◆ヒーローが出向してきました!--社史編纂室篇--◆ 8
地下にしんとした静寂が戻ってくる。
暫くうずくまってから、俺は閉架書庫の外に出た。
薄暗い廊下は湿って人気のない廃墟のようだった。
……気分が、悪い。
そのまま消えてしまいたいような気分だった。
書棚に叩き付けた拳がじくじくと痛んだ。
拳を数度開いたり閉じたりして感覚をなんとか戻す。
社史編纂室に戻ろうかと思ったが、足が向かなかった。
なんだろう……。
全く気が抜けてしまって、何もやる気が起きなかった。
午後の仕事――いかに社史編纂室とは言え、仕事はある事はある――が、全く戻る気になれなかった。
なにもかもが虚しくて、今まで俺は何に憤って何を守ろうとしていたんだろうかと考えた。
俺のちんけなプライドか?
そんなもの、吹けば飛ぶようなものだったのに。
もう、俺の居場所なんか、ねぇんだ…。
馬鹿みたいだ。
いや、本当に馬鹿だ。
馬鹿で馬鹿で、どうしようもない人間なんだ。
社史編纂室に戻って仕事をする気にはどうしてもなれなかった。
俺はそのまま地下から非常口を通って、会社を抜け出した。
地下通路を通って、アポロンメディア社から少し離れた通りに出る。
外は天気が良く、すっきりと晴れた青空に殆ど葉の落ちた街路樹のシルエットが美しかった。
俺はぼんやりと空を見上げ、ふらふらと歩き出した。
元々アポロンメディア社の社員とは思えないようなよれよれのスーツを着ているから、歩いていたって、ゴールドステージみてぇな場違いな所に紛れ込んだ失業者、ぐらいにしか思われない。
誰も、俺の事なんか気にしてない。
みんな俺を見ないようにして、さっさと通り過ぎていく。
昼を食べて帰ってくる人達だろう。
俺なんざまるでその場にいない人間のように、見事に無視される。
………空が、綺麗だった。
俺は半ば呆然としながら歩いた。
しばらく歩いて、途中立ち止まってぼんやりとし、そのまま足下も覚束なく歩いていると、ふと賑やかなバーが目についた。
ヒーローズバーだ。
バーの中から賑やかな音が聞こえてきた。ヒーローTVの中継を流しているのだ。
『絶対、見ててください!』
――鏑木の言葉が思い浮かんだ。
なんであんな事を言ったのか。分からない。
――くそ、見るもんか。
そう思ったのに、しかし俺の足は無意識にヒーローズバーに向いていた。
ヒーローズバーに入ると、流れてきた音の通り、正面の大きなスクリーンにヒーローTVの中継が映っていた。
よれよれのスーツのまま俺は、賑やかに談笑したり笑い合ったりしている客の間をすり抜けて、カウンタの隅に座って、レジェンドビールを頼んだ。
カウンタに置かれたビールを掴んでぐっと喉に流し込み、手の甲で唇を拭ってからスクリーンを見上げる。
学生と思われる若者や、平日休みのヤツだろうか、男女ともに市民がたくさんバーの中にいて、テレビを見ていた。
俺と同じように、よれよれの服を着ているヤツもいる。
失業中のヤツだろう。
ゴールドステージにある店とは言え、飲食店には雑多な階級の人達が集まる。
平日の昼間だからか、所謂周囲の一流企業で働いているようなやつらはいなかった。
どちらか言うと平日の昼に暇をしているような、そういうまぁ庶民的なやつらが殆どだった。
スクリーンでは、ヘリコプターからブロンズステージの一角を映していた。
古くて耐用年数が切れたような建物が密集している地区だ。
今回の現場は解体中のビルのようだった。
そのビルとその隣のビルが、連動して倒壊したらしい。
既に人は住んでいないビルだが、解体作業員や周囲を歩いていた人達が巻き込まれているようだった。
崩れたビルや今にも崩れようとしているビル、もうもうと立ち上がる粉塵、そういうものをかいくぐってヒーロー達がきびきびと動いている。
バーナビー・ブルックスJr.が画面の中に見えた。
銀とピンクのヒーロースーツがてきぱきと動いている。
他のヒーロー達――スカイハイやロックバイソン、ファイヤーエンブレム、ブルーローズ、ドラゴンキッド、折紙サイクロン――全員が出動して、それぞれに崩れたビルの破片を取り除いたり、座り込んでいる人を安全な場所に誘導したりしている。
