中間考査 《3》
数学の問題に集中するとだんだん自分が戻ってきて、手塚は不二に勉強を教えるのに夢中になった。
その間に随分と時間が過ぎていたらしい。
掛け時計の軽やかな電子音で気が付くと、時刻は午後10時を差していた。
こんなに遅くなるまで他人の家にいたことはない。
自宅では両親が心配しているに違いない。
友人の家で勉強してから帰ると言ってあるので、少々遅くなっても大丈夫だとは思うが、それでも家族に要らぬ心配はかけたくなかった。
終バスももうすぐ出てしまう。
「……不二、そろそろ帰らないと」
言いながら立ち上がりかけると、
「大丈夫だよ、手塚」
不二が立ち上がりかけた手塚の右手をぎゅっと握ってきた。
「えっ?」
意外に強い力で手を掴まれて、不二の体温が伝わってくる。
なぜかどきどきした。
「実はね、君の家に僕から電話しておいたんだ。今日は国光君は、僕の家に泊まって勉強を教えてくれるので、どうぞご心配なくってね」
「なんだって?」
不二が肩を竦める。
「だから、今日は僕の家に泊まっていってよ」
「そんな、突然……」
「別にいいじゃないか? 明日は日曜日だし、部活は9時からだから、ゆっくりだし」
「そういう問題じゃ……」
「ね?……いいだろう、手塚?」
不二が茶色の瞳でじいっと手塚を見つめてきた。
不二に見つめられると、息苦しくなる。
手塚は僅かに視線を逸らした。
不二の瞳は、苦手だ。
言葉が出なくなる。
帰る、と言いたいのに、声が出ない。
不二が手をぎゅっと掴んできた。
「………いいだろう? 手塚?」
「……しかたがないな……」
小さな声で、できるだけ平静を装って返事をすると、
「良かった!」
不二の表情が一変した。
「実はさ、君に泊まってもらおうと思って、いろいろ用意してあるんだよ。寝間着とか、タオルとか、フトンとかも」
「………」
子どものようにはしゃぎながら、不二がクローゼットからタオル類を引き出すのを、手塚はびっくりして見た。
「泊まってくって決まったからには、お風呂入っちゃって。はい、これ」
「……これは………」
「お客様用寝間着、別名浴衣。君、僕よりずっと背が高いから、合う服とかなくてさ、浴衣だったら誰でも着られるだろ?」
不二がしれっとした様子で言う。
「……下着の替えとか持ってないんだが……」
「僕の新品をあげるよ。今日着ている服は洗濯しちゃえば、明日には着られるよ」
「…………」
「ほらほら、こっちこっち……」
いつもと違って妙に明るくはしゃぐ不二の勢いに押されて、手塚は手に押し付けられた浴衣とタオルを持ったまま、バスルームへと案内された。不二家のバスルームは明るい暖色系の大きめなものだった。
間接照明が灯るルーム内は手塚の身体もゆったりと沈められるほどで、自宅の古い風呂に比べると、ずっとリラックスできる。
「ふう………」
独りになると無意識に軽い溜め息が出て、手塚は浴槽内で目を瞑った。
不二の家に来てから、彼のペースに乗せられてばかりだ。
手塚は心の中で考えた。
どうして泊まることになってしまったのだろう。
明日も部活がある。
そう言って、バスがあるうちに帰ることもできた。
自分がはっきりと断れば、不二がけっして無理を言ってこないことは分かっていたのに。
ポチャン…………。
湯から手を出して、乳白色の湯を手のひらにすくってみる。
温かな湯気が立ちこめる。
不二と一緒にいたかったのだろうか?
手塚は自問自答した。
一緒に勉強をして、一緒に食事をして、------不二と二人だけで、こんなに長い時間いたことはない。
いつも周りに部員がいたり、家族がいたりした。
今日は、誰もいない。
自分たち二人以外に。
-----だから、だろうか。
泊まっても良いなどと思ってしまったのは。
二人きりで、いたかった?
不二と、二人きりで………………。
(……………まさか)
手塚は頭を振った。
ぽちゃぽちゃと湯が軽い音を立てる。
別に、泊まることぐらい、たいしたことではない。
自宅以外の場所に泊まる事は、合宿や遠征でたびたびある。
そう言うときは、いつも不二と一緒だった。
今までと同じだと思えばいいのだ。
ただ、今日は他人がいないというだけだ。
だから、ちょっと変な感じがしたのだ。
-------そうだ、そうに違いない。
いつもは、賑やかな菊丸や、冷静な乾や、そういう仲間がいて、その中に不二もいた。
今日はそうじゃないから、気になっているだけだ。
手塚は何度も何度も心の中でそう繰り返した。手塚が長風呂から上がると、入れ替わりに不二が風呂に入っていった。
「………」
軽く溜め息を吐いて、手塚は不二の部屋に戻った。
浴衣の帯をしっかりと締めて、カーペットに置かれた座布団に座る。
座布団に座るには、どうしても胡座をかくことになる。
そうすると、不二の言うところの新品のトランクス(確かに新品で、手塚はそれを穿くために、包装紙から取り出したのだった)が見えてしまう。
(不二のヤツ、こんなのを本当に穿いてるんだろうか?)
部室でしょっちゅう一緒に着替えているから、下着姿は見慣れているのだが、今手塚が穿いているトランクスは、真紅に黒の格子模様が入ったものだった。
不二がこんな派手な下着を着けているのを見たことはない。
(……わざわざこれを用意しておいたとか………)
不二がいかにもそういう事をしそうな気がして、手塚は眉を顰めた。
「お待たせ」
その時、部屋のドアが開いて、不二が入ってきた。
「君の服、洗濯機に入れといたからね。、あとは乾燥して出てくるのを待つだけ」
そう言って、唇の端を上げて笑う。
自分でやるのに----と言おうとして、手塚はやめた。
どうにも気恥ずかしくなったのだ。
洗濯だの、風呂だの、そういう事を不二と話しているのが、なぜか恥ずかしい。
「さて、寝るまでもうちょっと数学教えてよ?」
ぺたん、と床に座って、不二が手塚を覗き込むように見つめてきた。
「あ、ああ、そうだな………」
話が勉強のことになってほっとして、手塚は口ごもりながら答えた。