体育祭 《1》
青春学園中等部では、五月下旬に中間考査が終わると、一息吐く間もなく、体育祭に向けての準備が始まる。
体育祭は、1年から3年まで、学年対抗や全校対抗の競技種目が目白押しの、青春学園の行事の中でも秋の文化祭に次いで楽しいものだった。
1年生はクラス団結を目的に、2、3年生は上位入賞を目指して、それぞれの種目が行われる。
ダンスのような華やかな種目から、綱引き、騎馬戦のような団体種目、それから100メートル走などの個人種目まで、様々なメニューが催される。
広いグラウンドの周りに色とりどりの垂れ幕が掲げられ、梅雨前の明るい日差しの中、毎年賑やかに開催される行事である。
今年も、六月頭の日曜日に、体育祭は行われた。
その日は、朝から五月晴れで、晴れやかな青空と暖かな微風の吹く絶好の体育日和だった。「悪いわね、国光」
朝、弁当を渡されながら母親に申し訳なさそうに言われて、手塚は首を振った。
体育祭は、保護者も観戦する行事である。
我が子の活躍を楽しみにしている親が、必死で観戦場所取り争奪戦をするくらいだ。
しかし、今年は、手塚家では両親ともども親戚の法事が入ってしまって、せっかくの一人息子の体育祭だというのに、見に行けないことになってしまったのである。
「別に気にしないでいいよ、母さん」
済まなそうに自分を見てくる母親に、気にするなという風に手を振って、手塚は家を出た。
家から学校までは、バスで30分程度かかる。
バスの中で吊革に掴まって立ちながら、手塚は車窓の風景を見るともなく見ていた。
「おはよっ!」
10分ほど乗ると、そのバスに、見覚えのある人物が乗り込んできた。
「おはよう、菊丸」
菊丸英二である。
菊丸の家は、手塚の家と青春学園のちょうど中間地点にある。
いつもはバスに乗る時間が違うため、同じバスに乗り合わせることはないが、今日はたまたま手塚が家の用事を手伝っていたため、遅くなった。
そのため、菊丸が乗るバスに乗り合わせたらしい。
「手塚がこれに乗ってるなんて、珍しいね〜?」
人なつこい笑顔で菊丸が話しかけてきた。
「ねっ、手塚はさ、今日は何に出るの? オレは騎馬戦と玉入れと、それから学年対抗のリレー!」
寡黙な手塚を気にせず、一人でしゃべりまくる。
「手塚は?」
「……俺は、綱引きとリレーだ」
全員参加のダンスや個人走は別にして、団体種目は一人2種目程度出ることになっている。
「お、リレー出るんだ?」
菊丸が興味深そうに手塚を覗き込んできた。
「1組はさ、手塚と誰?」
「それは秘密だな」
学年対抗リレーは、体育の際の目玉である。
午前中に1年、午後の最初に2年、最後に3年のリレーが行われ、その時は、グラウンド中が沸き返る盛り上がりぶりである。
「手塚、速いからな〜、6組勝てないかな。……あ、でも陸上部の高山が出るからね、6組、ちょっと自信あるんだけどさ。でも、オレと不二も出るんだよね……」
どうやら菊丸の一番の関心事は、リレーのようだった。
それまで冷静に菊丸の言葉を聞いていた手塚は、菊丸の行った『不二』という単語に、心臓が跳ね上がるのを感じた。
不二………という言葉を聞くだけで、頬が赤くなるような気がする。
手塚は、不二と、他人にはとても言えないような関係になっている。
それもつい最近だ。
ついこの間、手塚は不二から好きだと告白され、自分でもよく分からないままに、身体の関係を持ってしまったのだ。
まだ、自分でも信じられない。
夢なんじゃないかと思うときもある。
しかし、不二とそういう関係になったという事は紛れもない事実で、手塚は不二との行為を思い出す度、羞恥と嬉しさが綯い交ぜになった、なんとも言えない気持ちになる。
不二と抱き合っているときの安心感。
不二の甘い声。
不二によって与えられる痛み。快感。
そんなものが一気に手塚の頭に再現されて、手塚は思わず身体を震わせた。
身体の芯が甘く疼いたような気がした。
「優勝候補は1組と5組と6組だと思うんだよね。……どう思う?」
菊丸に話しかけられて、手塚は甘やかな陶酔から我に返った。
「あ、ああ………5組じゃないか?」
5組には、陸上部員が4人もいた。
皆、短距離を得意としている。
「5組は陸上部が多いからな」
「そうだね。………やっぱ、優勝は無理かな?」
菊丸が腕を組んで考え込む。
真剣に考えている様子が微笑ましくて、手塚は表情を弛めた。
その日は少し動くと汗が滲むくらいの、良い日和になった。
1、2年のリレーも終わり、最後の種目、3年のリレーになる頃には、運動した興奮も手伝ってか、グランドは熱気に包まれていた。
リレー選手4人ずつ、12組48人が入場口に集まる。
賑やかな音楽が流れ、選手が入場すると、グラウンドが一斉に湧いた。
手塚は一番目、つまりスタートを受け持っていた。
