罠 
《4》












あの、悪夢のような出来事から数日。
手塚は意識して不二を避けていた。
部活に出ればどうしても不二の姿を見てしまう。
見ると、あの時の、生臭い匂いや、口の中で動き回る肉塊の感触や、不二の、地の底を這い上ってくるような声を思い出して、全身が凍り付いた。
表情に出すまいと、必死に平静を装うものの、不二を見ると、顔が強張ってしまう。
部活でもできるだけ接触を避けて、手塚は必死で自分を保とうとしていた。
あれから、何度も何度も自分に言い聞かせた。
あんな事、なんでもない。
別に、危害を加えられたわけでもないし、身体に傷が付いたわけでもない。
写真は破ったし、もう、全て忘れてしまえばいい。
自分が忘れてしまえば、いいんだ。
何もなかったことにしてしまえば、いいんだ。
-----大丈夫だ。
俺が、忘れさえすればいいんだ。












「ねえ、手塚……」
必死に心の中で何度もそう反復していたところに、突然不二に話しかけられて、手塚の心臓は縮み上がった。
部活動が終わって、部室で皆が着替えをしている時だった。
部室の中には、レギュラー陣が大方残っていた。
「手塚、今日、暇?……ちょっと勉強教えてもらいたいんだけどさ、僕の家、来ない?」
学生服に着替えながら、不二が何気ない様子で話しかけてきた。
手塚は表情を変えまいと、必死で平静を装った。
不二が、にこにこと笑いかけてくる。
周りのレギュラー陣が、親密げに自分たちを見つめてくる。
自分たちが一体どういう事をしたかなど、全く知らない者たちが。
「………ね?」
不二がにっこりとした。
「……ああ……」
断れなかった。
こんな衆目の面前で断ったら、仲間達が不審に思うに違いなかった。
『手塚が断るなんて、一体何があったんだ』
『不二を何かあったのか』
とか、詮索されるに違いなかった。
そうなったら、どこまでばれるか分からない。
もし、不二がこの間の一件をしゃべってしまったら。
そう思うと、一気に背筋が凍った。
「良かった!……物理が分からなくて、困ってたんだ」
「えっ、不二でも分からないの?」
隣で着替えていた菊丸が、びっくりしたように話しかけてきた。
「不二に分からないんじゃ、オレが分からなくっても別に恥ずかしくないや」
人なつこく笑いながら、菊丸が無邪気に不二にじゃれついている。
「不二さあ、教えてもらったら、あとでオレにも教えてっ」
「うん、僕でできることならいくらでも」
不二が菊丸に応えて、ふんわりと笑う。
その表情を見ている限り、誰も不二のことを疑ったりはしないだろう。
優しく穏和で、頼りになる人柄だと、誰もが思うだろう。
-----俺だって、知らなかった。
まさか、不二があんな、他人を脅すようなことを平気でする人間だったなんて。
今まで2年以上、不二と一緒だったのに。
あれが不二の本性なんだろうか?
俺も、みんなもだまされているだけなのか?
「じゃ、また明日。………手塚、行こう?」
不二に話しかけられて、手塚はぎくっとした。
「あ、ああ。………大石、戸締まりよろしく頼む」
部室に残っていた副部長の大石に声をかけると、手塚は不二の後について部室を出た。












不二の家には青学中等部からバスに乗る。
バスに乗っている間も、バスを降りてからも、不二はいつもの人当たりの良い不二だった。
穏和で、にこにことした表情が地顔のような、よく知っている、不二。
身体を固くしながらも、手塚は不二に話しかけられた先程よりは緊張がとれて、ふうっと不二に隠れて溜め息を吐いた。
「やっぱり分野が変わると、難しくなるよね?」
夜道を歩きながら話しかけられる。
「僕、生物とか化学は得意なんだけど、物理はちょっと苦手かも」
「……そうなのか?」
不二と普通の会話が出来ていることに、手塚は安堵した。
「うん、……キミは得意そうだね?」
「嫌いじゃないが……」
「いいよな〜。僕は、エージといっつもぼやいてるよ。手塚とか乾が羨ましいって」
不二が首を振って笑う。
手塚は心に巣くっていた恐怖が軽減されたような気がして、肩の力を抜いた。
この間のことが、嘘のようだった。
目の前にいるのは、いつもの不二。
今まで、自分が接してきて、仲間だと思っていた不二だ。
……………良かった。
手塚はほっとした。












