陥穽 《1》
「あれっ、なんか俺一人になっちゃったじゃんか………」
夕闇の迫る青学のテニスコート。
いつのまにか最後の一人になっていた桃城は、大きな溜め息を吐いた。
その日桃城は、どうも調子が出なくて、部活が終わった後も自分で片付けをすると言う事で許可をもらい、コートでサーブの練習をしていた。
周りがだんだん薄暗くなってきて、蛍光色のボールも見えにくくなり、コートのそこかしこに散らばったボールを拾い集める頃には、既にコート周辺には誰もいなくなっていたという訳である。
「ちぇっ、越前ぐらい待っててくれてもいいのに……」
登校する時は、桃城はリョーマの家に寄っていって、自転車に乗せてやったりしている。
その割には帰りは、リョーマは一人でさっさと帰ってしまうことが多い。
(うまいヤツはいいよな………)
入学してすぐレギュラーの座を射止めたリョーマと違って、桃城は、人一倍努力しないとレギュラーの座を確保できない。
小さく溜め息を吐いて、桃城はボール籠を抱えた。
コートの出入り扉を閉めて、副部長の大石から預かっていた鍵を掛ける。
それから、薄暗くなった校庭を歩いて、桃城はテニス部の部室に戻った。「……………あれ?」
てっきり誰もいないと思っていた部室に、薄く灯りが漏れているのを見て、桃城はいぶかしんだ。
部室の窓がほんの少し開いているようだった。
そこから細く長く光が、黒々とした地面に伸びている。
(……誰がいるんだ?)
部活が終わってから、もう随分経つ。
着替えをして、少々雑談したとしても、とっくに皆帰っている時刻である。
何か、特別な用事で部室を使用しているのだろうか?
足音を忍ばせて、桃城はそっと窓から中を覗いてみた。
なんとなく、部室のドアから入るのが躊躇われたのだ。
窓から、片目だけで中を覗いてみて、
(…………ッ!!)
桃城は、息が止まるほど驚いた。
蛍光灯が半分だけ灯っているほの明るい部室内に、人が座っていた。
部室の壁際に沿って置いてあるカウチソファに、ゆったりと座っている。
桃城の眼からは、ちょうど横顔が見えた。
それは、不二だった。
しかし、桃城が驚いたのは、不二がいたからではなかった。
不二は、脚を投げ出してソファに座っており、その両脚の間に誰かが蹲っていて、しかも不二の足の付け根でその黒い頭が動くのが見えたからだった。
瞬間的にびくっとして、それから桃城は恐る恐る目を凝らした。
どう見ても、不二の脚の間で頭が動いている。
その頭に、不二が指を絡めて、髪の毛を弄っている。
不二は、少々喉を仰け反らせて、忙しく息を吐いていた。
何をしているのか、桃城にも瞬時に分かった。
不二が、誰かに………フェラチオをさせているのだ。
(…………嘘だろう……!)
桃城は自分の目が信じられなかった。
何回も瞬きをして、それからごくり、と唾を呑み込んで、もう一度見る。
何度見ても、やはり同じだった。
不二が瞳を閉じて、薄く笑いを浮かべている。
(不二先輩…………)
不二はいつもにこやかに笑っているが、その笑顔と、今目の前で浮かべている笑顔は全然違っていた。
今の不二は、桃城の知らない不二だった。
何かぞくっとするような、淫靡な笑顔だった。
(……………)
身体ががくがくと震えてきて、桃城は、気付かれないようにするのがやっとだった。
不二先輩が、部室であんな事をしてるなんて……………!
-------信じられない。
ああいう事する人だとは、全然思えなかった。
「ん、いいよ、……もっと………」
不二が、満足げに甘い声を出す。
びくっとして、桃城は不二を見た。
不二の白い指が、黒髪をまさぐるのが見える。
(……そういえば、一体誰が、不二先輩に………?)
桃城は、愕然としながらも、不二の両脚の間で動く黒い頭に目が行った。
不二が付き合っている女性でもあるのだろうか?
