『今日の午後8時。青春台第3公園』
次の日の月曜日、登校した不二に、菊丸は挨拶もせずに、それだけを書いた紙切れを突きつけた。
「…………なに、エージ?」
訝しげに眉を顰める不二をきっと睨むと、菊丸はくるりと踵を返した。
そして、その日はもう二度と不二に近寄らなかった。










不如帰 
《6》

















夜の公園は、冷たい風が吹きすさび、街灯に照らされた遊具が、廃墟のように不気味に聳え立っていた。
しんと静まり返って幽霊でも出そうなその一角に、菊丸は立っていた。
午後7時50分。
まだ夜更けというわけでもないのに、公園には人っ子一人いなかった。
寒いせいだろうか、昼間はよく見かける野良猫も、一匹もいない。
菊丸は着てきたジャンパーの襟を立てて、公園の入り口に立っていた。
菊丸がこの公園に到着したのが45分過ぎなので、まだこの公園に来てから数分しか経っていない。
しかし、緊張しているせいか、もう随分と長い時間、この公園で待っている気がした。
ひゅうっと乾いた風が吹いて、かさかさと誰かが捨てていったゴミが地面を転がっていく。
まんじりともしないで、じっと立っていると、街灯に照らされて、地面に黒い影がすっと動いた。
はっとして顔を上げると、公園の入り口に人が立っていた。
すっと音もなく歩いてきて、菊丸の前で立ち止まる。
「なんだい、わざわざ、こんな所まで呼び出して。僕病み上がりなんだよね。寒いところにあんまりいたくないんだけど………」
菊丸が口を開くよりも早く、不二がいかにも困っているというような調子で言ってきた。
「何か言いたいことがあるんなら、早く言って」
確かに、まだ身体の調子が良くないのだろう。
不二は、厚手のコートを着、首をマフラーですっぽり覆っていた。
「……で、何?」
菊丸が黙っているのに焦れたのか、不二が苛々した調子で菊丸に問い掛けてきた。
「オレ……………手塚と寝たよ」
菊丸は、不二の目を見据えて、はっきりと言った。
不二がどんな反応をするか、この目でしっかりと見ておかなければ。
そう思って、絶対に不二から目を離さず、不二の視線を捉えたまま言う。
瞬時、不二が表情を凍りつかせた。
ほんの数秒だろうが、不二の瞳がかっと燃え上がり、菊丸を射殺すかのような強さで見返してくる。
菊丸は、拳を握りしめて、その不二の目を睨み返した。
ややあって、不二が力無く視線をずらした。
何度も目を瞬かせて、困惑したように視線をあちこちに移している。
「そう…………」
しばらくして出てきた声は、掠れていた。
「………で、言いたい事って、それだけ?」
「……不二!」
不二が軽く溜め息を吐いて、菊丸を横目で眺めてきた。
微妙に視線をずらしながら、どこか遠くを見ているような目で。
「僕、帰るよ。寒いし………」
「不二、……いいのかよ!」
不二がくるりと踵を返して帰ろうとしたので、菊丸は怒りで目の前が赤くなった。
不二の腕を掴むと、乱暴に自分の方を向かせる。
「………なんだよ」
「いいのかよ! オレが手塚取っても、いいのかよ、不二!」
噛み付くように言うと、不二が眉を寄せて、顔を背けた。
「別に………手塚は僕のものじゃないから。いちいち僕に許可取らなくていいよ。手塚がキミと寝たんだって言うんなら、キミの方がいいんだろ、手塚……」
吐き捨てるような調子で言われて、菊丸は怒りのあまり、無意識に手が出ていた。
バシッ!
気が付いたら、渾身の力で不二に殴りかかっていた。
「--------ッッ!!」
出した拳が、不二の左頬に当たったらしい。
不二が呻きながら、地面に転がった。
菊丸は、倒れた不二の身体の上に馬乗りになって、不二のコートの襟を思い切り掴み上げた。
「………痛っ!!」
口の中が切れたのだろうか、不二の唇に血が滲んでいた。
「手塚は、手塚は、おまえのことが好きなんだぞ、不二!」
両手で不二の襟を掴んで揺さぶりながら、菊丸は叫んだ。
「手塚は、オレのことなんか好きじゃない! おまえのことしか好きじゃないんだ。
 おまえに冷たくされて、手塚がどんなに苦しんでいたか、おまえだって分かっているんだろ!
