NIGHTMARE 
《1》












跡部が初めて忍足を見たのは、2年の秋の事だった。
ある日の放課後、いつものように部室に行って、正レギュラー用のロッカーの前で着替えをしようとブレザーを脱いだ所に、
「……よぉ」
と、見知らぬ少年が声をかけてきた。
氷帝のテニス部室は、小さな一戸建てぐらいの大きさがある。
そのくらい大きくなければ、200人もの部員を収納する事が出来ない。
もっとも、それだけ大きくても、200人全部はとても入りきれない。
しかも、完全に実力主義の氷帝は、正レギュラーと準レギュラー、それからただの部員と、3段階のはっきりとしたヒエラルキーがあり、正レギュラーはゆったりとした部屋にロッカーが1人一個ずつ、準レギュラーは正レギュラーよりは狭い部屋にロッカーが、そして、その他八割を占めるただの部員はロッカーも何もなかった。
その正レギュラーの部屋に見知らぬ少年が入ってきたのだから、跡部は眉を顰めて、その少年を睨みつけた。
氷帝の制服とネクタイの色から、同学年であると言うことは分かったが、全く見たことがない。
それに、代替わりをしてテニス部の部長になったばかりとはいえ、いくら部員の数が多くても、一人一人の顔はちゃんと覚えている。
その中にも見覚えがなかった。
しかも、態度が横柄だ。
氷帝の正レギュラーの部屋に入ってこられる人間は、正レギュラーと、それからこの部屋を掃除する部員だけである。
その部員とて、恐る恐る入ってきて、平身低頭で掃除をして出ていくのが関の山で、こんな風に堂々と、しかも部長たる自分に横柄な口をきく者などいない。
跡部が不機嫌になったのが分かったのか、少年は口元を少々上げてにやりと笑った。
「……ま、そう怒んなや、跡部はん」
微妙に自分とは違うアクセントと、言葉遣い。
そして、なぜか、自分の名前を知っている。
ますます訳が分からなくなって、跡部は胡散くさげに少年を見た。
彼は、すらりとした長身に、長めの黒髪を掻き上げて、眼鏡の奥から跡部を観察するかのように見据えてきた。
「今度テニス部に入ることになった、忍足や。氷帝に転校してきたばかりで、まだよう分からん事が多いんでよろしゅう頼むわ」
「……転校?」
「あぁ、こっちの監督はんに誘われてな。まぁ、ちょうど東京へ引っ越す用もあったんで、氷帝はんにお世話になることにしたんや」
(監督が…………?)
跡部は驚きを隠せなかった。
氷帝のテニス部監督の榊は、各地から有望な選手を調査して、スカウトしてくる事が多い。
同じような方法は、近隣では聖ルドルフ学園中でもやっているが、あそこほど力を入れていないにしろ、学年や学期途中で転校してくる人間は、今までにも何人かいた。
しかし、大抵は、テニス部に入部しても、氷帝の完全実力主義の前に精神的に挫折したり、あるいは技術はあっても氷帝の中では上位に入れなかったりと、転校してきても氷帝で成功した人間はいない。
「あ、オレなあ、このロッカー使わせてもらうことになったんや」
忍足がそう言って、一番端のロッカーを指さす。
虚を突かれて、跡部は彼が指さしたロッカーを見た。
忍と足という字を書いた二文字、これを忍足と読むのだろう、それがロッカーに貼ってあった。
そこは昨日まで正レギュラーの有島のロッカーだったはずだ。
「監督はんがな、オレにここ使え言うて。まぁ、そういうわけや、よろしゅう」
監督直々に、自分に断りもなくこいつを正レギュラーに?
「オレは、跡部はんの顔しか分からんのや。いろいろ教えてな?」
監督が、最初から正レギュラーに指名すると言うことは、よほど実績があるのだろう。
思わず表情が険しくなった跡部に、忍足はにっと笑いかけた。
「オレ、こっち来てよかったわ。跡部はん、仲良うしてや」
「呼び捨てでいい」
変な敬称を付けられると、妙に居心地が悪い。
眉を顰めたまま吐き捨てるように言うと、忍足が面白いものを見つけた、というように瞳を細めた。
「そうか、ほなら跡部と呼ばせてもらうわ」
言いながら、忍足は跡部の手を握ってきた。
不意に右手を握られて、跡部はぎょっとした。
忍足の手は、跡部よりも大きく節くれ立って、ごつごつとしていた。
近くまで来ると忍足は、跡部よりも背が高かった。
少々見上げるような形になって、間近で見ると、眼鏡の奥の瞳が、猛禽類のように鋭く自分を見つめてきた。
思わずびくり、とすると、忍足がくすっと笑った。
「アンタ、美人やなあ。ここのほくろ、たまらんわ」
忍足の左手が、自分の右頬にある黒子をつん、と押してきたので、跡部は更に驚いた。
そんな事をしてくる人間など、この氷帝内には誰もいないからだ。
びっくりして目を見開いたまま動けないでいると、さっと握手していた手を離して、忍足が、
「ほな、今日から練習頼むわ」
と言って、自分のロッカーに戻って、着替えを始めた。
すっかり忍足のペースに巻き込まれて、跡部がはっと気付くと、忍足は既に着替えを終えて出て行くところだった。
「先にコートで待っとるで?」
関西弁で話しかけられると、どうもバカにされているような気がする。
軽く舌打ちをして、跡部は自分も着替えを始めた。