「……あれ、手塚も最初なんだ?」
バトンを持ってスタート位置に行こうとして、手塚はぎくりとした。
不二が、6組のバトンを持って、にっこりと微笑んでいた。
「君と一緒か…………ちょっと厳しいな………」
茶色の髪を揺らして、ふふっと不二が笑う。
不二の顔を見ると、手塚はどうしても顔が赤くなるのを抑えられない。
他人にはそれと分からぬ程度でも、自分には十分体温が上がったのが分かる。
あれから……………関係を持ってから、未だにまともに不二の顔を見られないのだ。
「お手柔らかに頼むよ?」
不二が言ってくるのに、手塚は渋面を作って答えた。
他人の見ている前では、絶対に悟られてはならない。
自分が、不二を見てときめいていることなど。
12人が、コース毎に位置を変えて並ぶ。
クラウチングスタートの体勢を取って、手塚は地面を睨み付けた。
------パン。
選手達はピストルの音と共に、一斉に走り出した。
「フレーフレー、5組!」
「先輩〜、頑張れ〜!」
クラスメートや部活の後輩の応援が、グラウンドに木霊する。
自分の心の中のもやもやを振り切るように、手塚は走った。
一周走り終えて、2番目の選手にバトンを渡す頃には、手塚は12組の中で、陸上部の選手が走っている5組に次いで2位になっていた。
そのまま、バトンを渡して、待機場所に戻る。
はぁはぁと肩で息を切りながら、不二は、と振り返ってみると、ちょうど菊丸にバトンを渡して、不二がこちらに向かって歩いてくるところだった。
少々弾んだ息をしているものの、いつもの笑顔で、悠然とした風に歩いてくる。
「お疲れさま。速かったね、やっぱり……」
待機場所で座ると、不二がにこにこして話しかけてきた。
「君にかなう訳ないとは思っていたけど、やっぱり無理だったな」
他の生徒が見ている前で親しげに話しかけられると、どうしても恥ずかしさが先に立つ。
同じテニス部の部員同士が話しているだけだから、他人はなんとも思っていないに違いないのだが、手塚はまるで自分たちが、衆目の面前で、抱擁して、口付けを交わしているような、そんな恥ずかしさに襲われた。
「ああ〜、疲れた〜〜!」
その時、2番目に走っていた菊丸が、大きな声を上げながら、近付いてきた。
どうやら、走り終わったらしい。
コースを見ると、第3走者の激しい鍔迫り合いが続いていた。
「足イタ〜〜!」
菊丸が、手塚と不二が座っている所にやってきて、言いながらどたっと足を投げ出してきた。
「足を痛めたのか?」
「違うけど………でも、ちょっと筋肉使いすぎたみたい……」
「……どこだ?」
「……このへん……」
菊丸がふくらはぎの辺りを指さした。
珍しく、筋肉でも吊ったのだろうか?
手塚は菊丸のふくらはぎを触ってみた。
「……どうだ?」
「んーーーー……大丈夫かな……?」
筋肉を揉みほぐすようにマッサージする。
特に固くなったような様子はなく、心配は無さそうだった。
「手塚、うまいな〜〜。……もっとやって!」
気分が良くなったのか、菊丸が両脚を手塚の前に投げ出してきた。
幼い子どものような仕草に、手塚は苦笑した。
菊丸は、人なつこく素直で、誰にでも好かれる性格だ。
手塚も、菊丸と話していると、ほっとするような気になる。
苦笑しながら、菊丸の足をほぐしてやっていると、隣に座っていた不二が、すっと立ち上がった。
「…………?」
不二の行く先を見ると、アンカーの走者がゴールに向かって走ってくるところだった。
「やっぱ5組か〜……」
ゴールのテープを切って入ってくる走者を見て、菊丸がやれやれといった調子で言う。
「あ、でも6組が2番目っ!……手塚ッ手塚ッ6組ッッ!!」
2位でゴールインした走者を見て、菊丸が歓声をあげた。
「やった〜〜! 準優勝だ〜!」
1組は、と見ると、3位だった。
その後ぞくぞくと走者がゴールインし、リレーは無事終了した。
「そろそろ退場だな。菊丸、行くぞ?」
選手達が集まってくる。
菊丸に手を貸して立たせてやると、菊丸が疲れた〜と手塚に寄りかかってきた。
「こら………」
「だって、疲れたんだもんっ!」
猫のように甘えてくる菊丸に、思わず微笑が浮かぶ。
「エージ、こっちに並んで……」
その時、不二の静かな声がして、手塚は思わずどきりとした。
声のした方を見ると、不二が立っていた。
不二と目線が合いそうになった瞬間、不二が微妙に視線をずらしたので、手塚は不審に思った。
(不二………?)
「あっ、今行くよっ!」
菊丸が不二の方に駆け寄る。
クラス毎に整列して、選手達が音楽に合わせて退場する。
退場する間、手塚はずっと不二を見ていた。
いつもなら不二は、視線を感じると、自分の方を見てにっこりと微笑んでくる。それなのに、不二は、一度も手塚を見ようとしなかった。
不二が菊丸に嫉妬するという設定ですv