White Day 《1》
三月も中旬になると、東京はすっかり春めいてくる。
暖かな風が吹き、空気も湿り気を帯びて、柔らかな早春の雨が木々の芽を日一日と成長させていく。
氷帝学園中等部は、広大な敷地の至る所に常緑樹や落葉樹が左右対称を為して植栽されており、その造形の素晴らしさは地元でも有名だった。
跡部は、テニス部の正レギュラー用の部室の窓から、蕾が膨らみ始めた桜の大木を眺めていた。
開いている窓から入ってくる夕方の風も、ひんやりとしているとは言え、部活の後の火照った身体には、返って心地良かった。
ジャージを脱いでシャツを羽織り、ボタンを止めていると、
-----ガチャ。
とドアが開く音がした。
てっきり樺地だと思って振り向くと、
「……………」
そこには、眼鏡を掛けた長髪の男が立っていたので、跡部はほんのわずか眉を顰めた。
………忍足は、もう帰ったはずだが。
心の中でそう思いながら、忍足を見る。
忍足は、跡部や樺地よりも十分ほど先にコートから上がっていた。
既に制服にも着替えているし、テニスバッグも肩に掛けている。
何か、忘れ物でもしたのだろうか。
忍足が忘れ物をするというのも考えにくい………が、跡部はそう思った。
しかし忍足は、出口の一番近くにある彼専用のロッカーには行かず、一直線に跡部に向かって歩いてきた。
跡部のロッカーは、正レギュラー用の部屋の一番奥にある。
ずんずんと歩いてきて跡部の前に来ると、忍足はにっと笑って、バッグの中から青いリボンが掛けられた細長い箱を取り出した。
「アンタが来るの、待ってたんやで?……ほら、これ。………やるわ」
ぽん、と包みを手渡されて、跡部はびっくりしてまじまじと忍足を見た。
「……なんだよ?」
「今日、何の日か知っとるやろ?」
その日は3月14日だった。
14日と言えば、一応跡部も知っている。
ホワイトデーだ。
跡部自身は誰にもお返しなどやらないが、一ヶ月前の2月14日には、それこそ山のようにチョコレート等をプレゼントされた。
それに今日はクラスの男子達がそわそわして、女子にプレゼントを渡していたのも見ている。
しかし、忍足から何ももらう謂れのない跡部は、不審気に忍足を睨んだ。
「なんや、………忘れとるんか?」
跡部の様子を見て、忍足が苦笑した。
「アンタ、一ヶ月前に、俺にチョコレート、くれたやんか?」
「……オレが?」
なんでオレが?と言いかけて、跡部は心当たりを思いだした。
そう言えば、あまりにもチョコレートがたくさんありすぎて、部室のゴミ箱に捨ててしまおうかと何個か取り出していたところに、忍足が、
「なんや、捨てるんなら俺がもらうわ」
と言ってきたので、これ幸いと跡部は殆どを忍足に押し付けてしまったのだ。
--------あれか?
しかし、あれは言ってみれば体よく忍足にゴミを押し付けたようなものだ。
自分が買ったわけでも無い。
それを忍足は、自分が忍足に好意を持っていてやったとでも思っているのだろうか?
そんな風に思われているとしたら、とんでもない。
跡部はぷいと顔を背けた。
「気色悪いな、いらねえよ。だいたいあれは捨てようと思ってたもんだ。捨てるものをテメェにやっただけじゃねえか」
そう言って、忍足の反撃を待つ。
ところが忍足が何も言ってこないので、跡部は横目で忍足を盗み見た。
忍足は、虚を突かれたような、どこか傷付いたような表情をしていた。
(……………え?)
忍足がそんな表情をするなんて思ってもみなかっただけに、跡部は内心狼狽した。
「………そうか。……そりゃ悪いこと、したな……」
ぼそっと忍足が言って、力無くリボンのかかった箱をバッグにしまう。
そのまま気落ちしたような様子で、忍足は部室を出ていってしまった。
(忍足…………?)
まさか、忍足があんな反応を返すなんて。
あの、いつも人を喰ったような彼が。
まさか、………傷付いたのだろうか?