 なんでそういう酷いコトするんだ! 
 手塚をそんなに苛めたいのか?おまえ、手塚のこと好きじゃないのか?」
「………離せよ………」
喚きながら何度も不二を揺さぶると、不二がごほごほと苦しげに咳き込みながら、小さな声でそう言ってきた。
「……駄目だ! おまえが手塚に謝って仲直りして、手塚を大切にするって約束しなくちゃ駄目だ!」
「エージ…………言ってることが変だよ?」
不二が弱々しく菊丸の腕を掴んできた。
「お願いだから、離してよ。これじゃあしゃべれないよ……」
不二が本当に苦しそうなのに気が付いて、菊丸は不二の首を掴んでいた手を離した。
けほけほと何度も咳き込んで、殴られた頬をさすりながら、不二が上半身を起こす。
「エージ、手塚と寝たんだろ?……だったら、手塚だって、エージの事好きなんじゃないのか?」
「……違うよ! なんで、そういう考えになるんだよ!」
不二の言葉にまたかっとなって、不二に掴みかかろうとすると、不二がやめてくれというように弱々しく首を振った。
「手塚はさっ、手塚はおまえの事しか好きじゃないんだ!
 おまえに冷たくされて、ものすごく落ち込んでて、誰か側に付いててやんなくちゃ、どうなっちゃうかわかんないほど落ち込んでたんだ。
 オレは、その手塚につけ込んで……手塚を抱いたんだ。
 手塚の意志じゃない。無理矢理だよ。手塚が望んだんじゃない。
 だって、手塚は……不二のことしか考えてないんだから。……オレに抱かれてたってさ。 ……なあ、不二、どうして突然冷たくなったんだ? おまえら、この間までラブラブだったじゃないか? 手塚のこと、嫌いになったんじゃないんだろう?」
最後の方は、不二の顔を覗き込みながら、囁くようにして言っていた。
不二が、頬をさすりながら、菊丸をじっと見上げてきた。
「………手塚の事は、……好きだよ……」
「じゃ、じゃあ、なんで?」
「エージ、キミだって手塚の事好きなんだろう? だったら、分からないか?」
「……何が?」
「いくら手塚を好きでもさ、手塚の気持ちがもし離れていったら…………どうしようもないんだ……」
「……えっ?」
「僕はね、エージ……」
不二が俯いて話を始めた。
「風邪で一人で寝てるときに、いろいろ考えたんだ。
 僕はこうやって一日中手塚の事を考えているけど、手塚はどうなんだろう?
 きっと手塚は学校でいろんな人と話をして、僕の事なんて忘れてるんじゃないかな?
 それだけじゃない、僕が手塚を好きなように、手塚を好きなやつはたくさんいる。
 エージ、きみだってそうだろ?
 手塚がいくら今は僕を好きでも、もしかしたら突然他の人に心を移すって事だってあるだろ?
 僕、手塚から別れてくれって言われたらどうしよう、生きていけないって思っちゃったんだ………」
「不二………」
「そう思ったら、ものすごく苦しくなって。
 手塚を朝から晩まで、24時間自分のものにしておくのなんて不可能だなって。
 本当は僕としかしゃべらないでほしい。ほかのヤツなんかと話さないで欲しい。
 ………でも、そんな事無理だ。
 僕はそんなに手塚を縛り付けるような人間になりたくない。
 でも、もし手塚が僕じゃなくて、他のヤツに心を移したら、と思うと不安で不安でたまらなくなったんだ。
 そういう事を考えながら手塚と付き合うことなんて、できない。
 ……だったら、僕が手塚から離れればいいんだ。手塚を振ればいいんだ。
 ……そう思ったんだ。
 そうだろう、エージ、おまえだってそう思うだろう?
 どうだった、手塚と寝て。
 一度寝て、もう二度と離したくないって思ったろう?
