罠 《1》
「お疲れさまでした」
「お先に失礼しますっ」
頭を下げながら部員達が次々と挨拶をしてくる。
その言葉に軽く頷いて応えながら、手塚は部誌をつけていた。
部誌は、部員全員が持ち回りで書くようになっている。
今日は、手塚の書く日だった。
部室の窓に夕暮れのオレンジ色の光が薄く差し、だんだん空が群青色になっていく。
部員達が皆帰って一人になっても、手塚は机に向かって熱心に部活動の詳細を記録していた。
部員の中には、几帳面な手塚から、おおざっぱな者まで、いろいろな性格が集まっている。
部誌の記入も、部員によっては付け忘れている日があった。
今日、手塚が書いているのも、先週の付け忘れの部分だったりした。
部活のあった日には必ず記入されていなくては気が済まない自分の性格を、少々厄介には思うが、部活動のあった日には、きちんとその記録がついていないと、気分がすっきりしない。
そういうわけで、先週の分から思い出しながら付けていたので、部員が全員帰ったにもかかわらず、手塚は一人部室に残っていた。「あれ、まだやっているんだ、ご苦労様」
その時、部室のドアが開いて、外から宵のひんやりした風と共に背の高い人物が入ってきた。
目を上げてその人物を見て、手塚は眉を少々寄せた。
以前数回見かけたことのある男だった。
確か、雑誌『月刊プロテニス』の編集者。
井上とか言った。
「何か御用ですか?」
井上が爽やかに笑いかけてきたので、手塚は手を止めた。
「竜崎先生なら、今日はもういらっしゃいませんが?」
「あ、いや、竜崎先生に用があったわけじゃないんだ。ちょっと青学の近くを通りかかったものでね、テニス部はどうしているかなと思って寄ってみたんだよ」
手塚君、一人きりなのかい、と言いながら、井上が親しげに近寄ってくる。
「ええ、もう今日は練習は終わりましたので」
取材なら、また明日にでもお越し下さい、と言おうとした所に、井上が手塚を覗き込んできた。
「へえ、部誌を付けているんだ……」
手塚が書いていたノートを見て、井上が感心したように言う。
「部長自らが付けるとは、なかなか大変だね。部員をまとめたり、部誌を書いたり、随分仕事が多そうだ」
「いえ、別に。……たいしたことではありませんから……」
「なるほどね〜。手塚君にとっては、どんな事でもたいした事ではないようだね」
皮肉なのか、褒め言葉なのか分からないような物言いに、手塚は思わず眉を顰めた。
「あ、ごめんごめん、気に障ったかな?」
井上が白い歯を見せて笑いかけてきた。
「いえ、別に………」
-----パタン。
ノートを閉じて立ち上がると、手塚は井上に背を向けて、着替え始めた。
青学レギュラーの証である、青と白を基調としたジャージを脱ぎ、学生服を羽織る。
「今日はもう閉めます。また明日にでも………」
と振り向きざま言った所で、不意に視界が暗くなった。
井上が、部屋の電灯を背に、近寄ってきた。
(…………!)
元テニスプレイヤーだった井上の大きく力強い腕が手塚の肩を掴み、そのまま壁に押し付けてきた。
あっと驚く間もなく、手塚は壁に押し付けられ、仰向いた所に、井上が素早く唇を被せてきた。
唇の感触と、ねっとりとした舌が歯列を割って入ってくる感覚に、驚愕で目を見開いたまま、手塚はしばし動けなかった。
その間に、井上は、無防備な手塚の唇を十分に味わった。
「………な………んの真似ですか?」
漸く唇が離れ、井上の悪戯っ子のような瞳が手塚を覗き込んできた。
切れ長の目を更に眇めて、手塚は必死で井上を睨んだ。
「いや、悪いね……」
井上が、大人の余裕綽々の様子で笑う。
「なんだかね、君って、何でも経験していそうな気がしてね。……もう、こういう事もしているのかな、なんて思ったわけ」
「……………!」
いきなり下半身をまさぐられて、手塚は仰天した。
井上の大きな手が、包み込むように、手塚自身を学生ズボンの上から撫で上げてくる。
「………やめて下さいっ!」
巧みに手を動かされて、手塚は狼狽した。
必死で身体を捩って、井上の手から逃れようとする。
「誰も残ってないんだろう……?」
手塚は、中学生では並外れて背も高いし体格も良い。
しかし、井上と比べたら、まだまだ子どもだった。
力も、こういう場面での落ち着きも、到底井上にはかなわない。
まさぐられているうちに、其処が勃起してきたのを感じて、手塚はぎょっとした。
「こんな事っ、………犯罪ですよ! 竜崎先生に、言いますっ!」
