◆茨(いばら)の冠◆ 35
それから数日、バーナビーは、少なくとも仕事中は以前と同じように仕事をし、虎徹とも平静に接する事ができた。
自宅で寝込んでいた時には、普段通り振る舞う自信が無かったが、出てきてしまえば結構なんとかなるものだ。
傍目からは、以前とまるっきり同じ、いつものバーナビー・ブルックスJr.と思われているに違いない。
虎徹が時折自分の事を気遣わしげな目で見てくるが、それに対しては知らない振りをするか、あるいは視線が執拗な時はありきたりの微笑で返すようにした。
そうすると、虎徹ははっとしたように眉を寄せ、目線を揺らして何か言いたげな風をする。
けれど、話しかけては来ない。
目線をこちらに向けるだけで、そこから踏み出してはこない。
―――大丈夫だ…。
そのうち彼も慣れるだろう。
まだ自分に対して、なにがしかの罪悪感を抱いているのかも知れない。
でも彼が悪いわけでもなんでもない。
あくまでバーナビー自身の問題だ。
数日休んだのだって、今まで溜まっていた有給休暇の量を考えれば、全然影響はない。
取っていなかった休暇を、ほんの少し取っただけである。
もしかしたら虎徹は、バーナビーが休んだ事に対してなんらかの責任を感じているかも知れない。
そういう所については過剰なまでに責任感を持っている人だ。
でも、そんな事は気にしなくていいのだ。
自分がいつも通り、普通に勤務して、普通に接していれば、そのうちに気にならなくなるだろう。
……自分も、大丈夫だ。
もう、整理がついた。
虎徹が他のヒーローと話をしていても、大丈夫だ。
感情が掻き回されることもない。
彼は、――虎徹は、自分のものではないのだ。
彼は誰とどんな話をしても自由だし、誰とどんな行動をしても。それは自分の関知するところではない。
彼の行動に対して、自分が差し出がましく批判を加えたり怒ったりするのはおかしい。
もともとそんな風に、他人の行動に対していちいち感情を爆発させる自分が、変だったのだ。
そういう異常な感情を断ち切ったのだから、もう大丈夫。
今までの、狂っていた自分では、ないのだ。
夜、一人になると、まだ寂しさに身を捩りたくなるほどの時もある。
虚しくて苦しくて、いても立ってもいられなくなって、虎徹の事をほんの少しでも考えると、爆発しそうで、恐怖に震える時もある。
けれど、そんな時には強い睡眠薬を飲んで寝てしまう。
薬が効けば、なんとかなる。
泥のように深く、何も考えない酩酊が訪れて、自分を救ってくれる。
そうして、なんとかやり過ごしていれば、そのうちに元に戻ってくるはず。
以前の、バディとしての付き合いに、戻れるはず。
今はまだ、虎徹と個人的に親しく話したり一緒に飲みに行ったりすることはできない。
虎徹からは、自分を窺いながらも帰りに夕食一緒にどうだ、などと誘われたが、まだ身体が本調子でないのでとか、忙しいので、と言って断った。
さすがに、そんなふうに虎徹と二人っきりになった時に、普通でいられるか自信が無かった。
なんとか平衡状態を保っている心の状態が、プライベートの場面の彼の前で保たれるかどうか、分からなかった。
やっとの思いで、ここまで自分を立て直したのだ。
ここでもし自分が崩れてしまったら……。
そうしたら自分はまた、あの苦しい、不安で居ても立っても居られない、発狂しそうな心理状態に戻ってしまう。
……地獄だ。
そんな風にならないために、虎徹に別れを告げたのだ。
もう少し、……期間は分からないが、時間が経てば、だんだんと平気になってくるはず。
そうすれば、少なくとも虎徹とは、仕事上の相棒としてずっとやっていける。
だから、今はまだ不可能だが、そのうちにまた二人で食事に行ったり、酒を飲んだりできるようになるはずだ。
そうしたら、安定した心理状態で、虎徹の話を聞いたりにこやかに応対も出来るはず。
いつになったらそういう状態になれるかは、分からなかった。
もしかしたらそんな風になれる前に、虎徹が誰か掛け替えのない存在を見つけるかも知れない。
自分よりももっと、比較にならないほど大切な存在を見つけるかも知れない。
自分はうち捨てられて、一人になって……。
もう、二度と、虎徹と一緒にいたときに味わったような、めくるめく陶酔も、幸福も、味わう事はできないのだ。
二度と、永遠に……。
――いや、でも、もし虎徹が人生のパートナーを見つけたとして…。
自分はそれに祝福こそすれ、怒ったりがっかりしたり、絶望したりする謂われは全く無いのだ。
何を馬鹿な事を考えているんだ。
………心配だって、する事は無い。
虎徹は自分の仕事上のパートナーで、相棒でバディだ。
そこは誰にも譲れないし、譲る必要もない。
他人の前で公言できる関係なのだ。
だから安心だ。
大丈夫だ。
心配なんて、馬鹿みたいだ。
そんなもの、する必要は全く無い。
虎徹は、自分のバディなのだ。
ベッドの中で薬が効いてくるまでの間、バーナビーは何度も何度も自分にそう言い聞かせた。