 手塚が他のヤツを話したりしていると、頭に来るだろ?」
「オ、オレは………」
「手塚を独占して、自分だけのものにしておきたいって思うだろ?」
「それは、………好きになったら、そう思うのは当然だろ?」
「……でも、手塚は僕一人のものにはならないよ……」
不二が、俯いて地面を見つめた。
「それに、僕、そんな手塚を愛していけるほど、心が広くない。手塚はさ、僕には荷が重すぎるよ。それがよく分かったんだ。風邪で寝ている間にさ……」
「不二…………」
「エージ、おまえだったら、手塚の事幸せにしてあげられるんじゃないか?」
不二が菊丸を見つめてきた。
「おまえだったら、きっと僕みたいに、嫉妬でさ、自滅したりしないと思うよ……」
「何言ってるんだよ! だって、手塚は、おまえの事しか好きじゃないんだぞ? なんで、手塚のこと、信じてやれないんだよ!」
「……信じてるよ、今の所はね……」
「今はっておまえ、ほんとに自分の事しか考えてないのかよ! 自分が傷付くのがそんなに怖いのか!」
「怖いよ……」
「手塚を幸せにしてやるよりも、自分の幸せが先なのか!」
「……そうだよ。僕はそういう人間だもの………」
不二が静かに言ってきた。
「不二………」
「僕にあんまり期待しない方がいいよ、エージ。手塚はキミにあげる。もう、僕はいい」
「な、なに言ってんだよ、不二……」
菊丸は、自分でもどうしたらいいのか分からなくなった。
確かに、菊丸は手塚が好きで、本当に好きで、手塚が自分の方を向いてくれたら、と心の底から願っている。
しかし、いざ面と向かって不二から手塚をやる、手塚と別れる、という言葉を聞くと、なんとも言いようのない憤りがこみ上げてきた。
「………じゃあ、僕帰る。もう、乱暴なことはやめてよね?」
起きあがった不二が、肩を竦めて、小さく溜め息を吐いてそう言う。
「不二………」
「じゃ、また明日。学校では怒らないでよ、エージ、頼むね?」
不二が軽く右手を挙げて、さっと歩き出す。
今度は菊丸は、不二を引き留められなかった。
不二が公園から出ていって、広い公園に菊丸一人がのこされる。
ヒュウッ。
と、冷たい北風が吹きすぎて、菊丸の髪を乱した。
不二の出ていった方向を見つめたまま、菊丸は寒い公園に立ちつくしていた。














次の日。
菊丸が学校に着いた時、既に不二は登校していた。
少々左頬を腫らした不二が、教室の中に入って来た菊丸を見て、いつも通り、にっこりと笑って挨拶をしてくる。
「エージ、おはよう」
「あ、ああ、おはよう………」
いつもの不二だ。
にこにことして人当たりが良くて、穏やかな雰囲気の。
ついこの間までこんな雰囲気で、隣に少々しかめっ面をした手塚が立っていて、そんな手塚を優しく見守りながら、不二が笑いかけていたものだったが。
「エージ、昨日の話だけど……」
不二を伺うようしながら菊丸が自分の席について、勉強道具をテニスバッグから取り出していると、不二がつかつかと近寄ってきた。
「……な、なに?」
不二が何を言ってくるのか分からず、恐る恐る不二を見ると、不二が表情を和らげた。
「昨日言ったこと、本当だから。僕、自分から手塚に言うよ」
「……不二?」
「今日さ、ちゃんと手塚に言う。もう、キミとはつき合えないって」
「不二……」
「それに関しては、もう誰の意見も聞かないよ。エージ、いいね? 僕はもう決めたんだ」
「で、でも……」
「とりあえず、僕の気持ちだけ言っとく。キミはキミで、自分の思うように動けばいい。………ね?……じゃあ、もうこの話は終わり。
 ねえ、エージ、休んでいた間の分のノート見せてよ?」
突然声の調子を変えて、不二が明るく言ってきた。
もう、手塚の話はしない。
そう断言されると、菊丸は何も言うことが出来なかった。
もともと不二は柔らかな雰囲気はあるが、非常に意志が固く、一旦意志が固まると、菊丸だろうが手塚だろうが、不二のそれを変える事などできないのだ。
不二がそう決めたのなら、もう、オレは何も言えないかも知れない。
あとは手塚がどうするか見守るだけだ。
……菊丸は、そう思うしかなかった。














その日、不二は、昼休みに1組の教室まで行って手塚を呼びだし、彼に別れることを告げたらしい。
