不如帰 《7》
第2部
--------君とはもう、付き合えない。
別れたいんだ。あの時。
不二の声を聞いた時の、衝撃。
いくら忘れようとしても忘れられず、それどころか、ふっと気を緩めると、あの時の不二の声が、頭の中で何度も何度も再現される。
手塚は自室のベッドに仰向けに横たわって、ぼんやりと天井を見上げていた。あの日、不二が昼休みに教室に来て、ちょっと話があるんだけど、と言われて、二人で屋上まで上がっていった。
久しぶりに話しかけてきた不二は、いつもの不二だった。
----------好きだよ
君が好きなんだ………
昔、不二に初めてそう告白された時の、その時の不二と同じだった。
「手塚………」
低くふんわりとした甘い声音で自分の名前を呼んで、そっと唇を寄せてくるあの時と同じだった。
だから、油断した。
まさか、不二があんな事を言うなんて。
-------想像もしなかった。
不二が自分を呼び出したのは、きっと、それまでの誤解を詫びるためだろう。
ごめんね。
そう言ってくれるんだろう。
そんな風に思っていた。
屋上で、冷たい風が吹いてくる中で、不二はじっと自分を見つめてきた。
静かな瞳だった。
静かだけれど、もう、決めたんだ、というような、有無を言わせない口調だった。
理由を聞くこともできなかった。
ただ呆然と立っていると、
「………さよなら。でも、これからはいい友人として付き合ってね……」
にっこりと笑ってそう言われた。
「……じゃ、部活で」
そう言って、階段を下りていく不二の後ろ姿を、手塚は呆然と眺めた。
冷たい風が吹きつけてきて、5時間目の始まりのチャイムが鳴って、やっと気付いたときには、もう随分時間が経っていた。
不二に言われた言葉が、まだよく理解できなかった。
いや、言葉は分かる。
言っていることも分かる。
自分が不二に振られたのだという事も分かる。
でも、どうしても、そこから先に頭がついていかなかった。
俺は、どうしたらいいんだ。
不二と、もう話せないのか?
いや、違う。
話は出来る。
だって、いい友人として付き合ってくれと言われたんだから。
友人。
ただの友人。
そんなものに、戻れるのか。
俺は、不二の事が好きだ。
もう、不二は二度と俺を抱いてくれないのか。
俺に、好きだとも、愛してるとも、言ってくれないのか。
…………そうなのだ。
もう、二度と。
二度と不二とは、触れ合ったり抱き合ったりできないのだ。
もう、二度と。
永遠に。「手塚………どうしたんだ?」
よろよろと歩いている所を、授業に向かう途中の教員に見とがめられた。
「あ、……はい……」
「体調が悪いようじゃないか?」
ふらふらしている手塚を見て、年若い男の教諭が眉を寄せる。
「熱でもあるんじゃないか?」
そう言われると、背中がぞくぞくするような悪寒に見舞われて、手塚は苦しげに息を吐いた。
「おい、担任の所へ行こう」
いつもしっかりとしている手塚がふらふらしているのを見て、驚いたのか、その教員は、手塚を職員室の方へ引っ張っていった。
職員室に行って、担任に会うと、担任も手塚の様子に驚いたようだった。
「おまえがこんな風になるなんて、よっぽどだな。すぐ帰った方がいいな。うちの人に来てもらうか?」
「いいえ、大丈夫です。帰れます」
「気を付けて帰れよ」
担任の気遣いの言葉さえもが、手塚には辛かった。
教室から荷物を取ってくると、手塚はふらふらする身体を漸くのことで支えながら校門を出た。
そのまま、重い足取りで俯いて帰宅する。
帰宅すると、学校から連絡が行っていたのか、母親が心配そうな顔をして待っていた。
着替えて、ベッドに入って熱を計ると、37度5分ほどあった。
お医者さんに行く、と聞かれて、手塚は首を振ってベッドに潜り込んだ。