なんとかやめさせようと、威嚇にも似た言葉を発すると、さすがに、「犯罪」という言葉で我に返ったのか、井上が手を止めた。
「離して下さい!」
------バンッ。
井上の身体を押しのけて壁づたいに逃げると、手塚は震えながら学生服の乱れを直した。
井上が、ばつの悪そうな顔をする。
「冗談だよ、冗談。………君がいつもポーカーフェイスだから、慌てる所が見たくてね……」
いくらなんでもまずいと思ったのだろう、申し訳なさそうに謝ってくる井上を睨むと、手塚は震える身体を必死で宥めた。
いくら大人びているとは言っても、手塚には、こういう事をさらりとかわすだけの余裕など無かった。
「ごめんよ。……君がそんなに傷付くとは思ってなかったんだ………悪かった……」
井上としては、いつも遊んでいる女性相手のようなつもりだったのだろう。
相手が男で、しかもまだ中学生であると言うことに今更ながらに気付いたように、何度も謝ってきた。
「……もう、いいです。帰って下さい。今日のことは誰にも言いませんから………」
「すまない、手塚君、本当に悪かった………」
井上は大きな身体を申し訳なさそうに屈めて手塚に謝ると、しおしおと部室から出ていった。「………………」
一人になると、どっと涙が出てきて、手塚は床に座り込んで顔を覆った。
心臓が早鐘のように鳴り、鼓動に合わせて涙が流れる。
何度も大きく深呼吸して、何分か、何十分かそうして座り込んでいただろうか、漸く落ち着いてきて、手塚は涙で汚れた頬をごしごしと擦った。
あんな事ぐらい、なんてことない。
ただの冗談だ。
……というのは分かっているのだが、それにしても、手塚にとっては衝撃が大きかった。
他人から、あのような性的な接触をされた事は一度もなかったのだ。
同性など勿論の事、手塚は異性とも付き合ったことがなかった。
性衝動が無いわけではない。
健康な男子としての性欲は勿論ある。
しかし、手塚にとってそれは一人で秘密裏に処理する事柄であり、他人を必要とするものではなかった。
それに、今の自分にとっては、何よりテニスが第一であり、テニスに関係のない事柄に対する手塚の興味は薄かった。
それだけに、突然、暴力のような形で自分が性欲の対象にされたことが、手塚にはショックだった。
いや、井上にはそんな意図はなかっただろう。
ただのからかい、冗談だったのだろうが。「…………」
手塚は大きく肩で呼吸して、よろよろと立ち上がった。
もう、日はすっかり落ち、夜空には宵の明星が瞬いている。
テニスコートにも校舎にも人気はなく、夜の青学はしんと静まり返っていた。
------ガチャリ。
部室のドアを施錠すると、手塚は俯いたまま歩き出した。
とにかく、今日のことは忘れることだ。
手塚は心の中で何度もそう繰り返した。
いつまでも覚えていてもしょうがない。
それに、井上も謝ってきている。
自分も忘れると言った。
だから、もう、忘れなければ。「手塚………」
その時、不意に後ろから声をかけられ、手塚は心臓が止まるかと思うほど驚いた。
(………………!)
振り向くと、校庭の街灯に照らされて、薄い茶色の髪とにっこりと笑う顔が見えた。
「ふっ、不二…………」
意外な人物の出現に、手塚は心底驚いた。
もうとっくに帰ったと思っていたのに。
手塚の内心が分かったのか、不二がくすっと笑った。
「いや、忘れ物してね、取りに戻ったらさ、なんだかお取り込み中だったから、悪いと思って中に入らなかったんだ………」
「………見てたのか!」
まさか、見られていたとは思わなかった。
愕然として大声を出すと、不二がくすくすと笑った。
「まぁね、ちょっとびっくりしたよ。………あ、でも誰にも言わないから安心して……」
「…………………」
心臓がどきんと大きく跳ねた。
厭な予感がした。
不二の柔らかい笑顔の裏に、何か隠れているような気がした。
「さ、帰ろう。キミも災難だったね。あんな事、気にしない方がいいよ。大人ってああいう事平気でするから、厭だよね。あの井上っていう編集者、きっと変態なんだよ」
いつもより饒舌な不二が、不気味だった。
「明日も朝練なんだから、早く帰らなくっちゃね。じゃ、さよなら」
バス停で別れて、不二が一人暗い夜道を歩いていく。
不安と猜疑心が綯い交ぜになった、混乱した心を抱えたまま、手塚は帰途についた。
私的に大好きな無理矢理もの。井上ファンの人ごめんなさい、今回だけ。あとは不二君の出番ですので(笑)