◆ヒーローが出向してきました!--社史編纂室篇--◆ 7
数日後、社史編纂室でのいつもの講座の終了間際、俺は鏑木に声を掛けた。
「よ、鏑木、今日の昼メシ一緒に食わねぇ?」
いつも通りの声で、親しげにそう言うと、鏑木が俺を見上げてにっこりと笑った。
「あ、はい、行きます」
講座が終われば社史編纂室も昼休みになる。
俺は室長やパメラに『先行くわ』、と挨拶をして、鏑木と一緒に編纂室を出た。
地下の少し湿ったひんやりとした、誰も通らないフロア。
数歩歩いた所で俺は『あっ』という表情をして見せた。
「あ、悪い。ちょっと閉架書庫に用事あんだわ。付き合ってもらっていいか?」
「…はい、いいですよ」
鏑木が小首を傾げてにこにことする。
俺は鏑木を連れて、地下の閉架書庫へと階段を降りた。
そこは社史編纂室の人間だけが鍵を持っていて自由に出入りの出来る、広大な書庫だ。
しん、と静まりかえった地下特有の冷えた空気の中を更に下って、閉架書庫の重い金属の扉を開ける。
閉架書庫は常に一定の温度と湿度を保って資料や本を保存するようにできているので、扉も非常に分厚い。
その重い扉をゆっくりと開けて、俺は鏑木を先に入れて後から入った。
そこは扉が閉まると自動的に鍵も閉まるようになっている。
開けた時に使った鍵を、俺は自分のポケットの奥深くにしまいこんだ。
閉架書庫に入った所で、俺はそれまでのにこやかな仮面を捨てた。
もう、演技は終わりだ。
俺の雰囲気が変わったのに気が付いた鏑木が、眉を寄せる。
「………ロベルトさん?」
俺は書庫の壁に背中を凭れ、腕組みをして鏑木を睨んだ。
「鏑木、お前さぁ…。……ヒーローの、ワイルドタイガー、なんだろ?」
「…え……?」
鏑木が一瞬虚を突かれたような顔をした。
「……え、じゃねぇよ、テメェ…。…今まで俺に隠してたんだろ。俺がヒーロー嫌いだって知ってたからか?…一般人のふりしやがって」
「え……い、いや、その…」
鏑木の表情がさっと変わる。
どうしよう、という途方に暮れた顔になり、目線が忙しく左右に揺れる。
「テメェなぁ、俺の愚痴とか聞いてさぞかし楽しかっただろうよ。テメェは俺なんかと違って『ヒーロー様』だもんな、……あァ?……だろ?クソ、テメェなんかに弱音吐いちまって…」
話しているうちにますます怒りが湧いてきた。
腹が立って腹が立って、目の前できょときょとおどおどとしているヒーロー様が、憎らしくてたまらなくなる。
俺と目線が合うと、鏑木はさっと目を逸らして顔を背けた。
その時ヤツが目線を合わせて睨んできたりしたら、俺は客観的に自分を見る事ができたかも知れない。
けれど鏑木は、いかにも申し訳ない、というように目を伏せた。
それで俺は反対にカァッとなった。
瞬間頭に血が昇り、体温が二、三度高くなったような気がした。
知らないうちに手が出そうになって、ようやくの事で俺はその衝動に耐えた。
さすがに、人を殴っちまうのだけは避けたかった。そんな事をしたら最低だ。
鏑木に手を出す代わりに俺は、そのやり場のない拳を思い切り書棚に叩き付けた。
ガシッ……!
書棚が鈍い音を立て、拳が発火したかのように鋭く痛んだ。
「…ロベルトさんっ!」
鏑木が狼狽して叫ぶ。
「…うるせぇ…っ、俺の事、これ以上怒らせんじゃねぇよ…」
俺は拳の痛みも相俟って鏑木を睨みつけた。
「俺の事、裏でさんざんバカにしてたんだろうが………クソ、テメェなんかに…俺は…」
鏑木を見ると怒りなのか憤懣なのか悲しみなのか、表現しようのない感情が渦巻いた。
「…テメェと違って俺はただのしがない一般社員で、あんな所で毎日ごろごろしているだけだからな…」
そう言って鏑木の目を突き通すように睨む。
鏑木が哀しげな目をして視線を伏せた。
同情されている、と思った。哀れまれている。可哀想に、と思われている。
―――クソッッ……!
俺は自分が惨めで泣きたくなった。
鏑木は…、こいつは何でも持っている。能力も、社会的地位も、金も。
それに比べて俺は何も持っていない。
一生懸命頑張ってきたのに、会社にも見捨てられた。
左遷されて、つまんねぇ社史編纂室でぐだぐだと勤務しているしかねぇ。
どうあがいたって、俺は能力なんざ何も無いただの一般人だ。
鏑木みてぇにすげぇネクスト能力があって、あんな風にヒーローとして活躍出来て、正義の味方なんて言われてテレビで放映されてちやほやされるような人間じゃねぇ。
会社だって、結局俺をトカゲの尻尾切りよろしく捨てやがった。
――畢竟、俺はただのクソつまんねぇクズだ。
いくら頑張ったって意味がねぇ。
ちょっと上のヤツがこけただけで、俺まで一緒に左遷された。
自分の能力とか努力とか、そんなのは関係なしだ。
(…………っ!)
