不如帰 《2》
部活中、表向きはいつもと同じように、変わりなく振る舞っているものの、手塚が本当は元気がないことに、菊丸は気付いていた。
いつもの端正な表情でてきぱきと指示は出しているが、時折こっそりと小さく溜め息を吐いたり、悲しげに瞳を伏せたりする。
そんな手塚を見ると、菊丸は無性に不二に対して腹が立ってきた。
なぜ手塚に元気がないか。
その原因が不二なのだ。一週間ほど前にインフルエンザにかかって学校をずっと休んでいた不二が、その日から学校に出てきた。
朝、久しぶりに教室で不二に会って、菊丸は、
「久しぶりっ、不二」
と声を掛けた。
その時は、不二はちょっとやつれてはいたがにこにことして、
「エージ、おはよう」
と返した。
その時は全くいつもの不二だった。
「もうすっかり大丈夫なのかにゃ?」
「うーん、まだちょっと……身体がすっかり弱っちゃったからね。部活は休むよ」
「そうか。……でも、元気になって良かった」
そう言いながらしゃべっている所に、手塚がやってきた。
実のところ、手塚は不二がいない間も、毎日6組の教室にやってきていた。
不二が登校しているかどうか確認するためなのだが、手塚がやってくると、不二がいない分、菊丸は手塚といろいろと話が出来て嬉しかった。
いつもだったら、手塚は不二しか見ていない。
不二を見て、嬉しそうに、ほんのり頬を染めて話をしている。
その二人の中に、菊丸も入って話に加わることが多い。
が、手塚にとっては、菊丸はいてもいなくてもどうでも良い存在だっただろう。
それが、ここのところ不二がいないせいで、手塚は菊丸を見て話すようになった。
不二のいない寂しさを紛らわせるためか、菊丸が話しかけても嫌がらず、それどころか、手塚の方から話しかけてきたりする。
それが嬉しくて、菊丸は手塚の来訪を心待ちにしていた。
今日からは、不二がいるから、前みたいに自分に話しかけてきてはくれないだろうと思うと、一抹の寂しさがあった。
だ、それよりも、不二の姿を見た手塚がぱっと顔を輝かせたのが可愛らしくて、菊丸は不二に話しかけた。
「不二、手塚が来たよ?」
不二は、廊下に背を向けて座っていたので、手塚が来たのが分からない。
その不二に、廊下に行くように促しながら言うと、不二が眉を顰めた。
「……不二?」
「……エージ、手塚に言ってきてくれる? ちょっと今は話したくないから帰ってって」
「……ええっ?」
驚いて不二を見ると、不二は真面目な顔だった。
ふざけているわけでも揶揄かっているわけでもなく、真剣に自分に頼んでいるのが分かって、菊丸は困惑した。
「お願い、ちょっと今は駄目なんだ……」
「で、でも……」
「本当に困るんだ。僕から話しかけるまで、僕に近寄らないでくれって言ってきてよ」
「そ、そんな事、言えないよ」
「じゃあ、ちょっと待って」
不二は、机からルーズリーフを取り出すと、紙の一枚にさらさらと走り書きをした。
「これ、渡してきて」
「………」
「エージ、お願い」
二つに折り畳まれた紙を押し付けられ、困惑したまま、菊丸はそれを持って廊下に出た。
「手塚……」
不二が出てこないので、怪訝な表情をした手塚に、その紙を渡す。
「なんか、不二、ちょっと変なんだ。これ見てってさ」
「……………?」
菊丸から渡された紙を開いて読んで、手塚が表情を変える。
何が書いてあるのだろう。
さっき伝言してくれと頼まれた内容が、書いてあるのだろうか?
読んだ手塚が青ざめるのを見ると、菊丸は居ても立ってもいられなくなった。
「手塚………その、不二呼んでこようか?」
「………いや、いい……」
手塚が俯いて、紙を握りしめる。
それから、ふらり、と蹌踉めくようにして歩き出す。
「手塚………?」
手塚を追い返すなんて、一体、不二はどうしたんだろう?