鏑木はどこだろうか。
俺は画面を睨むように見上げた。
すると、画面の左端から銀と明るい蛍光緑のヒーロースーツが入って来た。
鏑木だった。
見た瞬間、どきん、と心臓が跳ねた。
身体がさっと冷えて、息苦しくなった。
なんでこんなものを見なくちゃならねぇんだと思った。
見たくない。
ヒーロー様が活躍する画面なんざ、なんで見なくてはならないんだ。
拷問だ。
それも鏑木が活躍する場面なんざ、絶対に見たくねぇのに……なのに、俺は目が離せなかった。
『絶対見ててください』と言った鏑木の言葉が呪文のように俺を縛っていた。
鏑木は左端から入ってきて画面の中央、ビルの真下まで移動した。
バーナビーがビルから落ちようとしている瓦礫を掴む。
鏑木がさっと身体を屈めて、瓦礫と地面の間にできた隙間からビルの中へと入り込む。
どうやら連携プレイで、バーナビーが瓦礫を掴んでいる間に鏑木が中に入り、ビルの中を捜索しているようだった。
他のヒーローたちも瓦礫を掴む。
砂塵がもうもうと立ちこめる。
『おおっと、まだビルの中に作業員が何人か取り残されているようです!大丈夫でしょうか!今、ビルの中に入っているのはワイルドタイガー…!彼一人では心もと無い…!あ、スカイハイが上からビルに突入でしょうか…!』
アナウンサーの実況がバーの中に木霊する。
「おいおい、ワイルドタイガー一人じゃ心細いじゃねぇかよ、なぁ?」
ヒーローズバーで見ている客のうち派手に飲んだくれている男が大声で言った。
「全くだぜ。なんで出しゃばってくるんだ?バーナビーにやらせろよー」
連れの客が合いの手を入れる。
「ブルーローズちゃんだっているんだぜ?ロートルの出番じゃねぇだろうが」
「どうなってんだよ、なんでワイルドタイガーだけ中に入ってんだ?」
「ワイルドタイガーが自分が入りたいってバーナビーに言ったらしいぜ。さっき実況で言ってた」
「はぁ?手柄横取りかよ…?」
「KOHにでもなりてぇのか。バーナビーみてぇな優秀な新人と組めて最近ポイント取れてるからって調子こいてんだろ、崖っぷちヒーローのくせしてよぉ」
中央に陣取った人相の悪い一団が大声でそう言い合っている。
「…ちょっと、言い過ぎじゃないですか?」
カウンタに座っていた初老の男性が、眉を顰めて注意をした。
「あ゛ぁ?うるせぇなぁ…テメェ文句があるなら、俺の前で言ってみろ」
すると、昼間から酔っているらしい赤ら顔の図体のでかい男が、その男性を大声で威嚇した。
初老の男性はびくっとして顔を俯けてしまった。
騒いでいる連中を不愉快そうに見ている客も何人かいるが、みな酔っ払いの勢いが怖いのか、背中を背けて顔を顰めているだけだ。
「ワイルドタイガーなんざ、解雇されるってのをアポロンメディア社が拾ってやったんだろ?ロートルのくせして運だけいいやつで、腹が立つぜっ。俺なんざ、実力があっても、どこも雇ってくれねぇって言うのによぉ!」
そう言って男がダン、とテーブルを叩く。
周囲がびくっとして背中を向ける。
遠巻きにしてひそひそと不愉快そうにしている客もいる。
俺は視界の端にその酔っ払いを入れながら、顔を上げてスクリーンを見た。
この男が言っている台詞は、先程まで俺が鏑木に対して思っていた内容とあまり変わらない。
ヒーロー様だからと言ってちやほやされやがって。
運の良いやつだ、コイツだけなんでちやほやされてんだ、それに比べて俺は、と自暴自棄になっていた。
いや今だって自暴自棄だ。
俺なんざそこらに転がってる石ころと同じだ。
どうせ何もできやしない。
鏑木は違う。
ヒーロー様は、画面の中で活躍中だ。
……やっぱり、俺とは違う。
一体鏑木は何を見てくれと言ったんだろうか。
活躍を俺に見せつけたかったのか。
見せつけて俺をもっと苦しめたいのか…。
――分からない。
俺も、隣で飲んだくれて鏑木の悪口を放言している男と、同じなのだろうか。
こんな風に自分が正当に評価されない、と不平不満を言って、同じような立場だったはずの鏑木を皆の前で罵って溜飲を下げるような。
――嫌だ。
突然俺はそう思った。