休みの終わりの鐘が鳴って、教室に戻ってきた不二は、ふっきれたようにすっきりとした顔をしていた。
熱心に授業を受け、休み時間には級友と親しげに話をする、いつも通りの不二に戻っている。
手塚はどうしただろう。
菊丸は、手塚のことが心配でならなかった。














授業が終わって、掃除もそこそこに部活に行くと、大石と乾が部室で着替えをしていた。
「エージ、早いな」
大石が、部室のドアを開けて入ってきた菊丸に、にこにこと声を掛ける。
「う、うん。………あのさ、手塚は?」
部長の手塚は、生徒会の仕事も多く、部活に出てこないこともある。
今日はどうしただろう。
そう思って副部長の大石に尋ねてみると、大石が、困惑したような調子で言った。
「手塚さ、今日早退したんだ」
「……えっ?」
「なんか、調子が悪いんだって。午後から早退。そういうわけで、部活は俺と乾で指導するよ」
「そう………なんだ…………」
手塚が早退。
それも午後から。
そう聞いて、菊丸は胸が痛くなった。
きっと、不二に別れを告げられて、そのショックから早退したんだろう。
勿論、あんなに不二の事を好きだった手塚だから、その不二から別れを告げられたらショックなのは分かる。
しかし、それで学校を早退してしまうほどだったのか、と菊丸は今更ながらに愕然とした。
手塚は、たとえ悩みがあっても、そういう事で学校や部活動などを休むような人間ではなかったからだ。
手塚は、テニス部の部長以外に、生徒会の副会長もつとめている。
いろいろと責任の重い立場にいる。
だから、その立場を放り投げて帰ってしまうなど、よほどの事がない限りあり得ない。
というよりは、今までそんな事は一度もなかった。
「手塚、風邪かな? 珍しいね……」
乾が、ロッカーの戸を閉めながらそう言った。
「鬼の霍乱ってやつかな?」
「強いのに珍しいな」
「ま、手塚がいなくても、ちゃんと部活やらなくてはね」
「そうだな」
バタン。
その時、部室のドアが開いて不二が入ってきた。
「エージ、行くの早いよ〜」
不二は、菊丸と一緒に部活に来るつもりだったらしい。
既に中で着替えている菊丸に向かって、拗ねたような物言いをした。
「不二、もう風邪治ったのか?」
大石がにこにこしながら話しかけてきた。
「うん、もう大丈夫。休んで迷惑かけてごめんね」
「いや、治ればいいんだ。なんか手塚も風邪みたいで、今日、早退してるからさ」
「えっ、そうなの?」
不二が、ほんのすこし眉を寄せた。
「ああ、珍しいよな」
大石と話をする不二の顔を、菊丸はじっと見つめた。
どんな反応をするだろうか。
昼間会って、手塚が風邪を引いていないことは分かっているはず。
自分の言葉が原因で、手塚が帰ったのだと分かるはず。
しばし眉を寄せていた不二が、表情を弛めてにっこりした。
「手塚だって、たまには風邪も引くよ。僕が移したのかな〜?」
「そんな事はないだろう? 手塚は強そうだから大丈夫さ。さぁ、部活やろう」
大石が不二に笑いながらそう言う。
「じゃぁ、俺達先行ってるから、すぐ来いよ?」
そう言って、乾と大石が出ていくと、部室には菊丸と不二だけになった。
「不二………手塚さ………」
「エージ、その話はなし!」
言いかけたところで、ぴしゃっと不二に遮られて、菊丸はぐっと押し黙った。
「……僕だって、随分考えて出した結論なんだ。あとは手塚の問題だよ」
不二が、茶色の薄い瞳で菊丸を見据えながら言ってきた。
静かな、それでいて断固とした言葉の調子に、菊丸は言いかけた言葉を飲み込んだ。
自分でも、どうしていいのか分からなかった。
不二が手塚と別れると決めて、そして実際にそう言ってしまったからには、自分の出る幕ではない。
それに、不二は本当に考え抜いて結論を出したようで、それに自分が口出しできるわけもない。
元々、手塚と不二の間の問題なのだから。
でも。
でも、手塚はどうするんだろう。
手塚に会いに行ってみようか。
いや、きっと手塚は、今は誰にも会いたくないに違いない。
オレが行って慰めたって無駄だろう。
「……さ、エージ、テニステニス!」
「………うん…………」
不二ににっこりと微笑まれると、どうしていいか分からなくなる。
菊丸は小さく頷いて、不二と一緒に部室を出た。

















菊塚編その5 第1部終了です。