不二の家では、いつものように姉がにこやかに応対してくれた。
勉強を教えてもらうんだ、と不二が言うと、姉の由美子が申し訳なさそうに謝ってきた。
「ごめんなさいね、手塚君。周助、出来が悪いから、いっつもご迷惑かけちゃって」
「いえ、そんな事はありません」
弟思いの優しい姉と、穏和な不二。
この間のことは、きっとあの時だけの悪夢だったのだ。
あの時は、自分も、不二も、おかしかった。
------そうなんだ。
今ならそう思えるような気がした。
礼儀正しく返答すると、由美子が嬉しそうに笑った。
「手塚君みたいにいつもしっかりしてるといいんだけど、うちの周助も」
「姉さん、僕と手塚を比べないでよ。元々出来が違うんだから」
「そうね。……あら、ごめんなさい」
由美子にからかわれて、不二が姉を睨む。
その様子が微笑ましくて、手塚は小さな溜め息をついた。
-----大丈夫だ。
安堵感が広がる。
「じゃ、上がって」
不二に促されて、手塚は二階の不二の部屋へ入った。












部屋に入ると、バタン、とドアを不二が閉めてきた。
ドアの鍵をガチャリ、と掛ける。
「…………不二?」
突如不安がこみ上げてきて、手塚は不二に声をかけた。
「あーあ、いい子演じるのって、疲れるね……」
不二がドアに凭れて笑いかけてきた。
唇の端を少し吊り上げて、形良く笑う。
「不二…………」
突如安堵感が恐怖に置き換わって、手塚は後ずさった。
「あれ?…………怖がってる?」
不二が苦笑した。
「鈍いキミでも、やっと危機を察知したって訳かな?」
「………不二?」
鍵をぽんと放り投げて、不二が近寄ってきた。
「大きな音立てちゃ駄目だよ?……下に姉がいるからね」
「ふじ………」
後ずさると、ベッドに脹ら脛が当たり、バランスを失って、手塚はベッドに座るような形で尻餅を付いた。
そこに、不二が覆い被さってきた。
噛み付くように口付けをされ、手塚は恐怖で一瞬パニックに陥った。
「……よせっ!」
-------バシッ!
考えるよりも先に、手が出ていた。
不二を思い切り突き飛ばした形になり、不二が蹌踉めいて床に倒れる。
「痛いな〜。……乱暴だよ、手塚」
「なっ、なに言ってるんだ!」
「手塚……」
床に座った格好で、不二が上目遣いに手塚を見つめてきた。
薄茶色の瞳がすうっと上瞼に寄り、虹彩が細くなる。
ぞくりと悪寒が走って、手塚は身体を震わせた。
「随分威勢がいいね、手塚。……そんな事していいと思ってるの、僕に?」
「………なんだと?」
「キミはもう、僕のものなんだよ、手塚……」
三白眼の不二が、地底を這いずり回るような声で言ってきた。
「ふ……じ………」
「僕の言うことをなんでも聞かなければならないんだよ、手塚……」
「なに、バカな事………」
それは、この間のたった一回の契約ではなかったのか?
もう、約束は果たしたはずだ。
「一回だけだったはずだ……」
不二の視線から逃れるように顔を背けて言うと、不二が苦笑した。
「そう、あの約束は一回だけだよ」
「……………」
「だから、……帰ってもいいよ?………キミが僕の言うことを聞かないで、帰るっていうんならね………」
語尾が低く響いて、手塚はぞっとした。
「どうぞ、お好きなように、手塚」
目の前に鍵を差し出される。
「これで、ドアを開けて帰ればいい……」
銀色に光る小さな鍵。
手にとって鍵穴に差し込んで、そのままここから出てしまって、二度と戻ってこなければいいのだ。
そうすれば、この部屋から逃れられる。
------しかし。
手塚は動けなかった。
金縛りにでもあったかのように身体が硬直し、心臓だけがどきどきと鳴り響く。
不二が、怖かった。
もし、ここで帰ったら、どうなるんだ。
その後不二が何をしてくるのか、想像すらできなかった。
恐怖で体が竦む。
背筋を冷たい汗が滴り落ちる。
鍵を前に拳を固く握りしめて震えていると、不二が満足したように笑った。
「ちゃんと自分の立場が分かったようだね、手塚」
-----立場?
……………そうだ。
俺は、不二の言うなりにならなければならないんだ。
言うなりに…………。
------どうして?
分からない。
どうして、そうなったのか。
振り切って帰ることもできたのに。
こんな馬鹿なこと、やめろと言って、帰ってしまえば良かったんだ。
なのに、なぜ残っている?
不二なんか、殴れば俺が勝つのに。
なのに、なぜ、こんな立場に陥ってしまったんだ?
---------なぜ?





「じゃ、服を脱いで……」
薄く笑って、不二が次の命令を下してきた。
















すっかり不二のペースにはめられた手塚君なのでした