氷帝のテニス部は、運動部なら多少なりともあることだが、部内の上下関係が非常に厳しかった。
完全な実力主義で、年齢には全く関係なくレギュラーが決定される。
氷帝を東京都一、更には全国レベルのテニス部に育成した、監督の榊の方針でもある。
私情を挟まず、冷酷に選手を入れ替える榊の前に、実力のある部員は奮起をし、実力のない、あるいは遊び意識で入ってきたような部員はどんどんやめていった。
それでも氷帝のテニス部は、いつも200人前後の部員をかかえる巨大な部であった。
氷帝学園の中では、部の予算も破格に多い。
そのほか、保護者やOBからの援助もあって、潤沢な予算と豊富な資金で施設等も充実している。
しかし、何人いようと、正レギュラーになれるのは、8人だけである。
200人の中の8人。
その、更に頂点が、跡部だった。
一年の時から正レギュラーの座を獲得していた跡部は、2年の秋になって3年生が引退すると、そのまま部長になった。
小学生の頃からテニスで勇名を馳せていた跡部は、中学入学の際に、有名テニス部を持つさまざまな中学校から誘われた。
その中で氷帝にしたのは、やはり氷帝の完全実力主義が気に入ったからでである。
基本的に跡部は、他人と馴れ合うのが嫌いだ。
人間とは、自分よりも上か下しかいない。
もし上の人間がいれば、そいつを追い越すために努力をするし、下の人間は自分が使う。
そういう考えである。
対等の友人がいない、とも言えた。
もともと、裕福な上流階級に生まれているだけに、人を使うことには慣れている。
氷帝学園自体、裕福な家庭の師弟が多いのだが、その中でも跡部は、他人の頂点に立つのが自然な人種だった。
外見も良い。
色素が薄く、色白で、整った顔立ちにバランスのとれた、しなやかな肢体。
成績も良く、テニスは氷帝内で一番という事になれば、自然と、彼と対等に話をするクラスメートや部員はいなくなる。
心の底では跡部を憎らしいと思っている輩も多いだろうが、そんなもの、言って見れば負け犬の遠吠えだ。
そう思って、跡部は気にもかけていなかった。