家にあった市販の風邪薬を飲んで、布団を頭まで被る。
眠ってしまいたかった。
何もかも忘れて、眠ってしまいたい。
不二のことも。
不二に言われたことも。
今まで楽しかった不二との思い出も、何もかも。
布団に潜って、初めて手塚は涙が出てきた。
それまでは呆然としていて、涙も出なかったのだ。
一度涙が出ると、堪えきれなくなる。
布団の中でシーツを強く掴んで、手塚は激しく嗚咽を漏らした。それから数日。
手塚はベッドから出られなかった。
熱は7度から8度の間を行ったり来たりしていた。
風邪を引いたわけでもないはずだが、身体が重い。
食欲もなくなって、母親が心配して部屋まで持ってきてくれるお粥を少々口にするぐらいだった。
何もする気がなく、手塚はただ寝ていた。
「どうしたのかしらねえ。インフルエンザってわけでもないみたいだし………疲れが出たのかしらね?」
母親に心配されると、申し訳ないやら情けないやらで、また涙がこみ上げてくる。
まさか親の前で泣くわけにも行かず、手塚は、
「二、三日寝てれば大丈夫だと思います」
と、できるだけ平静を装って言った。
「そうねえ、国光は頑張りすぎるところがあるから、たまには休んだほうがいいかもね」
おっとりとした母親は、そう言って笑った。
「でも、食べ物は食べなきゃ駄目よ」
「すいません……」
母親に心配を掛けたくなくて、手塚は無理矢理お粥を喉に流し込んだ。二三日経つと、漸く微熱も下がり、怠さも取れてきた。
みんなどうしているだろう。
久しぶりに朝から起きて、遅い朝食をとりながら、手塚はそう思った。
火曜日から休んで、今日は金曜日。
四日休んでいることになる。
「学校の方には今日まで休むって言ってあるからね。来週から出られるでしょ?」
母親が、手塚に牛乳を持ってきながら言った。
「はい」
「でもすっかり治ったみたいだし、どうせだったらその辺を遊んできたらどう? あなた、いっつも真面目に学校行ってるから、たまにはいいんじゃない?」
「そうですね。……じゃあ、午後にでもちょっと本屋に行ってみます」
母親には心配をかけたくなくて、手塚は無理に笑顔でそう言った。午前中は部屋でぼんやりと過ごして、午後遅くなって手塚は外出した。
青学の方には行きたくなかったので、反対方向のバスに乗る。
立ち寄ったことのある書店に入って、ぱらぱらと参考書や雑誌を捲って気を紛らわしていると、ふと、写真の雑誌が目に入った。
季節の花々を特集した写真雑誌で、表紙になっている花に見覚えがあった。
それは、写真が趣味の不二が見せてくれた花だった。
(不二………)
途端に不二のことが思い出されて、手塚は胸が詰まった。
もう、不二の部屋に行くこともないのか。
あんな風に、二人きりで話し合ったり笑い合ったり、それから…………。
………二人だけの密やかな時間を過ごすことは、もうないのだ。
(……不二……)
もしかして、他に好きな人が出来たのだろうか。
それとも、単に俺が嫌になったのだろうか。
「…………」
どちらにしろ、不二とは二度と前のような関係には戻れないことだけは確かだ。
その写真に乗っている花と、同じ写真を見せてもらった時。
あの時初めて不二の家に泊まったのだ。
あの日は、不二がいろいろな写真を見せてくれた。
自分の好きな山の写真もあった。
そういうのをずっと見ていたら、不二がちょっと拗ねた。
『写真ばかり見てないで、僕のことも見てよ』
たしかそう言った。
思わず苦笑して、不二の方を見たら、不二が俺に口付けをしてきたんだ。
柔らかく甘い感触。
『好きだよ』
と耳元で囁かれたときの声。
あの時は、あんなに幸せだったのに。
「………………」
ポタリ、と涙が落ちて、雑誌を掴んでいた手の甲に落ちた。