腹が立って悔しくて、それでいて悲しくて虚しくて、どうしようもなくなった。
今まで我慢してきた悔しさとか恨みとか、俺の代わりに出世してる奴らへの嫉妬とか、どうしようもないそういうネガティブな感情が一気に噴き出して、それらが俺をあざ笑いながら自分の周りを踊っているような感じだった。
あざ笑われているのに、自分ではそれに反論もできない。何も出来ない無力で惨めな自分を痛感した。
『ビービービー!!』
その時。
不意に人工的な警告音がして、俺はびくっとした。
鏑木を見ると、鏑木も眉を寄せ目を落として自分の手首を見ている。
よく見ると今まで気付かなかったが、シャツの裾に隠すようにしてヤツの右手に薄い通信用のPDAが嵌められているのが目に入った。
左手首にはちょっと洒落た時計とブレスをしているのは知っていたが、右手は知らなかった。
シャツの裾できっちりと隠していたんだろう。そこから警告音と声が発せられた。
『ヒーロー出動要請、ヒーロー出動要請、ヒーローはすぐに準備願います!』
……成る程、これがヒーロー専用のPDAか。
そういやヒーローの出演番組とかヒーローの紹介で、ヒーロー全員が一人一人専用のPDAを持っているってのは聞いた事があるし、写真でも見たことがある。
まさか鏑木がそれをしているとはな…。
これを見てれば、こいつがヒーローだって分かったのかもしれねぇな。
どっちにしろ、俺には隠してたってわけか……。
こいつはうちの社史編纂室に来る時に、身分とかそういうものは全て、隠して来てたんだ。
そうか……。社史編纂室なんて、ヒーロー様が来るような所じゃねぇもんな…。
やっぱり、俺なんかとは人種が違うんだ。
鏑木はヒーロー様で、俺は底辺のゴミだ。
「……ほら、…行けよ。ヒーロー様の出動要請だぜ?」
そう言いながら俺は、ズボンの尻ポケットをぽんぽんと叩いて見せた。
「言っとくが、ここを開けるには鍵が要る。俺がここに持ってるぜ。欲しかったら俺の事やっつけてから行けよ。お強いヒーロー様なら、俺なんざあっという間に倒せるだろ?能力なんか発動しなくてもな。俺なんてひ弱なただの一般人のゴミだからな。強くて格好いい正義の味方のヒーロー様なら、俺みてぇなゴミなんざあっという間にやっつけられるだろうよ。悪者退治ってとこで。ヒーロー様の出動を阻止する悪者だもんなぁ、俺。……まぁ、悪者にもなりえない、ただのゴミだけどよ、俺なんざな?」
俺はわざと鏑木を挑発した。
鏑木が俺を見上げ眉を寄せ、それから目を伏せて唇を噛んだ。
PDAが更に鳴った。
警告音とともに先程の機械的な音声、『ヒーロー出動要請、ヒーロー出動要請、ヒーローは至急準備願います』という声が繰り返される。
鏑木はじっと動かなかった。
俺は故意に鏑木が殴りやすいようにとヤツの顔の前に、自分の顔を突きだしてやった。
「ほら、殴ったらどうだ?俺なんざあっという間だろ、一発でのしちまえるんだろ?」
そう言って顔を伏せている鏑木の目を覗き込んで、威嚇するように睨んでやる。
目線が合うと、鏑木が視線をすっと逸らした。
「できねえっす…」
掠れた声が小さく聞こえた。
「……はぁ?」
「んな事できねぇっすよ…」
その言葉を聞いた瞬間、俺は頭が沸騰しそうになった。
そうか、この期に及んで俺は哀れまれているんだ。そう思った。
鏑木にとって、俺は哀れな一般人。
左遷されてしがないうらぶれた生活を送っている、可哀想な人間。
俺なんざ、鏑木の足下にも及ばねぇクソな人間で、鏑木が殴るだけの価値もねぇってわけだ。
そんなの、分かってた事じゃねぇか。
鏑木は、俺とは違うって。
ヤツはおえらいヒーロー様で、俺とは比べものにならねぇ立派な人間で、価値もあって、会社の大切な看板様だ。
俺は違う。
ただの、そこらへんにたむろっているろくでもねぇ人間で、いてもいなくても、同じ。
だから、鏑木だって、本気にならねぇ。
俺の事可哀想だと思って、同情してるんだ。対等に扱われていねぇんだ。俺は哀れむべき可哀想な無価値な一般人なんだ。
――情けねぇ…。
俺は、なんだかもう、どうでもよくなってきた。
結局、俺の独り相撲だった。
鏑木は、俺なんかが友達になれるような人間じゃなかった。
俺みてぇなクソでクズな人間とは全く人種が違うんだ。
なんだか、身体中の力が抜けた。悲しくて、虚しくて、思わず俺は俯いた。
もう、いい。そう思った。
鏑木とはもう、これでさよならだ。せっかく、友達になれたと思ったのに。
――でも、終わりだ。
「ほら、ヒーロー様は出動してこいよ…」
俺は疼く拳をさすりながら、鏑木に尻ポケットから鍵を取り出して放り投げた。
そのまま力無く書棚に背中を凭れて、ずるずると腰を床につける。
「ロベルトさん……」
鏑木が俺を呼んだが、俺は顔を上げなかった。
「ロベルトさん、俺はヒーローだけど、でも、ヒーロー様なんかじゃねぇっすよ。俺よりロベルトさんの方がずっとがんばってます…。ホントです…」
「………」
俺は返事をする気力も無くしていた。どうでもいい、と思った。
そんなフォローしなくていい。俺は負け犬だ。お前は勝ち組だ。
「ロベルトさん、どっかでテレビ見ててくれませんか?俺、がんばってきますから!絶対、見ててください!お願いします…!ロベルトさんに見てもらえるような活躍、してきますから!」
なんで鏑木はそんな事を言ったんだろうか。
俺がヒーローTVを毛嫌いしているのを知っているはずなのに。
「お願いします…!絶対、見てください!」
もう一度言って、ぱっと身を翻して扉を開け出て行く鏑木の後ろ姿を、俺はぼんやり見送った。