そんな風に氷帝テニス部の中に君臨していた所に、忍足が現れたのである。
その日の部活で、榊から忍足が紹介された。
「今日から正レギュラーになった忍足だ。忍足にとりあえず向日とダブルスを組んでもらう」
榊の声に、誰も異を唱えなかった。
忍足が来たせいで正レギュラーから外された有島も、俯いてじっと耐えている。
面食らったような向日も、榊の言葉には頷くしかない。
「忍足侑士や、よろしゅう」
正レギュラーと準レギュラーが整列する前で挨拶をした忍足は、おどおどした様子や人見知りをするような様子は微塵もなく、悠然としていた。
途中入部の人間というのは、だいたいが、隠そうとしていてもどこか怯えが出るものである。
それが、ない。
しかも最初から正レギュラー。
部員たちの忍足を見る目は、最初から畏敬の念を含んでいた。
跡部は榊の脇に立って、そんな忍足をじっと見ていた。
「跡部、忍足の事、よろしく頼むな」
「……はい」
榊が他人の世話を跡部に頼んでくることなど、まずない。
跡部はそれにも驚いた。
よほど忍足は有望な人間なのだろう。
忍足がダブルスの方に入るというのを聞いて、心の片隅でほっと安心した自分が、跡部は忌々しかった。














忍足は、一見態度が横柄に見える割には意外に明るく、誰とでも話ができるようで、たちまち氷帝テニス部員と仲良くなった。
クラスの方でもうまくやっているらしい。
あの関西弁が剽軽な感じを与えるのか、ダブルスを組むことになった向日などはすぐに忍足と仲良くなって、笑いながらふざけあったりしている。
そして、忍足は確かにテニスが抜群にうまかった。
うまいなどというレベルではなく、転校してきて早々正レギュラーになるだけの事はあった。
シングルスの方に来ても、全く遜色がない。
実力で言えば、自分や樺地や芥川に勝るとも劣らないだろう。
忍足の練習を見ながら、跡部は心の中でそう思った。
勿論、自分のほうが実力が上なのは明らかではある。
跡部は非常な努力家であった。
もともと恵まれた才能の上に、人知れず努力を重ねている。
他人をよく観察し、プレイの弱点を研究することも怠らない。
だから、もし忍足とシングルスの試合をしても決して負けたりはしない。
忍足だって、跡部の方が実力が上なのは、すぐに分かったはずだった。
それから、跡部がテニス部内でどのような地位にいるかも。
跡部に対しては、皆が恐縮して、言葉を選ぶ。
自分がこの部内で君臨しているという事が分からないわけではあるまいに、それなのに、忍足の言葉使いは、最初に会った時と全く変わらなかった。
呼び捨てでいいと言った後は、跡部跡部と気安く話しかけてきて馴れ馴れしい。
自分がむっとしているのが分かっているはずだが、そんな表情を見せると、揶揄うように更に馴れ馴れしく話しかけてくる。
「そんな顔すると、美人がだいなしやで?」
レギュラー陣の前でそういう事を言われて、跡部はますます渋面を作った。
他の部員達は、そんな跡部を見てひやひやしている。
もっとも、そんななめた口を聞くのは後にも先にも忍足だけで、他の部員は誰も恐れて真似しようとしない。
忍足は特別だと思っているらしい。
いたとしたも、勿論そんなやつは許さないが。
とにかく、忍足だけは、睨んでも何を言っても通じないので、さすがに跡部もあきらめてしまった。
もともと、関西弁をしゃべるやつも1人しかいないし、まぁ、そんな奴の1人ぐらい、気にすることもあるまい。
そう思って、適当にあしらうことにした。
そういう跡部の気持ちを知ってかしらずか、忍足は相変わらず馴れ馴れしく話しかけてくる。
他の部員たちが、そんな忍足を許容しているのが、跡部にとってはやはり面白くなかった。














忍足がテニス部に入ってきてから、数カ月は何事もなく過ぎた。
そんな、ある冬の日のこと。
いつものように部活を終えて、跡部はロッカーで着替えを始めようとしていた。
その日が、跡部にとって、悪夢のような日になることも知らずに。

















大嘘関西弁(滝汗)すいません、根っから茨城県民なので、関西弁分かりません。
それから氷帝の様子とか忍足の経歴とか適当に捏造しました。