのを確認し、周囲を窺いながら歩き始めた。
しょぼくれてしわしわなスーツを着て、メディア調査部にいた頃の颯爽とした様子などは見る影もない今の俺だ。
恥ずかしくって、こんな上層の辺りは歩けたもんじゃねぇ。
しかし、知らないフロアというのはちょっと物珍しいものでもある。
きょろきょろと見回しながら清潔なフロアを歩いていると、『ヒーロー事業部』と書かれた一角が目についた。
(へぇ、ここか、…新しくできたヒーロー事業部は…)
ヒーローは嫌いだが、ヒーロー事業部という部署そのものについては些か興味がある。
どうやら社史編纂室と同じように、そんなに大きくないこじんまりとした部署のようだ。
新しくできた所だからか、人の気配も無い。
ヒーロー事業部の出入り口が見える廊下の角で立ち止まって、首だけ出して事業部の方を見る。
中から人が出てきた。
はっとして慌てて一度顔を引っ込め、それから目だけ出して見る。
ヒーロー事業部から出てきたという事は、ヒーロー事業部員、すなわち、『ヒーロー』の二人か、もしくは関係者、という事だ。
緊張して、こっそり盗み見ると、ヒーロー事業部の中から出てきたのは、
(…………!)
見知った人物だった。
俺は、瞬時自分の目を疑った。
ぱちぱちと数度瞬きをしてもう一度ヒーロー事業部に目を向け、出てきた人物を見つめる。
それは、――鏑木虎徹と、もう一人中年の女性の二人だった。
………どう見ても、鏑木だった。
鏑木は、いつもうちの社史編纂室に来るときに着ている地味な濃いグレーのスーツではなかった。
もっとラフな緑色を基調としたシャツに白黒のベスト、頭にハンティング帽を被っていて私服に近い。
そういう服を着ると印象が変わり社史編纂室に来るときの大人しく真面目ないかにも中途入社したばかりです、というような雰囲気のおどおどした男ではなく明るく楽しそうな雰囲気だった。
でも鏑木だった。
服装が違っていても今まで毎日顔を合わせてるんだ。一目見れば分かる。
二人はしゃべりながら俺が降りたエレベータの方に向かっていった。
俺は途中のT字型の廊下に隠れて更に身を縮めた。
俺に気付かずに二人は俺の脇を通り過ぎて、エレベータの方へ向かっていく。
中年女性が鏑木に話しかけた。
「タイガー、あんた最近パソコン上達したわねぇ?」
それに対して返事をした声は、確かに鏑木の声だった。
「へへっそうっすか?毎日すごく丁寧に教えてもらってますからね。すげぇ親切なんですよ、社史編纂室って」
うちの部署の話をしている。
確実にこいつは鏑木虎徹だ。
そしてヤツと一緒に歩いている中年女性は、ヤツの事を『タイガー』と呼んだ。
(…………)
「まぁ、なんでもいいけどね、報告書が早く上がるようになったのは嬉しいわね。しかも間違いが少ないしね。あんたの賠償金関係ホントに大変なんだから、少しは私の苦労も分かった?」
「あー、すんません、はい、分かりました!でもこっち来てから俺、そんなに物壊してねーっすよ?」
「まぁそうだわね。前は大変だったと思うわよ。処理してた人」
「うーん、そうですね。俺も少し反省してます…」
「この調子でパソコンどんどん上手くなると助かるわね、タイガー。がんばってよ?」
「はい!」
鏑木が被っていたハンティング帽を取って手でくるくると回しながらにこにこして返事をしている。
エレベータの扉が開いて二人が乗り込むと、フロアはまた静寂が戻った。
俺はその時、真っ青な顔をしていたに違いない。
誰もいないから良かった。
へなへなとその場に尻餅をついて、俺は清潔でチリ一つ無いフロアを呆然と眺めた。
鏑木は、ヒーローだったのか。
しかもワイルドタイガーだと……?
まさか、と事実を認めたくない気持ちが心を占めている。
でも、今聞いた会話から、ヤツがヒーローのワイルドタイガーだという事は明白だった。
最初の驚愕が過ぎ去ると、俺は猛烈に腹が立ってきた。
腸が煮えくりかえって千切れてしまいそうだった。
信じていた相手に、裏切られた。
―――クソ!!!
この憤りをどうしてくれようか。
俺はヤツを信じて、自分の境遇とか愚痴を全部ヤツに吐いちまったんだ。
ヤツは共感して、なんでも聞いてくれたじゃねぇか。
失業してボランティア枠で入社してきたヤツって信じていたから俺は………。
でも、そうじゃなかった。
ヤツは『ヒーロー様』だった。
このアポロンメディア社の看板で、活動すればそれがテレビで放映されて特集まで組まれて、絶対高給取り。
みんなにちやほやされて、正義の味方で、―――そう、パソコンなんかできなくたって、十分やっていける。
アポロンメディア社が誇る、格好いいヒーロー様だ。
(くそ………くそッッッ!!)
頭に血が昇って、爆発しそうだった。
俺はガンガンと、壁に頭を打ち付けた。
腹が立って腹が立って、自分の間抜けさに、その情けなさに、涙が出そうだった。
いや、本当に涙が出てきた。
入社してからこっち、泣くなんて初めての事だった。
社史編纂室に左遷された時だって泣かなかったのに。
泣くなんて、男の沽券に関わる情けない事だと思っていたのに。
でもその時はどうしても涙が止まらなかった。
自分が情けなくて惨めで、本当にどうしようもなかった。
鼻を啜り上げながら俺はいつまでも、鏑木が乗っていったエレベータを睨みつけていた。