--------バタン。
ドアが開いて、出ていった忍足の代わりに樺地が入ってきた。
どうしたんですか?というように跡部の方を目で伺ってくる樺地に、
「いや、なんでもねぇ」
と跡部は慌てて首を振って着替えを続けた。帰宅してからも、跡部は妙に忍足のことが気になってしかたがなかった。
あんなヤツのこと、どうでもいいじゃないか。
と思う反面、本当に忍足が好意でわざわざプレゼントを買ってきてくれたのだとしたら-------あの彼がそんな事をするとは思えないが-------、その彼の滅多にない好意を踏みにじってしまったことになる。
他人に借りを作るのが嫌いな跡部は、どうにも気分が悪かった。
どうしようか。
このままでは気になって何も手につかない。
夕食を食べてしばらくして、跡部は忍足の家へ行って真意を聞いてみよう、と思った。
もし、忍足が純粋に好意で贈り物を買ってくれたのだとしたら、一応もらうだけはもらおう。
そう決めて、机の中から部員名簿を取り出し、忍足の住所を確かめる。
「……ちょっと出かけてくる」
留守を預かっている家政婦に告げると、跡部は忍足の家へ向かった。忍足の家は、都心にほど近い、JRの駅から歩いて数分の新築高層マンションの一室だった。
昨年完成し分譲販売されたばかりで、当時新聞一面を使った大広告の載った高級マンションである。
一階のエントランスを入り、常駐の管理人に自分の名前と忍足の家を告げると、管理人が内線で電話をして確認するのが見えた。
「………どうぞ」
電子ロックが解除され、跡部は自動ドアからマンションのホール内に入った。
エレベータに乗って、忍足の自宅のある36階まで上がる。
この高層マンションは40階建てで、下の5階まではテナントや病院等が入っており、6階以降が個人所有のマンションになっていた。
36階に上がり、エレベータを出て右に折れ、広い回廊を歩いて忍足の家まで行く。
インタフォンを押すと、あらかじめ管理人から知らされていたからか、忍足本人が出てきた。
忍足は大きめのTシャツに、スェット素材のズボンを穿いた、ラフな格好をしていた。
鋭い眼光はいつも通りだが、その中に、跡部の来訪の意を警戒して窺ってくる様子があった。
跡部は僅かに気後れした。
「……あ、あのな、…………さっきのやつ、もらってやってもいいぞ?」
何と言って話を切り出したらいいか分からなくて、跡部は単刀直入に切り込んでみた。
忍足が目を丸くして跡部を見、それからぷっと吹きだした。
「………なんや、……随分と偉そうな物言いやな」
「なんだよ。わざわざもらってやるのにテメェんちまでやってきてやったんだぞ?……悪いか!」
「……いや、別に、………アンタらしいわ。……ま、折角来たんやから、どうや、……あがっていかんか?」
跡部が来たことで機嫌が治ったのか、忍足が珍しくにこにこしながら跡部に手招きしてきた。
自分の方から仲直りのようにやってきたので断るわけにも行かず、跡部は室内に入った。
マンション内は、近代的な色調で配色されていた。
広い玄関から中に入ると中はメゾネット形式になっていて、忍足の部屋は、階段を登った上にあった。
案内されて彼の部屋に入ると、15畳ほどの渋いフローリングに、グレイ系でまとめられた品の良い部屋が広がっていた。
壁面二つが作りつけの本棚になっており、反対の壁面はクローゼットと大画面のテレビ、オーディオセット、それに、PC専用デスクや音響機材などが置いてあった。
残った壁面の一つに沿ってベッドが置かれており、その前にムートン地の厚めのカーペットと、やはりグレイ系のアール・デコ調のテーブルが置いてあった。
「侑士さん、お友達?」
忍足の母親だろうか、彼と顔はよく似ているが雰囲気がずっと物柔らかな中年の女性が、にこにこして顔を出した。
「あ、忍足君の友人で、跡部と申します。お邪魔してます……」
外面はいい跡部は、丁寧に挨拶をした。
「……ゆっくりしていって下さいね?」
にっこり笑ってそう言って、忍足の母親が出ていくと、忍足が面白いものでも見るように跡部をじろじろと眺めてきた。
「なんや、随分態度が変わるなァ? あんな風にちゃんとしてるとこ見ると、上品なおぼっちゃんやないか?」
「……オレはいつもちゃんとしてるぜ」
やっぱり、来るんじゃなかった。
そう思って、跡部は顔を顰めた。
だいたい、忍足と自分は性格が合わない。
忍足は、2年の秋に大阪から転校してきてテニス部に入ったので、まだ新参者だ。
部員達とはすぐに打ち解けて仲良さそうに話をしている忍足だが、跡部はどうも忍足の関西弁が癇に触った。
言外に馬鹿にされているような気がして、苛々するのだ。
特に忍足は、話をするときに、人を見下すような態度を見せる時がある。
他の部員達は気にならないようだが、跡部はそれが気になった。
もっと腰が低ければ、話をしてやってもいいのだが。
そういう訳で、忍足が転校してきて5ヶ月ほどになるが、二人っきりで話をしたことなど殆どなかった。
むっつりしたままカーペットの上に座っていると、忍足が階下からコーヒーと茶菓子を持ってきた。
勧められて飲みながら、跡部は考えた。
とりあえず忍足に借りを作らないように、もらうものだけもらってしまえばいい。
早いところ用件を済ませて、さっさと帰ろう。
そう思って、コーヒーを啜りながら、
「さっきのやつもらってやるから、出せよ」
と忍足に言う。
忍足が、やれやれといった感じで苦笑して、机の脇に放り投げてあったバッグの中から、先程の箱を取り出した。
「……ほな、もらってや?」
銀色の包装紙に、青いリボンのかかった細長い箱。
手に持つと重さがあり、食べ物ではないようだった。
「なぁ、開けてみ?」
忍足に促されて、跡部はリボンを解いて包装紙を破った。
紙の箱が出てきて、それを開けると、更に透明なプラスチック製の箱が二重に入っていた。
それを引き出して、跡部は絶句した。
「な、なんだよ、これ………」
長い棒のような形の、先が透明で括れた器具が入っていた。
それは、性具だった。
いわゆるバイブレーターである。
それも、一般的な、男根を形取ったものではなく、先端が団子状に細くくびれた特殊なものだった。
「これ、アンタに使うてもらえたらって思うてな」
忍足がにやにやしながら跡部に囁いてきた。
「尻専用なんや、どうや?」
忍跡でホワイトデーというのはどうかと思ったんですが、ちょっとアダルトな中学生忍足君(笑)ということで。