ショックを受けたらしい手塚の後ろ姿を見つめながら、菊丸は疑問が心の中に広がっていった。そのまま、不二は授業を受けて、手塚にも会わず、部室にも寄らずにさっさと帰ってしまった。
部活には来るだろうと思っていたのだろうか。
菊丸が一人で部活に行くと、手塚が悲しげな色を瞳に浮かべたのを、菊丸は見逃さなかった。
一体、どういうつもりだろう
手塚をなぜ避けているのだろう。
不二の気持ちが分からない。
と同時に、不二が羨ましくも妬ましくもなった。
手塚をあんなに悲しませる事ができるのは、不二だけだ。
そう思うと、胸が痛くなった。「なっ、………気にすんなよ!」
部活が終わって、部員達が皆帰った後、部室で部誌を書いている手塚に、菊丸は話しかけた。
部室には、菊丸と手塚の二人しか残っていない。
二人だけなら、不二の話をしても大丈夫だろうと、菊丸は思ったのである。
手塚は、ノートから顔を上げて菊丸を見つめてきた。
眼鏡の奥の冴え冴えとした瞳に、悲しみと不安の色が浮かんでいた。
それを見ると、菊丸の胸はきゅん、と疼いた。
「不二さ〜、ちょっと風邪で疲れてんだよ。明日から部活来るって言ってるしさ。なに言われたのか知らないけど差、なぁ、元気出せよ〜!」
明るく励ますように言って、手塚の肩をポン、と叩く。
菊丸を見上げるようにしていた手塚の眉がきゅっと寄せられたかと思うと、次の瞬間、澄んだ焦茶の瞳から、ぽろっと真珠のような大粒の涙がこぼれ落ちた。
形の良い、少々下唇の厚いそれを噛み締めて、手塚が縋るように菊丸を見上げてくる。
「手塚………!」
たまらなくなって、菊丸は思わず手塚を抱き締めていた。
椅子ごと包み込むようにして抱くと、瞬時、手塚が身体をびくりと震わせて強張るのが感じられた。
構わず更に強く抱きすくめると、強張りが解け、菊丸に頼るかのように、手塚が身体をすり寄せてきた。
ほのかに淡く、手塚の匂いがした。
鼓動が一気に高まって、頭の上まで鳴り響く。
今、自分の腕の中に手塚がいる。
オレにすがってきている。
そう思うと身体中が熱くなった。
手塚に触れたい、抱き締めたい、と思いつつ、絶対にそんな事出来るわけないと思っていただけに、菊丸の心はざわめいた。
このまま、キスしてしまおうか?
今の手塚は、不安定で無防備だ。
強烈な誘惑が、菊丸を襲った。
手塚を自分のものにできるかもしれない。
………しかし、菊丸は、死にものぐるいでその誘惑を抑えつけた。
手塚は、オレのことを好きな訳じゃない。
手塚が好きなのは、不二なんだ。
不二が好きだからこそ、その好きな人に冷たくされて、こんなに落ち込んでいるんだ。
オレじゃ、不二の代わりにはなれない。
手塚は、不二しか見ていないんだから。
自分の腕の中で微かに嗚咽を漏らす手塚は、稚い幼子のように可愛いらしかった。
「大丈夫だって……!」
自分の衝動を無理矢理抑え、手塚の背中をそっと撫でる。
「……すまない……」
小さく掠れた声で言ってくる手塚が愛おしかった。
「いーーんだヨ! オレには何でも相談してよ、なー?」
おどけたように明るく言うと、手塚が涙で赤くなった目を上げて、菊丸を見て少し笑った。
---------可愛い。
胸がきゅっとなる。
切なくて、苦しくなる。
またいけない誘惑に負けそうになって、菊丸はブンブンと首を振った。
「大丈夫大丈夫! 明日は部活、がんばろっ!」
「………ああ……」
含羞むように目を瞬いて、手塚が笑う。
(……不二のヤツーー!)
こんな可愛い恋人に、何が不満なんだ!
オレだったら、絶対毎日優しくして、悲しませたりなんかしないのに!手塚と一緒に部室を出ながら、菊丸は心の中でそう思っては、不二に対して怒りがこみ上げてくるのを抑えきれなかった。
当分菊塚編です。