雑誌をぽとりと落とすと、手塚は涙が流れるのを拭こうともせず、そのままにして書店を出た。
出ると、既に辺りは薄暗くなってきていた。
そろそろ家に帰らなければと思うが、家に帰って、また無理に明るい振りをして家族と話すのが辛かった。
もうあんな風に、自分を元気そうに見せることなど出来ない。
どうしよう。
菊丸の所にいこうか。
そう考えて、手塚は力無く首を振った。
菊丸だったら、自分を喜んで迎え入れてくれるだろう。
どんな自分でも、優しく抱き締めて、慰めてくれるだろう。
心の底から喜んで。
--------だからこそ、行けなかった。
菊丸の所へ行くのは簡単だ。
ここからバスに乗って、乗り換えなしで行ける。
行けば、何も言わなくても、菊丸は分かってくれるだろう。
どんな用事があろうと、自分の方を優先してくれるだろう。
………そんな菊丸の純情を利用するわけには行かなかった。
菊丸が、自分を心の底から愛していてくれることは、よく分かっていた。
学校や部活ではどちらかと言うと子供っぽいところのある、ともすれば我が儘な菊丸が、自分に対してだけは、大人びた人間になる。
手塚の気持ちを最優先して、とても気を遣ってくれる。
優しくて、頼りがいがあって、………だからこそ、利用することは出来なかった。
菊丸の事は、嫌いではない。
嫌いでないどころか、身体の関係まで持つほど好きだ。
菊丸に抱かれるのは、不快ではなかった。
身体が感じる快感という点で言えば、不二と同じだった。
けれど、手塚にとって、不二以外のどんな人間も、不二の代わりにはなれなかった。
不二でなくては、駄目なのだ。
不二だけが、自分を捉えて離さない人間なのだ。
手塚は俯いて、力無く歩き出した。
どこへ行ったらいいのか分からないままに、道路を歩く。
だんだんと周りが暗くなってきた。
街灯が点灯して、吹きすぎていく風も一層冷たくなった。
病み上がりで外を歩いているのは、無謀だった。
身体が熱っぽく怠い。
それでも、自宅に帰る気になれない。
ふらふらと、道なりにただ歩いていると、広い空間に突き当たった。
照明が昼のように輝き、ボールを打つ音が響く。
区営のテニスコートだった。
何面もあるクレーコートに、寒風をものともせず、数人の男女が元気良く試合をしていた。
手塚は、ふらり、とコートの脇の観客席に座った。
座って、ぼんやりとコートを見つめる。
楽しげに試合をしている若者達を見ていると、自分だけ別世界にいるような気がした。
一人で、誰もいない場所で。
永遠に一人きりでいるような気がした。
ひゅうっと風が吹きすぎて、手塚の髪を揺らした。
座って動かないでいると、手足の先からだんだんと感覚が無くなっていく。
寒いのか暑いのか、分からなくなった。
このままずっとここにいたら、死んでしまうかも知れない。
そう思って、手塚は目を閉じた。
別に、そうなってもかまわない気がした。
もう、考えるのも疲れた。
そのうち、コートの光が落ちたら、そうしたら帰ろう。
それまで座っていても大丈夫だろう。
今は立ちたくない。
なんだか、面倒だ。
(………不二………)
閉じた瞼の裏に、不二の柔らかな笑顔が浮かんだ。
出会った頃の、不二。
まだ中学に上がったばかりで、背も小さかった彼。
会ったときから、優しく微笑まれた。
あの笑顔が好きだった。
それが自分だけに特別に向けられるようになって、もう随分経つ。
その間に、何度愛し合ったのだろう。
俺と不二は。
これからも、ずっと愛し合っていけると思っていたのに。
信じていたのに。
不二--------信じていたのに。膝を抱えて頭を垂れた姿勢のままで、手塚は目を閉じて蹲っていた。
第2部跡塚編のプロローグ