陥穽 《2》
「どうしたの、武? 珍しく食欲無いわねえ……」
夕食時に桃城の好物のカツを出したにも関わらず、桃城がそれを残したので、母親は心配した。
「どこか、具合でも悪いの?」
「なんでもねえよっ! ごちそうさまっ!」
母親に心配されるのが心苦しくて、桃城は短く言うと、ガタン、と椅子の音を立てて立ち上がった。
いつもと違う兄の様子に、小学校に通う弟妹がびっくりしたように桃城を見てくる。
その視線も煩わしくて、桃城は、それから眼を背けるようにしてリビングを出た。
「どうしたのかしらねえ……」
母親の困惑した声が聞こえる。
「お兄ちゃん、機嫌悪いみたい……」
妹のあどけない声も聞こえて、桃城は胸が痛くなった。
荒々しく階段を駆け上がって、自分の部屋に駆け込む。
ベッドにどさり、と倒れ込んで、桃城は溜め息を吐いた。
ごろり、と仰向けになって、天井を睨む。
乳白色の壁紙が張られた天井に、さっき見た光景が浮かび上がってきた。
(……………)
胸がむかむかする。
どうしてこんなに気分が悪いのだろう。
別に、部長や不二先輩が自分に何をしてきたという事でもない。
あの二人は、きっと付き合っているんだ。
二人きりで、こっそりやっていた事だ。
自分が口を挟むようなことじゃない。
そう思いこもうとするものの、どうしても桃城は、澱のように心の底に蟠りが消えなかった。
それにしても、全く気が付かなかった。
部長と、不二先輩…………一体、いつからああいう関係だったんだろうか?
少なくとも、部活の時は依然と変わりのない二人だった。
手塚は部長として、不二は3年のレギュラーとして、真面目に部活をしていた。
手塚は部員を纏める役としていつも超然とした感じだったし、不二は、穏やかな雰囲気の、大人びた先輩だった。
それなのに。
あの、二人きりで部室にいたときの不二は、まるで別人だった。
手塚に、当然のように口淫を要求して、まるで王様然とした態度で奉仕させていた。
手塚は手塚で、部活の時の冷然とした様子は欠片もなく、不二に命令されて、唯々諾々と従う下僕のようだった。
「部長…………」
なんともいえずムカムカして、桃城はシーツに顔を埋めて呟いた。
自分でも、どうしてこんな気持ちになるのか分からなかった。
気持ちが、悪い。
-----------コンコン。
その時、部屋の扉をノックする音が聞こえて、桃城はぎくっとした。
「武……?」
ドアの外で、母親の声がした。
「……具合悪いの?」
「違うよ、大丈夫だよ……」
母親に心配させているのが心苦しくて、桃城は立ち上がるとドアを開けた。
「風邪でもひいたんじゃないの?」
「大丈夫、なんでもないよ……」
「………そう?」
母親が、桃城の顔を窺うように見る。
「大丈夫なら、お風呂入って、寝なさい」
「うん、そうする……」
パジャマと着替えを取り出すと、桃城は溜め息を吐いて部屋を出た。ふと気が付くと、桃城は、部室の窓の外に立っていた。
(あれ、ここは…………)
今日、自分が覗いた場所だ。
「手塚………」
中で、声が聞こえた。
どきん、と胸が鳴って、桃城は声のした方を見た。
窓が開いていて、中がよく見えた。
覗くと、不二がソファに座っていた。
両脚の間で動く、黒い頭も見えた。
「そう、うまいね………」
不二が、笑いを含んだ声を出す。
同じ場面に、桃城は息を呑んだ。
「フフフ………」
その時、笑いながら、不二が窓の方を向いてきた。
不二と眼が合って、桃城はぎょっとした。
不二が、瞳をすうっと細めてきた。
くらりと眩暈がして、桃城は思わず蹌踉めいた。
頭を振って、それからまた不二を見て、桃城は愕然とした。
そこに座っているのは、不二ではなかった。
自分だった。
自分が、部室のソファに座って、窓の外の自分を見ていた。
ソファに座った自分の脚の間で、手塚が口淫をしている。
血の気がさっと引いて、背筋に冷たい水を浴びせかけられたように桃城は青ざめた。
「なんだよ、入って来いよ?」
部屋の中の自分が、にやにやしながら、窓の外の自分に声を掛けてきた。
「おまえもやってもらいたんだろう、こういう風に、部長にさ?」
中の自分がそう言いながら、手塚の髪をぐっと掴む。
手塚が低く呻いて、身体を震わせた。
中の自分が、手塚を離して立ち上がる。
桃城は、放心したような手塚の唇から、白い液体が滴り落ちるのを見た。
-----------ヅキン。
心臓が、痛いほど跳ね上がった。
「ほら、やってもらえよ?」
中の自分が、近付いてきた。
どんどん、近寄ってくる。
「………い、いやだっ!!」黒々とした天井が目に飛び込んできて、桃城ははっと我に返った。
どきどきと、鼓動が全身に鳴り響いている。
はぁはぁと激しく息を吐きながら起きあがると、そこは自分の部屋のベッドの上だった。
(夢か…………)
全身に汗をかいていた。
それが冷えてきて、パジャマが湿って不快だった。
「……………」
胸が吐き出しそうにムカムカしていた。
胃液が逆流してきそうだった。
眼に汗が流れ込んでくる。
ごしごしと目を擦って、桃城は手元のタオルを取った。
冷たく張り付いたパジャマを脱いで、汗を拭く。
(………………!)
下半身がじっとりと湿っているのに気が付いて、桃城はぎょっとした。
下着が粘液で汚れていた。
幾分冷えて、その分張り付いてきて、脱ぐと精液特有の匂いがした。
喉元まで胃液が迫り上がってきて、桃城は胸を押さえた。
鼓動が、まだ激しく胸を上下させていた。
(俺は……………)
よろよろと起きあがって、下着を脱いで、箪笥から別の下着を取り出す。
パジャマも着替えて、汚れた服を床に放り投げて、桃城は唇を噛んだ。
(どうして、こんな夢………)
夢の中で、不二が自分になっていたことがショックだった。
手塚の唇から滴り落ちていたのは、自分の精液だった。
(俺は…………?)
頭が混乱する。
自分は、不二と同じ事をしたいのだろうか。
----------まさか………!
俺は、部長の事を尊敬している。
あんな事、絶対にやってもらいたいなんて、思わない。
あんな、汚らわしい……………!
何度も心の中でそう言うものの、自信がなかった。
自分も、もしかして、部長を…………。
まさか………!!
桃城は激しく首を振った。
ベッドに潜り込んで、布団を頭まで被る。
目を固く瞑って、心の中で数字を数えて、必死で頭の中から不埒な妄想を追い出そうとする。
脳裏に浮かぶ光景を、必死で打ち消そうとする。しかし。
桃城は、その日結局朝まで眠れなかった。
この話は桃城が主人公で進みます。