不二にそういう異性がいるとは聞いていなかったので、桃城は気になった。
聞いていなくても、不二も男だ。
そういう対象がいてもおかしくない。
それにしても。
(部室であんな事をさせるなんて………)
桃城は、恥ずかしさの余り、身体がかっと熱くなってしまった。
桃城自身は、全くそういう経験がない。
その手のことについては、耳学問として知っている程度で、実際にそういう場面を見たこともなければ、なんの経験も無かった。
こんな刺激の強い場面を、実際に自分の眼で見たことなど無かった。
それだけに、眼が離せない。
じっと息を殺して、桃城は窓の隙間からひたすら中の様子を盗み見た。
「ふふ、うまいね。……手塚…………」
その時、不二が熱く息を吐きながらそう言ったので、桃城の心臓は跳び上がった。
(てづか………!?)
思わず掴んでいた窓枠の音を立てそうになって、必死で身体を鎮める。
「イくよ……?」
不二が、掠れた声で囁いて、脚の間の頭を鷲掴みにした。
不二の身体がびくり、と痙攣して、桃城の眼にも、不二が絶頂に達したのが分かった。
ドキンッ、と不二と連動して自分まで鼓動が跳ね上がる。
「……ありがとう」
達して満足したのか、不二がふうと軽く溜め息を吐いて立ち上がった。
桃城の眼に、それまで不二の脚に遮られて見えなかった、脚の間の人物が飛び込んできた。
(……………部長!)
それは、確かに手塚だった。
床に膝を突いて、俯いて、唇を拭っている。
眉を顰めて、苦しげに肩で息を吐いている。
不二に掴まれた髪が乱れて、額や頬にかかっている。
桃城は、自分の眼が信じられなかった。
確かに、目の前に手塚がいる。
そして、今の今まで、手塚は、不二に口淫をしていたのだ。
-------そんな、バカな!
俺は、夢でも見ているのか…………!
「ちゃんと飲めるようになったね、手塚………」
服の乱れを直しながら不二が言ったのが、桃城の耳に入った。
「…………」
手塚が俯いて、顔を背ける。
無言のまま立ち上がって、肩にテニスバッグを掛けるのを見て、桃城は我に返った。
二人が、部室から出ようとしている。
このままここに立っていたら、見付かってしまう。
身体はがくがくとして、まるでロボットのようだった。
それでも必死に、桃城は足音を殺して、部室の窓から離れた。
部室の裏手の立木の陰に隠れて、二人が部室から出てくるのを見守る。
ほどなくして、手塚と不二が部室から出てきた。
不二が機嫌よく話しかけ、手塚は押し黙ったまま歩いている。
二人の姿が校門の向こうに消え、しんと静寂が戻ってくるまで、桃城は立木にしがみついた格好で隠れていた。
震える身体を宥めながら、部室の鍵を開けて中に入る。
灯りを点けるのも躊躇われ、桃城は暗がりの中で自分のバッグと制服を手に取った。
そのまま、着替えもせず部室を出る。
震える手で鍵を掛け、そのまま逃げるようにして桃城は自転車置き場へ走った。
胸が破裂しそうだった。
なんと表現していいか分からない感情が、心の中を占めていた。
嘔吐感が込み上げてきて、桃城は自転車に飛び乗ると、力一杯ペダルを漕ぎ始めた。「オイ、危ねえぞ!」
横断歩道で、乗用車の運転手から荒い声を掛けられる。
それにも構わず、桃城は必死でペダルを漕いだ。
いくら漕いでも、前に進まないような気がした。
胸がムカムカした。
吐いてしまいそうだった。
いくら首を振っても、さきほど見た光景が脳裏に再現されて、桃城を苦しめた。
不二の脚の間で動く、手塚の黒い頭。
淫猥な雰囲気。
不二の、-----声。
「……くそっ!」
桃城は何度も何度も悪態を吐いた。
久しぶりに手塚受難話。